「なぜ、あんな惨劇を起こした」



 炎帝――彼女に向けて放たれた殿下の声は、確信に至った人間のそれだった。いつもの殿下のものよりも、けれど、数度は低い温度と、かたい手触りを持っていた。私はそれが、恐ろしかった。どうしたらいいのか、分からなかった。先生も、皆も、きっとそうだった。



「自分の母親を殺しておきながら、何一つ省みることはなかったのか」



 だから、もしも、と思ったのだ。
 もしも私がもっと早く、ここでじゃなくて、もっとずっと前の段階で、殿下の腕を掴んで、無理にでもこちらを振り向かせていたら。殿下、って、きちんと声をかけていたら。
 そうしたら殿下は、初めて私の傍に膝をついてくれたあの春のように、私のことを思い出して、注意を払ってくれただろうか。踏み込もうとする私に、首を振ったりもしなかっただろうか。殿下の抱えているものを、今すぐここに並べて私に見せて、って我儘を言っても、困ったみたいに笑って、そうして、仕方ないな、って、言ってくれた?
 今殿下が吐き出した言葉の意味を半分も理解できていない私は、そうしていたら、あなたと同じ目線でここにいられたのだろうか。



「言ったはずよ」



 武器を下ろし殿下と向かい合う炎帝、エーデルガルトさんの声は、こんな時ですら、酷く澄んで、美しい。



「私の知ったことではない、と」



 殿下にその穂先を向けられていても、彼女は堂々としていた。
 士官学校で見かけるエーデルガルトさん、そのままだった。








 レア様や私たちが望んでいた啓示は、成らなかった。先生がレア様に促されるまま玉座に座っても、何も起こらなかったのだ。
 女神様の声も聞こえなければ、勿論、女神様が顕現されるようなこともなかった。先生の姿がそれ以上変わることも。先生は、レア様を視界の中央に据えたまま、緩く首を振る。



「あと一歩のところまで来ているはずなのに、一体何が足りないと……」



 レア様が独りごちるように呟いたその瞬間だった。私の視界の隅で、思案気な表情のまま儀式を見守っていた殿下がその瞳を見開き、聖墓の入り口を振り向いたのは。



「……誰だ!」



 殿下の声は、天井の高い聖墓に反響する。直後、大勢の人間の軍靴の音が、にわか雨に打たれたような響きでもって耳に届く。「え」思わず漏れた声は、「全員、動くな!」と叫ぶ男性の声に、かき消される。ようやく振り向いたとき、私は目を見開いていた。
 見知らぬ兵士たちが、聖墓の入り口を塞ぐように整列していたのだ。
 正直に言うと、私は殿下が注意を引いてくれなければ、すぐに腰の剣に手を伸ばすことはできなかっただろう。それは私が、啓示の行く末を見守るのに、神経の全部を注いでいたせいだ。「警戒は最大限にしておかなければならない」って、殿下とイングリットちゃんと話していたはずだったのに。
 明らかに物々しい鎧と仮面をつけた人物をその兵らの中央に見つけた瞬間、ただ事ではないな、ってことだけは、どうにか分かったのだけど。



「あれは、炎帝……!」



 イングリットちゃんの声を聞いて、私はその仮面の人物こそが「炎帝」なのだと、その時初めて気がついた。
 先日先生によって討たれたソロンやクロニエの仲間で、フォドラの安寧を揺るがす者。セイロス聖教会の、敵だ。
 皆が炎帝と初めて見えたのは、フレンちゃんが浚われた角弓の節。イエリッツァ先生の部屋から続いていた地下での戦いのときだ。私と殿下はあの時、部屋で倒れていたマヌエラ先生の治療の手伝いに駆り出されて、炎帝の姿を見ることはなかった。あとは、ルミール村での戦いが終わった直後。先生が炎帝と直接話をした、っていうのは耳にしているんだけど、そこで一体どういうやりとりがあったのかまでは、私は知らない。
 要するに、私は話に聞いてはいたものの、炎帝の姿を見たことはこれまでに一度だってなかったのだ。
 聖墓の入り口、私たちの使ったあの仕掛けを、彼らもまた利用してここに来たのだろう。数え切れないほどの兵士を従えた炎帝の仮面が、仄かな青い光に照らされている。背丈は、ここからでは良く分からない。けれどその存在は明らかに異様で、異質だった。息をするのすら、忘れてしまいそうなくらいに。



「……炎帝……あれが……」



 どうしたらいいか分からなくて、殿下の横顔を見上げる。見上げて、小さく息を飲んだ。
 殿下はその時、瞬きの一つもしていなかった。その睫毛を震わせることも。指先の一つを動かすことすらも。
 氷でできた彫刻のようだった。



「ここまでの案内、実にご苦労」



 その時、誰かがそう言葉を発しなければ、私はきっと殿下からずっと目を逸らすことなくいられただろう。「殿下」と、声をかけることもあったかもしれない。だけど思考の隙間に入り込むというよりはずっと大きいその声に、意識のほとんどを持っていかれた。それは炎帝ではなく、その隣に居た一人の男のものだった。
 先ほど私たちに「動くな」と叫んだ男だ。短髪に、その目付きは鋭く口角が緩く上がっている。身に纏った深紅と黒とを基調にした鎧に、耳の奥がざわりと音を立てる。炎帝にばかり意識が向かっていて気がつくのが遅れたけれど、他の兵士たちもそうだ。あの鎧は、まるで――。



「聖墓にあるものは、帝国軍が全て頂く」



 彼がそう続けたのは、私が、まるで帝国軍みたいだ、って、そう思った瞬間だったのだ。
 何が起きているのか、良くわからなかった。
 ジェラルトさんが亡くなって、その敵討ちとして私たちが封じられた森に出向いた結果、先生が女神様の力を得るに至ったことは、確かにガルグ=マクにおいて知らない人はいないだろう。今日この日、啓示のために私たちが聖墓に向かうことになる、っていうのだってそうだ。それが大修道院内の中では周知の事実だったことは間違いない。だけど。
 だけどそれでどうして彼らが出てくるのか。



「帝国軍……?」



 そんなの、あり得るわけがないと言えたら良かった。
 目を見開き息を飲む私の隣で、ドゥドゥーくんが抑揚のない声色のまま、「なぜここに帝国軍が」と口にしているのを聞く。「一体どうやってガルグ=マクの中に……?」って、イングリットちゃんが呟いたのも。
 帝国兵の男の言を信じるならば、彼らは何らかの方法でガルグ=マクに潜入した後に大聖堂へ侵入し、聖墓まで追ってきたということになる。だけど、そもそもこれだけの人数がどうやってガルグ=マクに潜り込み、どういう手段で私たちが聖墓に向かうことを知ったのかが判然としない。聖墓にあるものを奪う、っていう言葉の意味だって。……それに、地上が今どうなっているのかも。
 瞬きの度に新しい疑問が生まれていく。シルヴァンくんが呟いた。「炎帝までおでましらしいな、つまり……」理解できないことで埋もれかけても、一つだけ、確かに言えることがあった。帝国兵を率いた炎帝を、改めて視界の中央に据える。フェリクスくんが、微かに笑う。



「炎帝と帝国は繋がっていた、ということか」



 それは帝国が、セイロス聖教会の敵に回ったということを示していたのだ。
 その時、視界の端で青い外套がたなびいたのを、私は見た。
 籠手に包まれたその手が、微かに震えていたのも。「殿下」呼びかけたそれは、殿下の踵の音によって潰されて、消える。
 私たちの前に歩み出た殿下の背は、明らかに怒りに包まれていた。その理由が私には、わからなかった。
 殿下はもう、私を振り向かない。








 私の知ったことではない。
 エーデルガルトさんがそう口にした時の殿下の表情と言ったら、ない。
 青を通り越して、白くなっていた。瞳は何かを堪えるように歪んだ。どうして動けないのか。殿下の名前すらも口にできないのか、分からなかった。私は一体今まで、殿下の何を見ていたんだろう、そう思うと、呼吸もまともにできなくなる。私の知らない殿下を見ていることができなくて、目を閉じた。瞼の裏に映る光景があったのは、あの時みたいに、この場所が酷く寒いせいなのだろうか。
 分からないけれど、私は殿下のことが、あの時から変わらずに好きだった。それだけは間違いなかった。



「俺は、お前の思うような人間では、きっとないよ」



 予言みたいな、呪いみたいな、あの言葉。私はあの日、殿下の発したその言葉が、世界で一番きれいなもののように思えたのに。



「……それでも、お前が俺に失望するまでは、俺の傍にいてもらえるだろうか」



 今になってそれが枷のように重くのしかかるなんて、おかしいね。


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