俺の作る肉塊の轍をお前が踏むことのないように。
もうおしまいにしよう、って殿下が言ったとき、私はその言葉を最初、音の連なりとしてしか認識できなかった。
「おしまい」
私に背を向けたままの殿下に、確かめるように、そう口にする。それはそうしてみて初めて、私の中に一つの実感を伴って染みこんでいった。おしまいにする、っていう言葉が示すものなんか、だって、私たちの間には一つしかなかったから。
私たちがもう恋人でいることをおしまいにしようって、そういうことだ。
大聖堂の周囲には、その時、本当に音という音がなくなったみたいで、私は自分の鼓動とか、呼吸音とか、そういうものしか感知できなくなっていた。背後から殴られたみたいに頭がぐわぐわと揺れていて、次の言葉を探せない。何か言わなくちゃいけないのに、どうしたらいいかわからないのだ。「おしまい」と口にしたきり、全ての声の元になるものが、私の中から永遠に失われてしまったみたいだった。
厳密に言えば。
厳密に言えば、私は実際のところ、この大聖堂に向かう道中、殿下にそういう類のことを言われる可能性があることを、頭の片隅に留めていた。だって、聖墓での一件以来、殿下は私や皆を遮断して、ずっと何かを思い詰めているようだったから。
一人大聖堂に立ち尽くし、授業がないとは言え、訓練場にも教室にも姿を現さない。それはこれまでの殿下とは、明らかに様子が違った。だから、動揺するなんて、本当だったらおかしかった。私は殿下の内心を汲んで、覚悟しておかなければならなかった。悪足掻きなんかせず、ただ殿下の言葉を待つべきだった。これまでそうしてきたように、殿下の選ぶ道を見守らなければならなかった。殿下が私を置いていくと決めたなら、大人しく引き下がらなければならなかった。
どれだけ苦しくても。
「わたし」
喉の奥から漏れたのは、からからの声だった。
中身が詰まっていない、皮だけでできた円柱に空気を通したみたいな、弱々しい声。それが自分の口から出ていることが、信じられなかった。殿下は振り向かない。初めて出会った春、その後ろ姿を見ていたときよりも、今それは、ずっと遠くにある。食い下がっちゃだめだ、感情を出しちゃだめだ、って思うのに、どうしようもない、身体の奥底から溢れる熱の抑え方を、だって私は知らない。
元から成就するなんてことはありえない恋だったのに。
私は特別に容姿が整っているわけでもないし、何か他に秀でたものを持っているわけでもない。剣もまともに振れなければ、ガルグ=マクでは何をやらせても真ん中か少し下くらいだ。家柄だって、他の貴族家に比べれば見劣りする。殿下と並ぶのに私が相応しくないことくらい、誰が見たって明らかだった。私自身が一番分かっていたのだ。この夢みたいな日々にはいつか必ず終わりがくるって。私は帝国の、前皇帝に見初められ妃となったアランデル家の御令嬢にはきっとなれない。殿下にとって、国にとって、それだけの価値が私にあるだなんて思っていない。私はいつか、殿下が殿下に相応しい女性の手を取るだろうことを覚悟していなければならなかったし、だからこそ、こうやって突然終わりが来ることだってあるだろうって、心の隅では思っていた。それが想像よりも早かっただけだ。それがなんだって言うんだろう。
そもそも私は最初から殿下の隣にいていい人間じゃなかった。分かっていたなら尚更、潔く殿下の言葉を受け入れなくてはならなかった。
でも、それでも。
私が作った沈黙に紛れるように、その時殿下が息を吸った音がした。「お前は」って、一度そこで言葉を止めて、それから。
「……お前はこのままガルグ=マクを出て、ラルミナに戻るんだ」
そう殿下は言った。ほとんど突き放すような、にべもない声だった。
「いやです」
なのに、ほとんど反射的に私の口から出たのは、そんな言葉なのだ。
殿下の頭が、何かに反応するように動いた。それが滲みはじめた視界で分かった。だけど、振り向いてくれない。私の言葉を待つみたいに、その髪が微かに揺れている。そういうことはかろうじて判断できるのに、私は自分を制することができなかった。理性を飲み込む巨大な感情に突き動かされて、殿下の背に訴えてしまった。「いやです、私、殿下の傍にいたいです」水分を多く含んだ声が、高い天井の大聖堂に響いているのに、殿下はそれでも何も言ってくれない。
「わ、私、戦います、帝国軍と、最後まで。力不足でも、私にだって、殿下の盾になるくらいはできます」
そう言葉を並べながら、私は、本当に嫌だと言いたいのは、「おしまいにしよう」の方だったのだと考えていた。「殿下の傍にいたいです」って言ったのだってそう。仲間としてではなくて、恋人として傍にいたかった。なけなしの理性が、正直にそれを伝えることをさせないだけだった。
私は殿下が好きだった。殿下の「特別」を手放したくなかった。殿下のために物分かりの良い人間でなくてはならないって利口なふりをする自分と、殿下の言葉全てに首を振って泣き喚き、その理由を問い質したい自分とが混在して、どうしたらいいのかもわからなかった。
ぼろぼろと両の目から溢れて止まらない涙は、手の甲でどれだけ拭っても止めどなく床に落ちていた。熱が籠もった頭はぐらぐらして、正常な思考をさせてくれなかった。ただそんな中でも、ドゥドゥーくんが私に尋ねた「お前はどうしたい」の答えだけは、確かにあったのだ。
「殿下がエーデルガルトさんを憎まれるのなら、私も殿下と一緒に」
一緒に復讐を、って。
そのとき初めて、殿下が私に振り向いた。
殿下の顔が涙で見えなくて良かった。冷静に状況を把握させてくれなくて良かった。殿下が何を考えているのか分からない方が、きっと良かった。
「…………お前がいると、困るんだ、」
聞いた事も無いくらい悲痛な声だったから。「これ以上俺の近くにいないでくれ」って、殿下は私を拒絶する。
「俺の目の届かないところに行ってくれ」
頼むから、って。
涙でぐちゃぐちゃになった視界では、殿下の表情はわからなかった。だから私を蔑むような顔をしていたのかもしれない。分からない。
殿下がこの一年ずっとその背に負っていた、目の覚めるような青だけが、記憶に強く残っている。
いつの間にか、大聖堂の外はすっかり日が暮れていた。
いくら春が近づいているって言っても、日の出ていない時間帯は冷える。濃紺と薄い紫の混じり合ったような空に、黒い雲が浮かぶ様をぼんやりと眺めながら歩いていたら、身体の芯からぞくりと寒気がした。髪を耳にかけていたせいで、剥き出しになった耳朶が冷たい。手を伸ばして髪を払い落としたとき、地面に落ちた一人分の影が、妙に頼りなく見えた。
どうにもならなかったのかな、と、考える。
外の風は冷たくて、火照った身体も頭も、私の全部を冷やしてくれた。地面を擦るような足音が未練がましく聞こえるのが嫌で、いつもより大きく一歩を踏み出そうとするのに、ともすれば足がもつれて転びそうになる。橋を抜けて大広間のある建物に足を踏み入れたとき、自分以外の人の気配に安堵していいのかどうかもわからなくて、小さく息を吐いた。
どうにもならなかった。
泣き腫らした顔を人に見られるのが嫌で、恐らく人のほとんどいないだろう教室棟の方へと曲がった。そんな矢先、信徒の人とすれ違うのを、そっと目線を落としてやり過ごす。彼女が今大聖堂へ行かないといいな、と、頭の片隅で考える。大聖堂にはまだ、殿下がいる。
どうにもならなかった。どうにもならなかった。
殿下はあの後私に背を向けて、それ以上何も言ってくれなかった。その沈黙は、先の、殿下が話を切り出す前のそれとは違った。完全な拒絶だった。そうして私を膜の外側に追い出した殿下に、一体何が言えただろう。結局私は、殿下の背にお辞儀をして、大聖堂を出るしかなかった。
さっきのことを思い出すと、一度止まった涙が不意に零れそうになるから、慌てて顔を上に向ける。廊下を照らす燭台の灯りに目が眩んで、ぎゅうと目を閉じる。そうすると瞼の裏に殿下の困ったような笑顔とか、慈しむみたいな柔らかい瞳が次々と浮かんで、息が詰まった。殿下の骨張った指の感触とか温度は私を容赦なく殴りつけていくから、どうしようもなかった。
ラルミナに戻れと言われた。
目の届かないところに行ってくれと言われた。
それで、もうおしまいにしようって。
胸も、目も、鼻の奥も、全部が全部痛くなる。前のめりに倒れ込んで、身体を丸くして、小さくなってしまいたかった。けれどそうしたところで、この痛みはなくならない気がした。
私は殿下が好きだった。あんな風に拒絶されて背中を向けられても、それでも殿下が好きだった。