殿下の言葉はずっと私の体内に留まって、今も私を殴り続けている。クロードくんと他愛もない話をしていても、一人お父様に手紙を書いていても、部屋で祈りを捧げても。
なんていうか、お腹の真ん中に突き刺さったまま浅い部分でずっと抜けずにいる刀身が、そのまま放っておかれている感覚に近い。それは私を死なせない程度に痛めつけた。ふとした瞬間にその存在を思い出すというよりは、朝から夜までじくじくと痛むせいで、一時たりとも意識の外におくことができない類のものだった。
朝目が覚めて、寝台の中で、今日までに起きたすべてが夢じゃないことを思い出す。食事を摂りながら、無意識に食堂を行き交う人たちの中に殿下の姿を探していることに気がついて、打ちのめされたような気になる。帝国との間で戦争は起ころうとしているし、殿下は今も、誰一人寄せ付けないまま一人大聖堂に佇んでいる。それらはどうしたって覆ることがない。
ぼんやりと歩いているとき、すれ違う生徒の話す「あの子は自領に帰るって聞いたけど」という言葉に息が止まった。殿下の「ラルミナに帰れ」を思い出して、ひっそりと胸の痛みに堪えていた。
どうしようもない。だって、帰る気なんかないのだ、私は。例え殿下に困ると言われても、遠くに行ってくれと突き放されても、私は今更ガルグ=マクから離れるつもりはなかった。
帝国軍は二週間程度でガルグ=マクに到達するだろうという報せを、偵察に行っていたシャミアさんたちがもたらしたのは、数日前のことだ。
そのためにガルグ=マクは今、また一段階平時から先に進んだような、殺伐とした空気に包まれている。外郭都市に残っていた住民も、近隣の村々に住まう人たちも、戦に巻き込まれる現実が眼前にまで迫っていることを受けて、住み慣れた家を離れる準備を進めているらしい。彼らの避難を指示するのだって、セイロス騎士団の仕事だった。ガルグ=マクの防備、その準備に割く時間は限られていた。ガルグ=マクの外で戦うために布陣を敷くこともできないくらいに。私にも分かるくらい、教団は後手後手だった。それはもう、どうしようもないことだった。
こんな風に大修道院全体が混乱しているこの状況で、全てを置いてガルグ=マクから逃げ出すことは私にはできなかった。まともに戦えなくたって、力になれることはあるはずだったし、それにどうしたって、やっぱり殿下が心配だったのだ。あんな風に様子の変わってしまった殿下に、私だけでなくドゥドゥーくんやフェリクスくんとも距離を置こうとする殿下に、自分の知らないところで戦ってほしくはなかった。
殿下はきっと無茶をするから。
私では殿下の役には立てないことも、殿下が私が傍にいることを望んでいないってことも、もう私が心配していいことではないっていうのも、分かっているけれど。
先生と偶然出くわしたのは、教室だ。
殿下とのことから数日が経っても何をするにも手持ち無沙汰で、誰も居ない教室でぼんやりしていたら、そこにベレト先生がやって来たのだった。
「……ああ、か」
驚いた、って、特に動揺のない声色で先生は言うから、私は慌てて「ごめんなさい、驚かせてしまって」と口にした。先生は、教室には誰もいないと思っていたのかもしれない。昼下がりの教室は(金鹿の学級からは人の気配があったけれど)いつもと違ってずっと静かで、薄暗かったから。
「……先生が驚かないよう、何か音をたてておくべきでしたね」
「…………例えば?」
「……激しい独り言とか?」
思わずそう返せば、先生はちょっと間を空けて、それからその眉尻を微かに下げた。小さく笑ったようですらあったけれど、先生は、多分本当に笑ったんだろう。ジェラルトさんを失って、その仇であるクロニエたちを倒して、それでようやく、先生は前みたいに、微かな感情を表に出してくれるようになっている。
先生は教壇に何か忘れ物をしたみたいだった。授業がずっとなかったことを考えたら、それは忘れ物っていうよりは、そこにあるものの確認や整理、って言う方が正しかったのかもしれない。教室の前方にあるそこに立ち、暫くの間書物の整理をしている先生の背にある窓から、白んだ光が注がれている。穏やかな春の陽光と呼ぶにはまだ少し寒々しいけれど、それは薄暗い教室の中で、先生の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。私たち以外に誰もいない、静かな教室だった。先生の伏せられた長い睫毛を、私は息を潜めて見ていた。そうしていると、ここで過ごした一年がまざまざと蘇った。あの春からもう一年が経つなんて、本当に、信じられない。一方でもう戻れないものが今ここにあるのが、不思議で仕方なかった。今この瞬間が、まるで授業を受けていた頃みたいだったから。
先生の、色素の薄くなってしまった髪は微かに発光しているようで、私はそれを視界の真ん中に入れていると、一人でどこかに取り残されてしまったような気になる。さすがに一節と少しが経って、最初の頃よりは見慣れたはずなのだけど――。そう思っていたら、先生が不意に、「まだ慣れない?」と、目線も上げないまま私に尋ねるものだから、私はすっかり慌ててしまった。先生は時々、心を読むみたいに鋭い。
「そ、そんなことはない、はず、です、多分」
時折目が離せなくなるだけで。
先生は「そう。それなら良かった」って短く答えて、それからまた、教書の整理に戻ってしまった。
先生はここ最近、ずっと忙しそうだった。女神様の力を授かった先生はレア様方セイロス聖教会にとって他にはない存在だし、女神の遺産に匹敵する力を持った武器を操ることができる以上、帝国軍との戦いにおいても八面六臂の活躍が期待される。そんな先生なんだから、他の人よりも行動が制約されたり、忙しかったりするのは当たり前だろう。
もしかしたら、先生とこうして二人になれるのは、もうこれが最後かもしれないな。先生の姿を視界に置きながら、そんなことを考える。そうしたら、何だか急に居心地が悪くなってしまった。胸の内側がどくどくと音を立てて、身体中の血の流れが悪くなったみたいに、ぎゅうって締め付けられる感覚があった。
殿下以外の皆は、この時間、大体訓練場にいる。騎士の国であるファーガスの出の皆は、元々稽古に精を出す人が多いから(偏見かもしれないけれど、フェルディアの近隣である北東部に住まう人は特にそういう傾向がある気がする。)でも今はそこに、アッシュくんやアネットちゃん、メルセデスちゃんも加わっている。皆が皆、来る帝国兵に立ち向かう準備をしている。
私だけ。
私だけがこうして、殿下に言われた言葉を引きずって、どこにも行けずにいるのだ。
そしてそれは、殿下だって同じだった。
「…………」
無意識に唇を引き結んでいた。椅子に座ったまま膝の上で作った拳が、微かに震えていた。
呼びかけたわけではなかったのにもかかわらず、先生が手元から顔をあげて私を見たのは、多分、私の視線が酷く粘っこかったせいだ。先生は私のことをじっと見て、それから一度、はっきりと瞬きをした。「……どうかした? 」って、そう言って。
私は、先生に教えてほしかったのかもしれなかった。自分がどうすべきか。大丈夫だって言ってほしかった。話を聞いてほしかったのかもしれなかった。私のことを今まで何度も助けてくれた先生に。その不思議な力で、何度も私を死から遠ざけてくれていただろう先生に。
そうしてできたら殿下を救ってほしかった。