殿下は日がな一日、大聖堂に居ることが多かった。
 祈っているわけではない。殿下の内心を汲み取ることが誰にもできなかったことを思えば、殿下のそれは、厳密に言えば「正しい祈り」ではなかったと言った方が良いのかもしれないけれど。殿下はただ、祭壇の前で立ち尽くしていただけだ。指を組むことも頭を垂れることもないまま、殿下は一人そこにいた。作法を知らない、迷子の子供みたいに。
 アドラステア帝国によって宣戦布告のなされたガルグ=マクは混乱の渦の中にあって、信徒や商人は戦禍から逃れるため、徐々に移動を始めている。勿論、中には己の信じるセイロスを無碍にされたことで帝国に抗うことを決めた信徒や、これを商機としてガルグ=マクに残る商人もいたけれど、それでも大修道院から日常の光景が失われ始めていることに変わりは無かったし、実際大聖堂は、これまで私が過ごした十一の節を振り返っても、殊更ひっそりとしていた。靴音がざわめきに飲み込まれることもなければ、くしゃみや咳は高い天井に反響して、いつまでも耳に残った。哨戒する飛竜の翼がはためく音が、閉じられた扉の外から聞こえていた。戦争が始まることを、そういう些細な、けれど決定的な違いが教えてくれていた。
 大聖堂の外に出て、大広間に続く橋を歩く。私の目には、今も殿下の後ろ姿がこびりついて、簡単には剥がれない。
 私は殿下がここにいることを知っていて、毎日のように大聖堂に通っている。そうしてその背を眺めて、何も言えずに引き返す。どうしたらいいのか、わからずにいる。
 ふと顔を上げたとき、大広間の方から見慣れた人が歩いてくることに気がついて、思わず足を止めた。
 ドゥドゥーくんだ。
 程なく彼も私の存在に気がついて、「」と、低い声で私の名前を呼んでくれる。私はそれに、小さく会釈をする。「こんにちは」って、かさかさの唇を開く。
 授業も訓練もなくなった私たちは今、所在なくガルグ=マクにその身を置いている。招集があればすぐに駆けつけられるように心の準備をしながら、けれどその実、正しい身の置き所が分からない。先生は時折私たちの様子を見に来てはくれるし、騎士団のアロイスさんやカトリーヌさんだって私たちの姿をみとめれば激励をしてくれるけれど、空気は酷くぴりぴりして、いつも私の肌を浅く刺していた。青海の節、レア様の暗殺予告があったあの頃以上の、張り詰めた空気だった。それは谷間から吹き付ける、まだ冬の名残を残した風と合わさって、私を酷く緊張させた。でも不思議なことに、ドゥドゥーくんと向かい合うと、それは端の辺りから糸みたいに解れていくのだ。微かな熱さえもって。



「大聖堂にいたのか」



 ドゥドゥーくんの目は、私ではなく、背後にそびえ立つ大聖堂へと向けられている。



「うん、ちょっとだけだけど」



 本当に、少しだけ。時間にしてみたら、五分とかそれくらいだ。
 ドゥドゥーくんの瞳がこちらに向けられたとき、それは私の勘違いでなければ、物言いたげに、僅かに細められていた。言いたいことは、私にも分かる。敬虔な信徒という枠組みの中に(一応は)入る私でも、今大聖堂に出入りする理由がお祈りではないだろうということを、ドゥドゥーくんはきちんと察しているのだ。
 短い、けれど、確かな沈黙が私とドゥドゥーくんの間に落ちていた。寡黙なドゥドゥーくんだから、もしかしたらそのままそれを飲み込むんじゃないかって思ったけれど、彼は結局、「」ともう一度私に呼びかける。



「……あれから殿下と、話をしたか」



 その瞳は、どこまでも真っ直ぐに私を見ていた。
 それにきちんと頷けたら良かったのに、私は目を見開いたまま、微動だにできずにいる。
 殿下の周囲には見えない膜がある。
 それは多分、私たちが出会った春からずっとあったものだ。私はその膜越しに殿下を見ていた。それがどれだけ厚くても、殿下そのものを屈折させたとは思わない。私はちゃんと、私なりに殿下を理解していたつもりだった。例えそのお腹の底までを見せてくれていなかったとしても。入学直後の夜間演習、ベレト先生が担任になることが決まった直後の学級別対抗戦、普段の授業も、訓練も、殿下はいつだって真摯で、真っ直ぐだった。私たちの前にいたのは、きちんと殿下その人だったはずだった。
 だけど、私は殿下がわからない。



「…………ドゥドゥーくんは、殿下とは」



 首を縦にも横にも振らないかわりに、私はそう尋ねていた。沈黙に堪えられなかったのだ。
 ドゥドゥーくんも、恐らくこれから殿下の元へ向かおうとしている。それこそドゥドゥーくんには、大聖堂に向かう用事なんてそれくらいしかないから。
 聖墓でのことがあってから、一週間以上が経っていた。殿下がエーデルガルトさんを前にその箍を外してからこれまで、殿下はもう、私たちには近づこうとしない。それは「避けている」というのとは、ちょっと違った。一定以上の距離を取る殿下は、ただ、内に閉じこもっているようだ。固い蕾の中に殿下はいて、私たちはそれに近づけないまま、時間だけがゆるゆると過ぎている。
 ドゥドゥーくんはその唇を、やがて、そっと開いた。



「殿下はおれに、何も話してはくださらない」



 耳に馴染むドゥドゥーくんの低い声が、飛竜の鳴き声に潰される。普段あまり表情を変えないドゥドゥーくんの目元が、そうと分からないくらい、微かな苦悶の色を見せたように思えた。
 ドゥドゥーくんも殿下と話ができていない、というのは、だけど、私のとはちょっと意味が違うような気がした。ドゥドゥーくんは多分、殿下にきちんと声をかけている。隣に立って、殿下の意識に収まって、それで話をしようとしている。殿下はドゥドゥーくんに話をしないだけだ。声すらもかけることができない、殿下の視界にすら入れない私とは、もう、天と地との違いがある。
 けれどドゥドゥーくんは、私の煩悶には気がつかない。「だが」って、少しだけ掠れた声で呟いた後、一呼吸おいて、言葉を続ける。



「……殿下の様子から察するに、エーデルガルトが四年前の……ダスカーの悲劇に関わっているのは間違いないのだろう」



 殿下が一体何をもってして、「そう」と判断したのかは分からなくても。
 それでも殿下が確信に至った何かがそこにはあったはずだった。両親を、仲間を目の前で皆殺しにされた殿下があんな風に憎悪を露わにしたのは、間違いなくエーデルガルトさんがそれに関係しているからだと、ドゥドゥーくんもまた、私と同じように考えている。
 谷間から強い風が吹き付けたのは、その時だった。風に浚われる髪を慌てて押さえる。瞬間、ドゥドゥーくんが小さく、けれど確かな声で言う。「おれは殿下をお支えする」って。風の音に紛れるみたいに。



「殿下がエーデルガルトの首を望むなら、おれはあの方の刃にも、盾にもなろう、この命が尽きようと」



 揺らぎなんか、僅かにもない声だった。私はそれを、乱れてぼさぼさになった髪の隙間から、聞いていた。







 ドゥドゥーくんの目はいつも、何かを推しはかるみたいに思慮深い。



「お前はどうするつもりなんだ」



 殿下の作る困ったような、控えめな笑顔や、私たちを先導するその背が好きだった。案外不器用なところも、実直で、優しすぎるところも。こんな私を見ていてくれたところも。
 ドゥドゥーくんは、その命を殿下に捧げると誓っている。「私」はどうなんだと、聞いている。それは、強要ではなかった。脅しでもなかった。ただただ、私の前に分かれ道があることを教えてくれるだけのものだった。
 私は今、ドゥドゥーくんを前に、じっと息を潜めている。提示された選択肢の前で、息を殺して、孤月の節の風に軸を奪われながら、殿下の背中を思い出している。


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