殿下を止めることなんてできなかった。誰にも。
 声高に笑う殿下のぎらぎらとした目は、暗い光と熱を孕んでいた。かろうじて殿下に被されていた薄い布が、剥がれ落ちたみたいだったけれど、それを剥いだのが誰かなんて、考えたって無駄だ。それがいつからそこにあったのかを、考えるべきだった。無意識に一歩前に足を進めたそのとき、私の身体をイングリットちゃんがその手で制した。イングリットちゃんの顔は青ざめていたし、その瞳の中にいる私も、ほとんど似たような顔をしていた。何が起きているのか分からないのは、私だけじゃなかった。
 手にしていた槍を投げつけた後も、殿下は自らの拳でもって、彼女を守ろうとする帝国兵を屠り続ける。肉を殴る音と、帝国兵の悲鳴、骨の砕ける音が、ずっと私の鼓膜を震わせていた。目を、閉じていられたら良かった。耳を塞いで、丸くなって。ぎゅうと目を閉じて大きく顔を背けたフレンちゃんみたいに、直視せずにいられたら良かった。
 なのにできないのだ。私は目を限界まで見開いて、その一瞬一瞬を、全て捉えようとしていた。それが私のすべきことだと思った。そうしている間、私が何を思いだしていたか、殿下は、知らないんだろう。少なくとも今は、殿下の中に私の存在はない。そのまま消えてしまったって、もう、おかしくない。
 殿下の顔が、その手によって潰された帝国兵の顔面から噴き出した血によって汚れるのを、身動ぎの一つもできないまま見ていた。
 あの目がいつも、穏やかに私を見つめてくれていたことを、それでも私は知っていた。








 大修道院の遥か地下(本当に、びっくりするくらい地下深くだと思う。それこそオグマ山脈の標高分か、下手したらそれ以上なのかもしれない)に、それはあった。
 広大な面積の、だだっ広い空間だ。天井は高く、それを支える柱の造形も、最近の建築物にはあまり見られない類のものであるように思う。敷き詰められた石畳はところどころがくすんで、明らかに古い。あちこちに灯された小さな灯りはどれも青白く、並ぶ石や壁を仄かに照らしている。
 一つ一つ足を止めて確認したわけではないから厳密にそうとははっきり言えないけれど、足元のそれらはどれも墓石であるように見えた。整然と並べられた石たちは、地上に見られる墓地と、さして変わりないようだったから。聖墓、と名付けられた場所である以上、早々にそれらを墓石と断定しても問題はなかったのかもしれないけれど。
 ここは聖墓。女神様の眠る場所だ。だけど、じゃあこの数え切れないほどの墓石たちの下には、一体誰が眠っているんだろう。
 ベレト先生と殿下の前方を歩くレア様に目線を送る。レア様は私の視線になんかちっとも気付く様子はなく、ベレト先生に振り返って、「ベレト。驚きましたか? ここが聖墓です」と、静かに微笑んでいる。
 曖昧に頷くだけのベレト先生は、私たちと同じようにぐるりと周囲を見回して、「……聖墓」と短く復唱するだけだった。そうしてみると、髪の色も相まって、二人は親子か、姉弟のようにも見えた。ベレト先生の髪が、レア様に近い色になったのには、何か理由があるのだろうか。ちゃんと啓示を受けたら、先生はもっと変わるのかな。そんなことを、思考の片隅で考える。



「しかし、これほどの空間が大修道院の地下にあるとは……。それに地下へと下りるためのあの巨大な仕掛け。……あれは一体どういう力で動いていたのだろう」



 そう呟いたのは、殿下だ。ドゥドゥーくんがその隣で微かに殿下の言葉に頷いているのを見て、私も殿下に「本当にびっくりしましたね」って言おうか言うまいか迷って、だけど結局最後には心にしまう。私は今でも、殿下を変な風に意識して、遠慮しまうことがあった。人前では特に。そういうのを、これから少しずつ解消していけたらな、とは思っているんだけど、ちょっと時間がかかるかもしれない。こればっかりは、性根の問題だから。
 殿下の言う「巨大な仕掛け」が一体何であったのか。
 レア様がそれに答えない以上、誰もその疑問に対して正しい答えを導き出せる人はいなかった。頭の良いアネットちゃんですら難しそうな顔をして、「うーん、とてつもない技術が使われていることは確かだけど……」と首を捻るだけだ。
 それは大きな箱状をしていて、物凄い速度で私たち全員をまとめてこの地下へと送った。身体の内側が浮遊するような感覚に、本当は今でもドキドキしている。もしかしたらあれは魔法だったのかもしれない。気がつかなかっただけで、どこかに魔方陣か何かが隠されていたのかも、って思ったのだけど、でもアネットちゃんとメルセデスちゃん曰く、魔力の動きはないみたい、なんだって。謎は益々深まるばかりだ。
 どういう原理でもって、あの仕掛けが動き、私たちをこの地下まで運んだのか。フォドラの技術を総動員しても、あれが可能であるようには到底思えないのは、私の勉強が足りないせいなのだろうか。私の知らないところで技術は進歩していて、或いは、セイロス聖教会だけがそれを独占しているのかも。……でも、本当に、それで片付けられるのだろうか。まだまだ私の知らないことばかりだ。



「……ここは、かつて世界を創った女神と、その眷属たちが眠る場所なのです」



 奇しくも先の私の疑問の答えを口にするレア様は、殿下を見つめて薄く笑う。殿下や私たちの意識を引っ張って、レア様の目指す方に誘導するみたいだった。もしかしたら、本当にそういう意図があったのかもしれなかったけれど、実際どうだったのかは分からない。けれど結局、私たちは皆、あの仕掛けについて話すのをやめていた。
 中央には四方を数段の階段に囲まれた一角があって、その上にも何か墓石のようなものが置かれているようだったけれど、レア様はそこを素通りし、聖墓の最奥へと向かう。ひんやりとした空気の中に、私たちの人数分の足音が響いていた。静謐な空間に、私たちはちっとも馴染みきらず、浮き上がっているようだった。
 女神様、それから眷属が眠る場所。
 それならばこの墓石の数も頷ける。セイロス教を信奉するフォドラの人々にとっては、ここはほとんど聖域と呼んで間違いなかった。
 やがてレア様は、長く続く階段の奥にある玉座の前で立ち止まる。
 外からの光源などないはずなのに、石で作られたその玉座には、煌々と白い光が降り注いでいた。聖墓のあちこちに灯された細やかな灯りと比べれば、ずっと眩しく、自然光に近い。天井にも壁にも、どこにも切れ目はないのに。光源を探しながら、けれど私はその玉座に意識を吸い寄せられていることに気がついた。
 空白の玉座だ。
 石作りのそれは、床や壁、柱同様に随分古いものであるようだったけれど、軽率に触れてはならないと思わせる佇まいだった。そこだけ空気が透き通っているように思えて、私は恐れ多さに、一歩後ろに下がってしまう。レア様はその玉座を、我らが主、女神ソティスが座したものだと教えてくれた。



「ベレト。この玉座に見覚えがありますか」



 レア様が尋ねたのに、先生が思案する余地もなく「ある」と短く頷いたとき、メルセデスちゃんやアッシュくんが、息を飲んだようだった。私も、無意識に指の先が震えて、どうしようもなくて、胸に引き寄せる。
 レア様が大きく嘆息する。その睫毛の先が、私の場所からでも分かるくらいに震えていた。「ああ……ああ、この日を待ち侘びました、ベレト」感極まったような声音が、聖墓の片隅に静かに反響している。
 このことに何の意味があるのか、何が起きるのか、私は本当のことをいうと、全然分かっていない。先生が啓示を受けて、かのセイロスのように人々を導くようにという言葉を賜ったとして、(勿論それが成されれば、歴史的なことになる、というのは承知しているけれど)でも、具体的にそれで一体何が変わるのかを、私は想像ができていない。
 けれどレア様は、違うみたいだった。



「玉座に座りなさい、ベレト。必ずや女神の啓示があるでしょう」



 レア様は、何もかもを確信しているらしい。
 その瞳には、ベレト先生だけが映っていた。そういえば、初めからレア様は、ベレト先生だけを見ていたなって、こんな時に思った。
 私達以外の、大勢の人間の気配を聖墓の入り口に感じたのは、そのすぐ後のことだ。








「貴様の首を捩じ切る前に、一つ、聞かねばならないことがある」



 殿下の拳から、血が滴っていた。指の関節の皮膚が破け、出血をしていた。それでもその血は殿下だけのものではないことは明らかだった。「彼女」を見つめる殿下の目は、ほとんど温度がなかった。士官学校で彼女を見るときのものと、全然違った。本当は、見たことがあったのだ。ルミール村で、一度だけ。
 それでもこの人は誰だろうと思う。そんな自分に、絶望する。


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