そうなる前に俺から解放されるべきだった。








 大聖堂に立つ殿下の背は、遠かった。
 殿下は私に決して振り向かなかった。沈黙の中、時折微かに、ほとんど俯くようにその頭を動かした。金糸のような髪が天井からの光を受けて緩く光るのを、私は息を潜めて見ていた。
 私は殿下が何を考えているのか、その細かなところまでは分からない。けれど殿下の心が、今ここではなく、どこか遠くにあることだけは、何となくわかった。
 エーデルガルトさんが炎帝その人であると判明してからだ。殿下は自分の皮膚の外側に、間断のない厚い膜を作った。誰もを近づかせなかった。殿下はいつも大聖堂にいて、その膜で自分と全てを遮断した。
 そんな殿下が私に「話がある」と言う以上、考えられることって、多くはない。
 お腹が差し込むように痛む。祭壇の前で立ち尽くす殿下は、それでもその「話」をすぐには私に切り出そうとしなかった。それは、言葉を選んでいるとか、考えをまとめているとか、そういうのとは違うように見えた。殿下の中にはもう明確な答えは出ているけれど、口を開かないだけ。結論も、それを伝えるための言葉も決まっているのにもかかわらず、ただじっと堪えているだけ。――そう言った方が、正しいみたいだった。その沈黙は私に、罰を宣告される直前の、罪人の心境を想像させた。



「……………………殿下」



 私がもう一度呼びかけたのは、私の方がどうしたらいいのか分からなくなってしまったからだ。
 何か話をしてほしかった。そうして私が見ているこの静けさの先にあるものを、できたら否定してほしかった。それでも殿下は振り向かない。
 唇を引き結んで、それから緩く噛む。言葉を探して、それから、そっと息を吐く。



「……その、……もうすっかり、春ですね」



 日の翳った夕暮れ、人気のないまま体感温度だけが下がっていく大聖堂の中で言うには、きっと相応しくはなかった。
 殿下に私の声が届いていないことは、ないだろう。だけど殿下は身動ぎの一つもしない。



「……もう今年も終わるなんて、なんだかあっという間な気がします。ついこの間、皆で野営訓練に行ったばかりみたいなのに」



 あれから一年経つなんて、って。一つ一つ確かめるように口にする。殿下に何も、答えてもらえなくても。相槌すらも打たれなくても。私はただ、殿下との間に横たわった空白に色をつける。そうでもしなければ、私はこれ以上ここに平気な顔で立っていられる気がしなかった。
 そっと深呼吸をしたら、それは思いのほか、大きく大聖堂に響いた。けれどもう、咳払いなんかもする気はなかった。取り繕うことなんか、もう必要ない気がした。私は口を開く。返事一つしてくれない殿下に一方的に話し出す。自分を延命させるみたいだった。三節前の夜が、もうどうしようもなく遠いから。



「一年間、いろいろありましたね、殿下」



 大樹の節の学級別の対抗戦も、ザナドで初めて盗賊相手に武器を持ったことも、ロナード様の起こした反乱に胸を痛めたのも、まるで昨日のことみたいに思い出せた。女神再誕の儀のときは、セイロスの棺を暴こうとした西方教会の人たちと戦った。――私は先生に命じられて、カトリーヌさんたち騎士団に助けを求めるために階段を駆け上っただけだったけれど。シルヴァンくんのお兄さんを倒すためにコナン塔へ向かったときも、自分の無力さを痛感したものだ。
 その一つ一つに寄り添うみたいに、殿下の姿は、声は、いつも私の傍にあった。殿下は何も出来ない、いつも皆より後ろを歩く私を見ていてくれた。大丈夫だって言ってくれた。それに私がどれだけ救われていたか、きっと殿下は知らないんだろう。



「フレンちゃんが失踪したときも、大変でしたね。皆がガルグ=マク中を探し回って、セテス様も酷い顔色で。……まさかイエリッツァ先生がかかわっていたなんて、誰も気付きませんでした」



 私たちはあのとき、だけど、ハンネマン先生に言われてマヌエラ先生の治療に携わったんでしたよね。まさか先生や皆が敵と戦っているなんて思いもせず。そういうことを、思いつくままに並べていく私は、傍から見たら惨めたらしくて、どうしようもなかったのかもしれない。
 殿下の青い外套は翻るどころか、皺が深くなることすらもない。私の声は、行き場のないまま大聖堂の天井に吸い込まれていくだけだ。



「……鷲獅子戦、楽しかったです。良い経験になりました。私、いつまでも戦いには不慣れだから、あんまり役には立てなかったかもしれないけど」



 首を持ち上げれば、玻璃硝子から差し込む夕陽が薄らいで、消えようとしていた。頼りなく床に影を落とすのは、大聖堂の壁の燭台で揺らめく炎だ。その赤に、ルミール村でのあまりにも凄惨な戦いを思い出す。家々は焼け落ち、数え切れないほどの命が失われた。あの日私が助けた子供は今どうしているかと、時折考える。彼らのような人こそ守りたいのにと言った殿下の横顔を、私は今も覚えているのに、殿下が見せた怒りもまた、私は削ぎ落とせずにいる。
 振り払うように舞踏会の話をしようとして、けれどそれをも飲み込んだのは、その瞬間に脳裏を過ぎった光景があったからだ。



「スミレを」



 殿下と夜、温室で話をしたのが、確かルミール村へと向かう前のことだったと気がついて。



「スミレを、私、また咲かせることができなくて」



 このところ色々あったせいで、水をやるのを忘れていたのだ。本当に我ながら、どうしてこううっかりしているんだろう。植木鉢の中は、気を利かせてくれた温室の管理人さんが土だけにしてくれた。私はスミレの死骸を見ていない。
 瞬間、殿下の肩がぴくりと動いた気がしたけれど、気のせいだったのかもしれない。「咲いたら殿下にも、って約束したのに、やっぱり私、才能がないのかもしれないです」何か殿下の心を動かす何かがそこにあったのかも。そう思いかけて、緩く首を振った。実際の所、殿下がどうだったかなんてもう、分からないのだ、私自身、段々息が上手くできなくなっていて。
 苦しかった。殿下が一向に、何の反応も示してくれないことが。だってそんなの、今まで一度だってなかったじゃない。本当はその背に歩み寄って、手を引きたかった。ねえ殿下って声をかけて、その顔を見たかった。「そうこうしているうちに、帝国と戦になっちゃうだなんて」だから少しずつ、自分の周囲に絡まる何かを振り切るように早口になっているのだって、気付いていた。



「でも、ガルグ=マクでじゃなくても、また一から育てます。もしも咲いたら、そしたら」



 本当は逃げ出したいくらい怖いのに、それでも縋るように話してしまうのは、殿下に何か話してほしかったからだ。振り向いてほしかったからだ。いつもみたいに大丈夫だって、困った顔で笑ってほしかった。
 知らないうちに撒いていた種から芽が伸びて、あちこちで土から顔を出すみたいに、私の中は殿下との思い出で溢れている。殿下もそうだったらいいのに、私の手ではもう、殿下の心に触れられない。「そしたら」もう一度呟いた言葉が、空気に滲んで消えていく。そうしたら今度こそ、殿下に贈ってもいいですか、って、そう言おうとして、だけど。



「…………何か言ってください、殿下」



 息が上手く吸えなかった。
 酷い声だった。堪えていたのに、私のそれはもう、掠れて、潰れて痛々しくて、聞くに堪えなかった。だけど、もうどうしようもなかったのだ。
 堪えられなかった。私はちっとも冷静ではなかった。殿下が何を考えているのか、教えてほしかった。
 だから、殿下が堪えかねたように「」って私の名前を呼んだそのとき、私はもう、今度こそ、頭を殴られたみたいに思った。
 殿下はそれでも私を振り向かなかった。顔を上げて、祭壇を見つめたまま、両の手は緩い拳になって、身体の横に落ちていた。
 長い沈黙だった。けれど、今度はきちんとそれに終わりがあった。私が口を挟む隙を、殿下はもう与えてくれなかった。
 私の顔を見ることもないままに、殿下は言う。



「もうおしまいにしよう」



 私たちの他に誰も居ない大聖堂に低く響いたその言葉の意味を上手く飲み込めるくらいに、物分かりが良ければよかった。


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