殿下の前ではいつも通りの私でいること。
 そのままの感情を表に出すこと(これは意識しなくてもできるので大丈夫)、表情豊かでいること、殿下が好きだって言ってくれた私のままでいること。
 それが私にできる、一番の、そして、唯一のことであると思っていた。
 殿下が何かを思い悩んでいるようでも、袋小路に迷い込んで疲弊していても、殿下が自ら助けを求めない限り、私は殿下の後ろ姿をその迷路の影から見守って、ついていくだけにしようと思った。私にとって、それはそれなりに苦しいときもあったけれど、それでも殿下が時折振り向いて、私がそこにいることを確かめてくれるなら、それで良いって。それが一瞬でも、幾星霜の時を経てからのことであっても、殿下の心に私が一片でも横たわっているなら、問題なかった。最後に殿下が笑ってくれるなら。
 殿下にあんな顔をしてほしかったわけじゃなかった。
 殿下のあんな顔を見たかったわけじゃ、なかったのだ。



「殿下」



 呟いた声は、聖墓の片隅の、埃と血の混ざり合ったにおいの中に、混じり合って溶けるみたいに消えた。
 遠く、槍を握り、一人の将目掛けてその槍を投げた殿下が私の縋るような声に振り返ることなんかなかったし、どれだけ願っても、何もかもがなかったことになんかならなかった。静謐な空気に満ちていた聖墓は最早帝国兵の、夥しい数の死体があちこちに転がって、私はそのうちの一人の身体が、手遅れなくらいに血を失って、少しずつ白く、固くなっていくのを、息を止めて見つめていた。こうして人は死ぬんだと思った。
 私がこのまま窒息したら、先生は、恐らくいつもそうしてくれるみたいに魔法を使ってくれるのだろうか。そう思ったけれど、怖くなって、苦しくなる前に口を開いた。喉の奥が痛かった。そっと目線を上げれば、私の視界の真ん中で、青い外套が翻る。殿下は私を、先生を、皆を置いて、さよならも告げずに、遠くへ行ってしまう。
 殿下の金色の髪は、帝国兵の返り血で汚れていた。
 殿下は、私の知らないひとみたいだった。








 私たちが聖墓に向かうことになったのは、天馬の節の最終日のことだ。
 主の啓示という重大な儀式であることから、今日の大聖堂はこれに関係する者以外の立ち入りを禁じているらしい。おかげで昼だというのにそこに私たち以外の人の気配はなく、足音や声が反響して、寒々しいくらいだった。メルセデスちゃんがアッシュくんたちに「ああ……主の啓示だなんて、緊張しちゃうわね〜」と口にした声が、いつもよりも随分間延びして聞こえるくらい。皆もそれぞれ、緊張はしているんだろう。どこか普段よりも落ち着きがないように見えたけれど、それでも私くらいにそわそわしている人なんか、誰もいなかった。
 イングリットちゃんの隣で、ふう、って落ち着かせるために吐いた息が白く、ふわふわと漂って、消える。



「……レア様もいらっしゃるなんて、余計にどきどきしちゃうね」



 聖墓にはレア様も同行されるらしい。勿論、聖墓がどこにあるのかも知らない私たちを導く方が必要であることを考えたとき、レア様がそれを務める可能性というのは少なくは無かったのだけど、やっぱりちょっと緊張してしまう。
 私はレア様と個人的にお話をしたこともないし、傍に立ったこともなければその視界に入ったこともほとんどない(多分。)セイロス教の敬虔な信徒たる私からしてみたらまさに雲の上にいらっしゃるような方で、そんな方が同行されるとなっては、益々いたたまれなくなってしまう。私、ここにいていいのかな、って、いつものあれだ。イングリットちゃんとドロテアさんに言われたことをおまじないみたいに反芻して、それでようやく緊張と不安とを削り落としてはいるのだけど、膨張の方が早いみたいで、どうにも追い付かない。
 こっそりと耳打ちした私の言葉に、イングリットちゃんは「ええ」と私の目を見て真っ直ぐ頷いた。つい見とれてしまいそうなくらい、真摯な瞳だった。



「レア様に万が一のことがあれば、フォドラの一大事。何があろうと、お守りしなければなりません」

「あ……そうか……。やだな、私、自分のことしか考えてなかった……。そうだね、啓示って言っても何か不測の事態があるかもしれないし、そういう心構えもしてなくちゃ」



 丁度そのとき、フェリクスくんが「万が一のことがない限り戦闘はないんだろう?」とシルヴァンくんと話しているのが聞こえたけれど、その「万が一」が起きたときが大変なのだ。聖墓が一体どういった場所にあって、どれくらいの広さで、どういう地なのかを正確に知らない以上、どれだけ注意を払っても足りないことはないだろう。
 だけどその時だった。私たちの会話に言葉を挟んだ人がいたのは。



「……あくまで、これは俺の私見だが、そう気を揉む必要はないんじゃないか」



 殿下だ。
 さっきまでドゥドゥーくんと先生とお話していたはずなのに、今、殿下は私とイングリットちゃんとを交互に見ている。私はその目線にすらいちいちどぎまぎして、思わず背筋を伸ばしてしまった。そろりと視線を彷徨わせれば、先生はドゥドゥーくんと、声量を落として何か話を続けている。ベレト先生の髪は相変わらず、今日も目を引く、昼の空に柳を溶かしたような色をしていた。私はそれを、今でも、見てはいけないもののように思ってしまうときがある。
 それからようやく殿下の顔を見返して、やっぱり胸が鳴って、困った。殿下と相対して落ち着かない気持ちになるのは、例え……その、「恋人」という立場になっても変わらないのだ。驚いたことに。



「レア様は、自分の身くらいは守れると仰っていたそうだが、あの方が不意に見せる仕草はそれを証明しているんじゃないかと思う。……俺はレア様が、歴戦の強者のように感じるときがあるんだ」

「……歴戦の強者」

「……まあ、俺の勘違いである可能性もあるがな」

「だとしたら、気を引き締めなければなりませんね」

「……そうなるな」



 イングリットちゃんの言葉に、殿下は眉尻を下げて微かに笑う。「結局のところ、警戒は最大限にしておかなければならないらしい」って。それから、殿下はそっと目線を下げて、口角を落とした。何か、考え込むみたいな仕草だった。翳った目に、私はどうしようもなく不安になる。今日も、また、そうなのかな、って。泥の中で、一人でいるのかな、って。だから、声をかけようかと思ったのだ。ドゥドゥーくんが私よりも早く、「殿下?」って呼びかけることがなかったら。



「…………この間から、様子が変だ」



 続けてそう口にしたのは、ドゥドゥーくんの隣にいた先生だ。
 先生の言う「この間」が一体いつのことなのか、私には、正確には分からない。だけど、先生もきっと殿下のことは注視していたんだと思う、きっとドゥドゥーくんや私と同じくらいに。そう思ったら、心の奥から根を張っていた靄が、少しだけ密度を緩くした。私は先生のことを、きちんと信頼していたから。
 殿下は私にちらりと目線を落としてから、先生とドゥドゥーくんに向き直り、小さく笑った。「少し頭が痛むだけだ。心配はいらない」って。私でもわかるくらい、その場しのぎの作り笑顔だった。
 もしもこのとき、レア様が大聖堂の扉を開けるのがもう少し遅ければ、私は殿下の服の裾を引っ張って、何か言えたんだろうか。例えば、「本当ですか」って。「本当に、頭が痛いだけなんですか」って。
 そう思ったけれど、多分、もし本当にそうであっても、私はきっと何もしなかった。
 殿下のために、ただ見守って、その行く末の安寧を祈ること。
 それが正しいと、信じていた。








 殿下の、何もかもを諦めたみたいな笑い声だけが、ずっと耳にこびり付いていた。もう、決して取れないみたい。
 私の立つ遥か先で、炎帝の、――彼女のつけていた仮面が粉々になっていた。殿下が踏みつけたせいだ。その欠片の一つをどうしてか、私は、取っておきたいなと、薄ら思った。
 そうしたら、何か爪先一つ分だけでも、殿下の抱えた真実に近づけるんじゃないかって思ったのだ。


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