人には得手不得手があるって言うけれど、だったら私はもう、戦闘に関すること以前に、身体を動かすこと全般が不得手と言って良かったと思う。
恐らく私は、戦うための身体を持っていなかった。そういう体質、って考えた方が良いのかも。病弱とは違う(風邪は昔からあまりひかないし。)ただ、筋肉は人よりも育ちにくく、持久力がない。薄々分かっていながらも、「すぐに成果は出ない。継続してくれ」との先生の言葉を信じて、今は言われたことをやり続けるしかなかった。だって他に、努力のしようがなかったから。
走り込みは、一日に二度、朝と夕方に欠かさず行った。走っていると息が切れて、やっぱり脇腹が痛くなる。一度に走れる距離は最初からずっと変わらず、走り終わるとくたくたになる。だけど、継続、継続だ。運動しているおかげで、座学の授業中は眠くて溜まらなかったけれど、口内を噛んで耐えた。頭の上から降り注いでくるものを取りこぼさないようにするだけで、必死だった。
アッシュくんに声をかけられたのは、私が走り込みを始めて数日経った頃だ。
「最近、すごく頑張ってるみたいですね、」
「あ、アッシュくん……」
アッシュくんは、大聖堂の方から歩いてきたところだったらしい。お祈りでもしてきたんだろう。アッシュくんは、良く大聖堂にいるから。
私は丁度ここまでと決めた最終地点を踏んで息を整えていたところで、肩で息をして、薄ら芽生えた吐き気をいなしていた。こんな姿、アッシュくんじゃなかったら見られるのが恥ずかしくて、逃げ出していたかもしれない。呼吸を整えながら、アッシュくんを見つめる。アッシュくんは、相変わらず人好きのする、穏やかな笑みを浮かべている。
「イングリットに聞きました。特訓してる、って」
「はぁ、はい……。そうなの、体力が、ほしくて。………………す、座っていい?」
「あ、だけど、僕、邪魔じゃないですか? 訓練の途中なんじゃ……」
「ううん……いま、丁度一旦おしまいにするところだったの」
先生がね、頑張れる範囲で継続することが大事だって言うから、無理はしないんだ。そうアッシュくんに話しながら、手近な長椅子に座る。喉の奥ではひゅうひゅう音がしていたし、右耳だけが膜を張ったように痛かった。もしここに誰もいなく、一人だったら、声ともため息とも吐かない音を口から出すところだったんだけど、いくらアッシュくんとは言えそこまでは素を出せない。それはアッシュくんに気を許しているとかいないとか、そういう問題じゃなくて、自分自身が一応は女子、という枠組みにいることを自覚しているからだ。
「アッシュくんも、どうぞ。久しぶりにお話しよう」
「そっか。じゃあ……」
そう頷いたアッシュくんは、子供が一人、間に座れるくらいの間隔を空けて私の隣に腰を下ろす。目が合ったのが何だか照れくさくて、どちらからともなく笑った。二人で並んで座った長椅子からは、丁度大聖堂の建物が見える。竪琴の節の温い風が、私たちの間を通り抜けていく。それが汗ばんだ身体に心地よくて、ふわ、と息が漏れた。
だけど、アッシュくんとこうして二人で話をするのって、どれくらいぶりだっただろう。振り返って見ると、いつも私たちの傍には学級の誰かがいて、私たちは対同級生という感覚でお互いに接していた気がする。そう考えていたとき、ふと思い出した。私たちは前節、野営訓練で殿下たちが囮になった翌日に、二人で並んで、彼らが戻ってくるのを遠巻きに見ていた。輪にかろうじて引っかかるくらいの握力でそこにいた。確か、アッシュくんと並んだのは、あれが最後だった。
「今は体力作りを集中的にしているんですか?」
「あっ、うん、そうなの」
現実に引き戻されて、慌てて頷く。
「あとは、先生たちにも協力してもらって、自分に合う武器を手探りで探している感じ。……みんなからしたら、随分出遅れちゃってるけど」
「ああ、確かに君は弓以外、あんまり持ったこともなさそうですもんね」
「そうなの。……でもその前に、まずは体力でしょう? そう思ってもなかなか、一朝一夕じゃ身につかないから。……こんなんだったら士官学校に入学するかもって話になった時点で、鍛えておくんだったなあ」
「…………うん。そう、ですね。だけどあの頃はも大変でしたし、仕方ないですよ」
アッシュくんの言葉に、うーん、と、小さく唸る。
地面に置いていたはずの両足は、いつの間にかほとんど無意識に、真っ直ぐ伸びていた。筋肉のついていないそれは、真っ白くて、棒みたいだと思う。簡単に折れそう。そういうことを考えながら、私はアッシュくんが私に向けて言った言葉を、繰り返し頭の中で反芻させている。タラヌス川を挟み、うちの領土に隣接するローベ領、その北部に位置するガスパール城を任されていたロナート卿を養父に持つアッシュくんは、この半年強の間に起きた、うちの事情を良く知っている。
アッシュくんの言う通り、入学が決まってから、実際にガルグ=マクにやって来た大樹の節まで、ラルミナ領は混沌としていて、私自身も色んなことで手一杯だった。だけど、それでも最低限、武器の扱いくらいは身につけておくべきだったと思うのだ。たまに行く狩りでお飾りみたいに抱えていた弓でも、お兄様が振っていた剣でもいいから。
ただ、喪失に打ちひしがれるのではなく。
大聖堂の向こう側に、太陽は落ちていく。尖塔の隙間から漏れる光に目を細めたら、視界がぼやける気配があって、一度、強く閉じた。
上手く思っていることを言葉にできなかったせいで、私とアッシュくんの間には奇妙な沈黙が落ちていた。それが少しだけ居心地が悪いことのように思えて、座ったまま、固まった筋肉を解すように腕を伸ばす。妙にそわそわした。隣にいるのがアッシュくんであるということを考慮にいれたら、それは私にとって、とても珍しいことだった。
そうしながら、ちらりと横に座るアッシュくんを盗み見た。アッシュくんはただ、真っ直ぐ、荘厳な佇まいをした大聖堂を見上げていた。その横顔は、初めて彼と話をした夏からしたら、ずっと大人びていた。
私だけが、あれから全然成長していないみたいだった。
「後方支援の方が向いてそうだけどなあ」
私の「特訓」を見てそう口にしたシルヴァンくんに、悪気はないだろう。
私だって、理学の勉強を楽しめたり、魔法に対する素養が少しでもあるんだったら、武器を持つことを諦め、いっそ後方からの支援に徹しようと考えた。だけど、私は理学の計算がちっとも分からなかったし、魔法をまともに扱えなかった。私の力では、指先の切り傷を癒すのでやっとだったのだ。ここまで不得手なことしかないって、私ってとことん、貴族に向いていない。
何をするにしても、そういう煩悶を上手く払拭しなければ、私の心は些細な衝撃で折れてしまったと思う。いちいち立ち止まって考えて、現実を直視してはいられなかった。私は普段の授業や自主訓練以外でも、積極的に身体を動かすことにした。現実から逃れるためだった。
大修道院内を移動する際、敢えて目的の場所まで遠回りをした。読書家のアネットちゃんが大量の本を前に「返すのに、書庫まで二往復はしなくちゃ」ってぼやいていたから、挙手して手伝った。信者の方の荷物を運んで、ハンネマン先生が金鹿の学級の子(背が高い、グロスタール家の子だ)を探していたから一緒に所在を聞いて回って、食堂の人に頼まれて温室に野菜を取りに行った。意識的に動いていたら、ちょっと痩せた。でも運動しているせいかご飯が美味しくて、体重はすぐに戻った。上手くいかないものである。
ところで、盗賊団の動向を見張っている騎士団の人たちの動きに関して、ベレト先生は定期的に報告を受けているらしい。「いつでも発てるように」との指示はあったけれど、どうも節の終わり頃までは現状を維持するようだった。とりあえず、今すぐどうこう、ってわけじゃないのは安心だな。だって今のところ、特訓を経たことで自分の身体に目に見えるような変化があったかって言うと、一個もなかったから。
だけど有り難いことに、ベレト先生は先生で、私のことをちゃんと考えてくれていたらしい。先生は訓練用の剣を構えて、言われた通りに素振りをしていた私の前で、足を止めた。それからちょっと考えるように首を傾げてから、「」と私に声をかけたのだ。
「剣術を重点的にやってみようか」
それは竪琴の節が半分を過ぎたくらいの、いつもと特に変わりの無い授業中のことだった。