日の暮れ始めた大聖堂は、人気がなく、ひっそりとしていた。
アドラステア帝国との戦いを前に、ガルグ=マクを離れた信徒が多いせいだろう。普段ならばこの時間でも祈りを捧げる人の姿が見られるはずなのに、今はもう、まるで世界から切り取られたみたいに静かで、それが無性に心細くなる。騎士団の人たちが慌ただしく行き交うガルグ=マクの中で、この大聖堂だけは、これから一人死にゆくような気配を孕んでいる。
扉は私の背の方で、軋むというには重すぎる音を立てて閉まった。普段は気にならない開閉音に身体を縮こまらせてしまいそうになったけれど、瞬間生まれた空気の塊に背中を押された。大聖堂の静謐な空気に、顔を上げる。数歩先を歩いていた殿下は一瞬立ち止まったようだったけれど、私を振り向く寸前で、再び前を見た。だから私たちの目が合うことは、なかった。
青い外套は、私の目の前で翻っている。あの春みたいに、今も。
大聖堂に向かうドゥドゥーくんを見送った後、私は一人、大修道院の中を只管に歩き回っていた。
大広間から玄関ホール、釣り池を経由して温室、寮の前、訓練場の近く、教室棟を通り抜けて、食堂、それから厩舎に、騎士の間。大勢の人とすれ違った。誰もが忙しなく走り回るか、不安そうに身を寄せ合っていて、私のことを気に留める人なんかいなかったけれど、もしも誰かが私の姿を最初から最後まで見ていたら、きっとそれなりに奇妙に映ったに違いない。目的もなく歩く私は、きっとこれまでにないくらいに険しい顔をしていたはずだから。
ジェラルトさんが眠る墓地に到達したとき、その墓石が視界の真ん中に飛び込んで来たことで、私は今日の自分がずっと足元ばかりを見ていたことに、初めて気がついた。
ゆっくりと首を持ち上げれば、突然視界に入った光に目が眩んだ。大修道院の中で、ここだけは唯一、建物の影の影響がないまま空を見上げられるのだと、孤月の節になった今頃知った。吹き抜ける冷たい風が頬を撫でる。その冷たさが信じられないくらい、空は穏やかな春の色をしていた。綿菓子を千切ったような雲の一片が、薄い青空に漂っていた。それを眺めていたら、張り詰めていた緊張感のようなものが、端のあたりから解けていくような気がした。
息をそっと吸い込めば、ドゥドゥーくんの、鼓膜に張り付いたままの声が、勝手に頭に響いて、消えて行く。
「お前はどうするつもりなんだ」
どうするつもりなんだ。
反芻するように口の中で呟いた瞬間、人に慣れた野良猫が私の足首に額を擦りつけてきた。ごろ、と喉を鳴らす猫に視線を落として、こんなときなのに、思わず笑ってしまう。その温もりが、ひりひりするくらい、今の私には優しかったから。
「よしよし」
しゃがみこんで、猫の身体を撫でる。肉付きが随分良いから、この子はきっと色んな人に餌付けしてもらっているんだろう。「今、何もないよ、ごめんね」猫にだけ届くように囁くと、分かっているのかいないのか、猫は私の手に身体を押し付けるようにしてじゃれた。この子は、これからどうするんだろう、と、ぼんやり考える。「どうするつもりなんだ」が離れないせいで、色んなことに思いを馳せてしまう。
どうするつもりなんだ。私はそれを聞かれたとき、二つの道のうちの一つをすぐに頭から消し去った。だって、そんなの決まってるじゃない、って思ったのだ。私は、私だって、殿下の力になりたかった。自分の命と殿下の命とを天秤にかけなくてはいけない場面があったら、私は間違いなく殿下を選んだ。
王国南西部という括りに入る、小さな領地を持つ男爵家の娘の命の価値は、殿下と比べるまでもない。
紋章はないし、侯爵家や伯爵家から見れば身分はほとんど平民と変わらない。紋章を持った、妹の私から見ても優秀な兄を事故で失ったのが一年半ほど前のことで、以降私は次期領主として生きることを定められた。士官学校を卒業した後は、お父様を支え学びながら、相応しい頃にその座を譲り受けることになるだろう。それはほとんど、暗黙の了解だった。家にとって私は、最後の後継者だった。
王国の片隅にある、小さな男爵家の跡継ぎ。そんな私が今の殿下のためにできることって、果たして、あるんだろうか。
ラルミナの次期領主としては、ないんだろうな。
それは自問自答と呼ぶことすらもできないくらいに、呆気なく辿り着いた答えだった。
ここを離れれば、ファーガス神聖王国の王族たる殿下を、遠くラルミナからお支えすることしかできない。国を守るための武力もなければ、資産も乏しいラルミナは、殿下が苦悶の中にいたとして、殿下を悩ます元凶を取り除く術を持たないだろう。だから私は、先のことは一度切り離して、今の私にできることだけを考えていた。「私」にできることとして思いつくことはどうしても限られるけれど、それでも今更自分の身の振り方について悩んだりはしなかった。
私は殿下の傍にいる。殿下がエーデルガルトさんを憎んでいるなら、殿下の憎悪を一緒に背負う。殿下の進む道を共に行く。ドゥドゥーくんみたいに。そう決めている。
殿下が私にその内側を見せてくれなくても。私にできることが、殿下の盾になる以外、何もなかったとしても。
柔らかい茶色の毛をした猫の頭を撫でる。芝生の上で伸びる猫の爪の先が伸びたり引っ込んだりするのを、じっと見ていた。太陽の光が猫の毛を照らしたとき、それが、殿下の髪の色に見えた気がして、ちょっとだけ喉のあたりが引き攣ったみたいに、痛かった。
部屋の扉が叩かれたのは、墓地から戻ってきた後のことだ。
控えめな音だった。とん、とん、って、等間隔に響いたそれは、そこにその人の人となりが現われているみたいだった。
日暮れの時間も随分遅くなり始めていて、ようやく太陽が落ち始めたという頃だった。最近ではあまり部屋の扉を叩かれるようなこともなかったものだから、私はすっかり驚いて、身構えてしまったのだ。一瞬、騎士団から招集でもかかったのかと思ってしまったくらい。だけど窓の外はいつも通りの静けさだったから、何か緊急事態が起きたわけでもなさそうだった。じゃあ、イングリットちゃんだろうか。私に何か話でもあるのかもしれない――ほとんど決めつけて扉を開いたせいで、悲鳴をあげる寸前だった。
そこにいたのが、殿下その人だったから。
殿下の頬は、少しだけ肉が落ちたように見えた。「」って、すぐに殿下が口を開いてくれなければ、私はきっと、もっとどうしたらいいかわからなかったと思う。だって、私はもう殿下とずっとまともに話をしていないどころか、顔も合わせていなかったから。
殿下はその目を緩く細めた。笑みの形に、その唇が変わった。ぎこちない笑みだった。笑い方を、もう忘れてしまったみたいにすら見えた。
殿下。
呼びかけようとした私よりも先に、殿下はそっと唇を開く。「話がある」って。
「は、話? ですか?」
「……そう、お前と、話がしたいんだ。完全に戦が始まる前に」
抑揚のない、掠れた声だった。
切迫した何かがあるのは、間違いなかった。だから、私は頷くほかなかったのだ。胸の内側が痛いくらいになっていた。殿下は、ほとんど瞬きするみたいに頷き返すだけだった。
殿下の目は、私の肩の奥を、そのとき見ていた。思わず振り向いたけれど、そこには私の、どうしても生活感の隠しきれない部屋があるだけだった。
そして私は今、殿下に連れられるがまま、大聖堂にいる。
天井の玻璃硝子から差し込む赤い光が、視界の隅、美しく磨かれた石の填め込まれた床の上に、幾つもの陽だまりのような円を作っていた。空気はひんやりとしていて、それが私の靴音をいつもよりも鋭いものにさせるから、思わず咳払いをしてしまう。反響するのは、私が作る音だけだった。殿下は祭壇の前で足を止めたまま、微動だにしない。
殿下と私との距離は、私の身長を縦に並べて、二人分くらいだった。それ以上は、近づける気がしなかった。どうしてだろう、私は、殿下の傍にいたいと思っているはずなのに。殿下のために、恋人として、仲間として、隣にいたいって、一緒に戦いたいって、思っているのに。
話があると言いながら、殿下は、けれど、ちっとも口を開こうとしない。「……殿下」堪えかねて呼びかけたけれど、殿下は振り向かないし、答えない。ここまでの道中だって、私の数歩先を歩いて、表情すらも、覗かせてはくれなかった。それが、もう、全ての答えであるように思えた。
こっそり息を吐こうとして、詰まる。どうしよう、と思った。それ以外になかった。殿下が何を言おうとしているのか、分かる気がしたから。
舞踏会の夜に、ここで二人話をしたことが、今はもう、あまりにも遠い過去のことみたいだった。