「これだけのことを知らないうちに準備していたって言うんだから、良くやるよね」
黒鷲の学級に所属する彼――リンハルトくんの声は、空席を二つ挟んだ先からだと、耳に染みこむみたいに静かに馴染む。
大修道院でも一際賑やかな食堂の片隅だった。彼は、突き刺さる他者の視線から逃れようと所在なさげに肩を丸める黒鷲の学級の多くの生徒たちと違って、実に悠々とした様子で話をする。同級生の、カスパルくん(ベルグリーズ家の男の子だ。彼は「ん? エーデルガルトのことか?」って、リンハルトくんよりも良く通る、大きな声で言うものだから、私の方がひやりとしてしまった)と向かい合う形で机に肘をついていた。
「うん、そう」と短く答えるリンハルトくんは、それでもやっぱり周囲を気にする様子なんかなかった。
弁明するなら、後から来た彼らが私の三つ隣の席の椅子を引いたのであって、様子を盗み見ようと思ったわけじゃない。
「いつからだったのかは知らないけれど、長期間の下準備に根回し、体力だけじゃなく気力も消耗するだろうね。僕だったらごめんだな。……想像するだけで面倒臭い」
ため息を吐く彼の眉がどこか神経質そうに寄せられたのは、視界に入ってしまったけれど。
炎帝――エーデルガルトさんと武器を交えた聖墓での戦いから、数日が経っていた。今はもう、孤月の節。暦の上では、春になろうとしている。
本当だったらこの時期の私たちは、士官学校の卒業に向けて、忙しくも充実した日々を送っていただろう。級友や先生、騎士団の人たちとの別れの日を迎えるに当たって、一抹の寂しさすら覚えていたに違いない。グロンダーズで行われた鷲獅子戦の後、学級の垣根を越えて開かれたあの宴みたいに、盛大な食事会を設けることもあったはずだ。別れを惜しみ、けれどお互いの幸福と健闘を祈って、私たちは新しい一歩を踏み出したのかもしれなかった。
だけどそれはもう叶わない。今のガルグ=マクはもう、士官学校そのものがほとんど機能していないから。
授業はなくなり、ベレト先生はレア様やセテス様の元に呼び出されることが増えた。私たちは身の振り方をどうすべきか各々が考えねばならなかったのだけど、それで自領へと戻ったのは、一部の生徒だけだ。私も先日お父様から手紙が届いたけれど、ラルミナに戻るつもりはない。イングリットちゃんやアッシュくん、皆がガルグ=マクに残ることを決めたから、っていうのもあるけれど、何よりも、殿下をそのままにはしていられなかった。
何もできないと分かっていても。
「はぁ。最後くらいのんびり過ごすつもりだったんだけどなあ……」
リンハルトくんのぼやくような声に、そっと視線を動かす。
黒鷲の学級の子たちは、その身辺をセイロス教会側に探られていたり、家と連絡が取れなかったりで、ほとんどがガルグ=マクに留まってはいるようだった。ようだった、っていうのは、こういうところとか、目に入る部分でしか、彼らの情報が入ってこないからだ。そろりと視線を彷徨わせれば、壁際に立つ二人の騎士が、明らかにリンハルトくんとカスパルくんに意識を割いている。
「今、あまり私と話さない方が良いかもしれないわ」
監視されちゃってるから。
数日前、イングリットちゃんと二人で声をかけたとき、困ったみたいに笑ったドロテアさんのことを今でも覚えている。
けれど、帝国軍を率い聖墓を襲ったエーデルガルトさんが、セイロス聖教会、及び教会に味方する貴族諸侯へ向けて宣戦布告をした以上、帝国出身の彼らが教会の監視下に置かれるのは、恐らく仕方の無いことだった。
「……教団は、その教義を利用して民の人心を掌握することで、これまでの長い歴史の上で人々を操り、争わせてきた。その信仰心を利用し、金を掻き集めながら、同時に民の安寧を脅かすことで依頼心と権勢を強めるに至った教団の存在そのものが悪であり、その信仰は打ち砕かれなければならない、と」
エーデルガルトさんがそう主張しているらしいことを話してくれたのは、先生だった。
彼女はきっと、長い間準備をしていたのだろう。秘密裏に。慎重に。士官学校に入学し、ガルグ=マクの内情を見ながら、その時を待っていた。
実際の所どうなのかは定かではないけれど、黒鷲の学級の人たちは、エーデルガルトさんの行動に気がつかなかったらしい。彼女が炎帝として暗躍していたことも気がつかなければ、度々ガルグ=マクを離れ帝都へと戻っていたその理由だって彼らは知らなかった。側近として彼女の傍にいたヒューベルトさんだけが、きっと、全てを理解していた。聖墓でエーデルガルトさんを連れて逃げたヒューベルトさんの姿が、脳裏に浮かんで消える。
彼女は優秀で、いつか帝国を正しく導く強い皇帝になるのだと、誰もが信じていた。
殿下が最後まで彼女を信じていたように。
あの日のことを思い返すと、それは鮮やかに私の瞼に浮かぶ。残された累々の帝国兵。炎帝の仮面は地面で粉々に砕け、殿下の投げた槍が地面に、ひっそりと横たわっている。冷たい石壁。一度人の手によって暴かれた墓はどれだけ手を尽くしても、もう元の静謐さを取り戻すことがないように見える。女神様の力を手に入れた先生は、ずっと誰かの背中を見ている。
私の記憶の中で、殿下だけが一人取り残されるのだ、いつも。
「でもよおリンハルト」
我に返ったのは、カスパルくんの溌剌とした声が耳に届いたからだ。
カスパルくんがお皿のお肉に齧りつきながら、何か話を続けている。けれど、発音が不明瞭だったのと、リンハルトくんがこちらを一瞥したように思えたのとで意識をそちらに向けるのをやめた私には、もう彼らが何を話しているのかまでは、分からなかった。
居たたまれないような気がして席を立つ。
ガルグ=マクでご飯を残してしまったのは、久しぶりだった。
教団の放った密偵が得た情報によると、宣戦布告の後、エーデルガルトさんは父王であるイオニアス9世を退位させ、自らが皇帝の座についた。
かつて七貴族の変で皇帝を裏切ったベストラ候(ヒューベルトさんのお父様だ)が粛正され、ヴァーリ伯が蟄居に追い込まれたのは、それからすぐのことだ。同時に七貴族の変以降国政の主導を握っていたエーギル家は宰相の地位を罷免され、領地の統治権を奪われ軟禁状態にあるらしい。一方で軍務卿のベルグリーズ伯、内務卿のヘヴリング伯はエーデルガルトさんに与しており、軍事面、財政面での混乱はほとんど見られていないと言う。
宣戦布告を受けたセイロス聖教会は団長不在の騎士団を再編し、軍備を増強しようとしたものの、長期間に渡って綿密な準備を進めていた帝国の動き出しに敵うはずもなかった。帝国本軍は既に帝都を発っていて、あと二週間程度でこのガルグ=マクに到達するらしい。そうなれば、こちら側は民を避難させ、防備を固めるので精一杯だろう。
戦いが始まろうとしている。それはもうきっと避けられるものではなくて、私は本当だったら、今、こんな風に温室の花のことなんか気にしている場合じゃなかった。空っぽの植木鉢に視線を落としたまましゃがみこみ、じっと土を見つめる。
私はそうして、殿下のことを思い出している。あの日ここで一緒にこの植木鉢を眺めた殿下は、今、もうどこにもいない。