光の射し込みにくい教室は、暖炉に火を灯しても尚、酷くひんやりとしていた。四隅の薄暗がりから、何か得体の知れないものが這い上がってくるかのような、底冷えのする寒さだった。
それは今がとりわけ寒さの増す天馬の節だから、とか、間もなく日が沈もうとしているから、とか、教室が日中ずっと無人だったから、とか、それだけのせいじゃない。聖墓での戦いを終え地上に戻った私たちは疲弊しきっていたし、それ以上に、それぞれが聖墓でのことを、上手く飲み込めないでいた。私たちの抱えた異物は、まるでそれ自体がどんよりとした湿気と冷気とを放っているみたいだったのだ。
「いやー、ほんと今日は参ったね……と」
シルヴァンくんがとりなすみたいに、殊更明るい声で言うのに、答える人は誰もいない。
私たちは皆が皆、遠慮しあっているみたいにじっと押し黙って、どうしたらいいのかわからずにいる。
レア様をお守りすることは、できた。
聖墓は今回の戦いですっかり荒れてしまったけれど、それでも帝国軍に一度は奪われた紋章石とやらも、全部取り戻せたはずだ。私たちは今回も、誰も大きな怪我をすることなくいられたし、帝国の、炎帝の麾下にあった将は先生が打ち倒した。ほとんどの兵士はその命を失い、そうでない者は捕えた。ヒューベルトさんの手により取り逃がしてしまったとは言え、炎帝の正体が明らかになったのだって、大きな一歩だった。
なのに私たちは皆、じっと痛みに耐える患者のような面持ちでいる。
重苦しい空気だった。私たちが課題としてシルヴァンくんのお兄さん――マイクランさんの討伐に向かわなければならなくなったときや、ルミール村での戦いを終えたときよりも、それは逼迫した切実さを孕んでいた。
聖墓での殿下の変貌は、それくらい、私たちに影を落としていたのだ。
そんな中で、フェリクスくんだけが、苛立ったようなため息を吐いた。彼はいつもこういうとき、私たちから一歩も二歩も離れている。粘土で作った一つの塊を俯瞰するみたいに、その目を細めている。
「……揃いも揃って辛気くさい顔をするな」
私は、どうだろう。
寒さにかじかむ指を擦り合わせ、視線を彷徨わせる。慣れ親しんだ教室だ。教書が開かれたままの机に、昨日の授業の名残を残した教壇。皆は言葉もなく、暗い表情で佇んでいるけれど、今、ここに先生と殿下はいない。レア様に呼ばれ、騎士団や教団の上層部と共に、今後について話し合っているのだ。この半日で、ガルグ=マクもそれなりの被害を被ってしまったから。
私たちが聖墓で帝国軍と戦っている間、地上でも小競り合いがあったというのは、つい先ほど聞いた。金鹿の学級と、級長不在の黒鷲の学級の生徒、それから騎士団とが、突如大修道院に現われた帝国軍を押さえて、非戦闘員を避難させてくれていたらしい。「こっちも大変だったのよー、クロードくんが無茶言ってくれちゃってー」って、さっき偶然顔をあわせたヒルダちゃんが言っていたのを思い出す。
混乱はもう収まっていたけれど、これで終わらないことは確かだった。だって、今回の件で帝国がセイロス聖教会の敵に回ったのは明らかだったのだから。エーデルガルトさんとヒューベルトさんは、当然のことながら大修道院から姿を消し、残された黒鷲の学級の生徒たちは、現状を飲み込むのに必死だ。彼らの去就だって、教団は決めなければならないだろう。だからきっと、先生も殿下も、当分は戻ってくることはないはずだ。
殿下がこの場にいない。それに少なからずほっとしている自分に気がついたとき、私は、どうしたらいいのか分からなくなった。ただ、自分が途轍もなく薄情な人間であることを、思い知らされたみたいだった。
ひどい女、と思う。
でも、殿下の前でどんな顔をしたらいいのか分からないのだ、私は。
私の手には、まだ先の戦いでの、剣を握っていた感触がはっきりと残っている。血の匂いも。敵の、帝国兵のあげた断末魔の悲鳴も。――仮面の落ちた炎帝の素顔を見た、殿下の横顔も。全てを受け入れたような、或いは諦めたような、笑い声も。
「こんなことがあるか」
炎帝をエーデルガルトさんとみとめた殿下は、震える声でそう言った。私にはそれの意味が、わからなかったのだ。だから余計に、箍の外れたような長い笑声の後、殿下が吐き出した声が、今もずっと残っている。「探したぞ」って、そう続けたのも、全部。
「…………その首を刎ね落とし、帝都の門に飾ってやる」
殿下は、血の繋がらない姉であるエーデルガルトさんを憎んでいたらしい。いや、憎んでいたのは、炎帝。それがあの場で、エーデルガルトさんと繋がった。そう考えるべきだ。
殿下のことを考えようとすると、胸の奥が引き攣ったように痛む。頭がぐるぐるして、思考する余地が狭まっていくのを感じる。視野が欠けて、欠けて、息を忘れていることも気がつかなくて、いっぱいいっぱいになった頃、初めて「は」って息を吐く。ともすれば泣きそうなくらいに痛くて、苦しいのに、私の目からは何も出ない。
私は一体、殿下の何を見ていたんだろう。
恋人という立場に浮かれて、実際は何も知らなかった。殿下の苦悩をみとめながら、その正体を、殿下が話してくれるまで待っていた。その結果がこれだ。
「……あの男、ようやく本当の顔を見せたな」
しんと静まりかえる教室で、そう口火を切ったのは、フェリクスくんだった。
それぞれ思案するように視線を落としていた皆が、ばらばらと彼に視線を集める。だけど、一番に顔をあげたのは私だった。フェリクスくんと視線がぶつかったのは、だから、そのせいだ。
フェリクスくんの目は、一瞬、同情するように細められた。何もかも知ってるみたいな顔を、彼はした。だったらもう、何も言わないでほしかった。彼の瞳の中で、私は酷く、疲れた顔をしていたから。
「……俺の知る、殺しと血を好む獣の顔だ。あいつの本性は……昔から変わらない」
「違うわ!」
語気の強いイングリットちゃんの声に、私は彼女の顔を見る。感情に満ちた目だ。だけどそれが怒りなのか、哀しみなのか、判別できない。その青い瞳を歪ませて、フェリクスくんのことを責めるみたいに、イングリットちゃんは一度大きく首を振る。「きっと何か、殿下にはどうしようもない事情があったのよ」って、清廉な彼女らしい言葉を、口にして、それで。
どうしようもない事情、って、でも、なんだろう。
殿下がああいった言動を取らざるを得ないほどの、何か大きな事情。動きの鈍い頭で考える。先の殿下の言葉を思い出すと、けれど、どうしても息が止まってしまう。耳鳴りがする。自分自身を責めてしまう。
もっと踏み込んでいたら良かったんだろうか。無理にでも聞き出すべきだったんだろうか。分からないのだ、何が正しかったのか。どこまで我儘を言って良いのか、分からなかった。春に殿下と出会った私は、殿下について、知らないことばかりだったから。殿下が私に見せてくれたものが全てだった。それで充分だと思っていた。
このままもっと、一緒にいられると思っていたから。
「………………あいつが四年前の事件をずっと引きずっているのは、わかっていたさ」
低く掠れた声でシルヴァンくんが呟いたのは、そのときだ。
四年前のダスカーで。殿下は聖墓で、エーデルガルトさんに言った。なぜあんな惨劇を起こした。って。実の母を殺しておきながら、何一つ省みることはなかったのか、って。
「仇を討ちたがるのも……まあわかる」
シルヴァンくんの声は、何かを思い出すような音をしていた。私はそれを、息を潜めて聞いていた。殿下以外の人の口から、私は、殿下の過去を知ろうとしていた。
「目の前で、家族も仲間も皆殺しにされたんだからな」
だから、そう続けられたとき、私は頬を殴られたような気になったのだ。
「だが、本当にそれだけだと思うか?」その後に続いたシルヴァンくんの疑念に、メルセデスちゃんやアッシュくんが、ぽつりぽつりと言葉を発する。炎帝の仮面が外れてから殿下の様子がおかしくなった。もしかしてあの二人は何か関係があったのだろうか、って。それらの一つ一つが、私の中に降り積もるみたいに落ちていく。これまでに殿下が話してくれたこと。先の聖墓での殿下の言葉たち。それはやがて底に散らばっていた、独立した欠片たちを線で繋げて、私に一つの答えを提示する。
思わず口を押さえたのは、それが本当に起こったというなら、あまりにも惨い現実だったから。
イングリットちゃんが気遣うようにこちらを見るけれど、私は彼女に、何も言えない。言えるわけがない。
ダスカーの悲劇は、ダスカー人ではない誰かの手によって引き起こされたものだとドゥドゥーくんは嘗て私に教えてくれた。
殿下もそれを知っている。いや、むしろ「目の前で家族や仲間を皆殺しにされた」のなら、真犯人を見ていたっておかしくないのだ。
もしも。もしもそれが、炎帝だったとしたら?
「…………」
こんなことがあるか。
殿下の引き攣った声が、反芻するように脳内に響いている。いつまでも、いつまでも。
今私は、あの時の殿下と、全く同じことを考えている。