「あれ? ……なんだ、もガルグ=マクに残ってたのか」



 前節から借りっぱなしだった本があることを思い出して書庫に行ったとき、先客であったクロードくんにそう声をかけられて、私は憚らずに眉を寄せてしまった。
 昨夜殿下とのことがあったばかりで、目は腫れぼったくなっていたし、そもそもそれ以前に人と話をするような余裕がなかったのもある。向けられた言葉がそれだった、っていうせいも、勿論あるんだけど。それでついうっかり、目も合わせないままに「私って、そんなに残ってちゃだめなのかな」なんて可愛げのない言葉を口にして、クロードくんの首を「うん?」って傾げさせてしまったのだ。
 言ってから、あ、と思った。これは本当に良くない。いくら昨日からまともに眠れてなかったとしても、もやもやを内側に抱え込んで黒々とした泥に熟成させてしまっていたからと言っても、クロードくんがそのもやもやの原因そのものにその爪先をうっかり触れてしまっていたとしても、表に出すべきじゃなかった。だってこれは私の問題で、クロードくんには全然関係がないことなんだから。
 一度はクロードくんの前を通り過ぎかけたけれど、書庫の奥へと向かおうとしていた足を止める。



「……ご、ごめんなさい、ちょっとカリカリしてて。……当たっちゃった」



 本を抱いたまま、今度はきちんとクロードくんに向き合って謝罪すれば、クロードくんはややあってからその眦を細めて、息だけで笑った。私の良く知るクロードくんの、人好きのする、いつもの笑顔だった。



「なんだ。俺は今、お前に当たられてたのか? そいつは気付かなかったな」

「そ、そんなことないでしょ……。ええと、ごめんなさい、本当に」

「はは、気にするなって。誰だってカリカリもするよな。こんな状況じゃ」



 その言ってもらえたことでほっとする。クロードくんは「俺も無神経なこと言ったみたいだな。最近を見かけてなかったから、知らないうちに家に帰ったのかと思ってたんだよ」と思いやるような口調で続けてくれるから、私は益々申し訳なくなってしまった。



「なんにせよ、話せてよかった」



 士官学校が学校としての体裁を保てなくなった以上、自領に戻る人がいないわけではない。私だって殿下やイングリットちゃんたちとここまで親しくなっていなければ、その選択を取ったとも限らないだろう。だって、訓練された帝国兵との戦いにおいて自分ができることって、この身を投げ出して盾になるくらい、ほとんどないんじゃないかって思うから。



「お前がいると、困るんだ」



 そんなことを考えていたせいか、不意に昨夜の殿下が蘇って、思わず息を止めた。そう、私って足手纏いなんだ。戦場にいると、それだけで殿下を困らせてしまうくらい。
 一人でずうんと暗い気持ちになってしまいそうになって、慌てて首を振った。クロードくんに見られていないといいんだけど、どうだろう。
 クロードくんは、私と同じで書庫に借りていた本を返しに来たところだったらしい。



「ここで過ごせるのも長くはないだろうし、だったら前に読んだ本にもう一回目を通しておくのも良いかと思ってさ」

「勉強熱心だね」

「そうでもないさ」



 帝国との戦を前に警戒を強めているガルグ=マクで、クロードくんみたいに普段通り勉学に励んでいる人も珍しいだろう。ただただ返却しそびれていただけの私からすると、彼の存在はやけに眩しく見えてしまう。
 クロードくんは私が本を書棚の定位置に戻すのを、わざわざ待っていてくれた。寮に戻るなら、一緒に行こうって、そう声をかけてくれて。上手い断り方がわからなくて、頷いた。だけどそうしながら、誰かと一緒に居た方が気持ちが楽かもしれない、って、思い直した。殿下の言う通りに、このまま一人ラルミナに帰るつもりはないからこそ。
 天井近くまで隙間なく並ぶ本たちは、一年という月日を共に過ごしても尚私を圧倒する。収まるべき場所に収まった本は、数歩離れると、もうどれが私の手元にあったものなのかも分からなくなってしまうくらいだ。
 人気のない書庫は、湿った紙の匂いに包まれていていた。もしかしたらもうここに来ることもないのかもしれないと思ったら、無性に寂しいような、心細いような気持ちになった。








 エーデルガルトのセイロス聖教会への宣戦布告に驚かない人間なんか、いなかっただろう。
 戦を起こすための兵の増強に必要な金策は勿論、帝国内における反エーデルガルト派への処遇にしろ、挙兵までの手際の良さにしろ、エーデルガルトがフォドラの勢力図を塗り直すため、それなりの年月をかけて準備していたのは間違いない。おかげで教団は後手後手だ。騎士団をまとめるジェラルトさんがいない、っていうのも大きな痛手だろう。
 この状況は、大分まずい。
 シャミアさんら密偵が帝国へと向かい情報を集めているとは言うが、それでこちらに利があるものがもたらされることはないのは分かりきっている。帝国は「悪しき教会を打ち砕くため」に兵を動かす。結果、ガルグ=マクは遅かれ早かれ戦場になるはずだ。エーデルガルト率いる帝国軍と、セイロス騎士団の戦いは、苛烈なものになるだろう。
 世話になった学び舎だし、見捨てて逃げるのも寝覚めが悪い。周りにはそう主張してここに残っているわけだが、正直に言えば「ここまで強引にことを進められては困る」というのが本音だった。こっちだって野望のため、色々と計画を練って動いてるのだ。エーデルガルトに台無しにされてはたまったもんじゃない。ここであいつを止められる可能性が少しでもあるっていうんだったら、それに懸けるべきだと考えたのだ。このままあいつを野放しにしては、今度こそ俺の野望は破綻する。
 しかし、それはそれとして、どうにも分からないことが多かった。先生たち青獅子の学級の連中が向かった聖墓。エーデルガルト率いる帝国軍があそこまで派手に聖墓に乱入してまで欲したものは一体何だったのか。女神の力を授かったっていう先生は、一体何者なのか。――それに、ディミトリの様子がおかしいのも気がかりだ。これまでは声をかければ雑談くらいは応じてくれるやつだったが、エーデルガルトがガルグ=マクを去って以来、俺とは目すらも合わせない。それも一時ではなく、今に至るまでの間ずっとだ。時折大修道院で見かける青獅子の学級の連中の顔色だって、それぞれ程度の違いはあれ、芳しくはなかった。外側から探ろうにも、骨が折れるだろうことは目に見えていた。
 それはも例外ではない。



「わ」



 階段を下りて、教室棟のある方に曲がり、外に出た途端、春めいた風が俺達を襲った。背中の外套が持って行かれるくらいだったから、結構な強風だったことには違いない。の髪やら制服の下衣やらが浚われるのを視界に入れながら、陽の光の下だと余計にわかるな、とぼんやり思った。書庫にいたときから気にはなっていたが、の目は、一晩泣き腫らしたみたいに腫れて、赤い。
 「今日、風すごいね」ぼさぼさになった髪を整え、はぼやくように言う。



「夜はまだ寒いし、この時期って案外過ごしにくいなあって思う……空気も乾燥してるし」

「そうか? これくらい、乾燥してるうちに入らないだろ」

「リーガンはもっと乾燥してるの?」

「ん? うーん、どうだったかな」

「ええ、なにそれ」



 俺が適当にあしらったのに笑うは、その瞬間だけ少し肩の力が抜けたように見えた。前節までが見せていたのと同じ笑顔に、安堵の気持ちが芽生える。
 とりとめもないことを話ながら並んで歩いていると、ここが後に戦場になるだろうということがどうにも不思議に思えた。青い芝生は陽と風とを受けて、光の粒子を惜しみなくばらまいていたし、訓練場には恐らく手持ち無沙汰な生徒たちがいるのだろう、人の、濃い空気がある。そこだけ切り抜けば、まるで何も起きなかったようなのに、現実はそうではない。
 俺との会話が途切れた直後、は、何かを考えるようにその唇を緩く引き結んだ。思案げに伏せられた目は、前方ではなく、地面へと落ちていた。悩み事でもあるんだったら聞くぞ、その一言が軽率に言えないのは、学級が違うからだ。俺がベレト先生でも、ディミトリでもないからだ。責任を負うべきときでなければ、踏み込めなかった。彼女の方から俺に助けを求めない以上。
 それでもその丸くなった背に声をかけてしまったのは、俺の我慢が足りないせいだろうか。自分の足元だけを見つめる彼女に、少しくらいこっちを見たら良いのにと思ったことは否定しない。しかし崖下から吹き付ける風に飲み込まれた声は、には届かなかった。もしもこの時が振り向いていたら、何か少しくらい、俺達の間に落ちているものも変わったのかもしれないが。


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