「…………体力」
昼下がりの食堂で、ベレト先生は、「体力をつけたい」という旨を相談した私を前に、じっと考え込むような素振りでいた。その隣には、殿下が座っていらっしゃった。私の後ろの席に座っていた男子生徒が、何か大きな声で笑っていたのが、今日に限っては救いだった。これで周りの空気まで重かったら、多分、この状況に耐えかねて逃げ出していたかもしれないから。
ベレト先生と殿下、二人の前にはまだほとんど手つかずの昼食が並んでいて、私とイングリットちゃんは彼らと向かい合い、同じように昼食を前にしている。イングリットちゃんに、先に食べてもいいよ、と言いたいけれど、この状況であれば彼女は多分、毅然と断るだろう。そう思いながらも一応「イングリットちゃん、良かったら先……」と耳打ちしたら、イングリットちゃんは「いえ、大丈夫です」と静かに首を振った。くぅ、とお腹の音が聞こえたような気がして申し訳なくなる。私にできることは、最早話を早く終わらせることだけだった。
「体力か」
「は、はい。やっぱりまずは体力かな、って……ぶ、武器を持っていられないのは、お話にならないですし……」
私は表情の変化がないベレト先生を前につい小さくなってしまいそうになっていたけれど、どちらかというと、殿下からの視線が気になった。殿下は食器を一度置いて、わざわざ私に向き合うように姿勢を正し、話を聞いてくれていたから。
本当だったら私は、ベレト先生にだけ、こっそりこの相談をするつもりでいた。先生が一人のときに声をかけて、せめて最低限、武器を扱えるようになりたい、そのための体力がほしいのだけれど、どうしたらいいだろうか、と聞きたかった。聞くつもりだったのだ。実際、昨日イングリットちゃんとの「特訓」を終えたときは、それくらいなら簡単に出来る気がした。だけど私は感情を表に出さないベレト先生との距離感を未だ測りかねていて、ベレト先生を前にすると、喉元に準備しておいた「先生!」が引っかかって、咽せてしまいそうになる。朝も、授業の後も、そうしようと思えば話しかけることはいくらでもできたはずだったのに、だめだった。先生から話しかけてもらえたらそれなりに会話はできるのに、人見知りはこういうところが良くない。それで、この半日でみかねたのだろう、食堂に先生がいたのを見つけたイングリットちゃんが、「今です、行きましょう!」と背を押してくれたのだ。
隣に殿下がいるなんて、椅子を引く直前まで気がつかなかった。
「体力作り……となると、走り込みだろうか」
殿下の顔を見るのが何故か怖くて、ついベレト先生と見つめ合ってしまっていたけれど、我に返ると先生は先生で緊張する。
「はしりこみ」
先生の言葉を反芻しながら、私の目線は机の上に置かれた先生の手に落ちた。傭兵という割に、あまり日に焼けていない、けれど骨張った手だった。隣に座ったイングリットちゃんが「先生」と控えめに口にする。私が抱え込んでいるものを、イングリットちゃんはわかってくれている。
「体力作りもですが、の場合、武器にも早く慣れた方が良いのではないでしょうか。今節の課題も控えていますし……」
「イングリットちゃん……!」
イングリットちゃんの言葉に、先生は二三度頷いた。その目は、私とイングリットちゃんの双方に向けられている。
「勿論、並行して武器を振るうことも大事だとは思う」
「じゃあいっぱい走って、武器も頑張って練習して……ですかね……!」
「……だが、それで継続できなければ意味がないな」
「継続……」
「焦るあまり、無理をしてしまっては逆効果だ」
それは、ちょっと自信が無い、かもしれない。私は視野の狭い人間で、一度頑張ろう、こうしよう、って決めると、変に根を詰めてしまうところがあるのだ。
顔に出てしまったのだろう。ベレト先生は「自分もできる限り協力するよ」と小さく頷くと、これまでずっと押し黙ったままだった殿下の方に目線をやった。ベレト先生の長い睫毛が瞬きと同時に静かに揺れる。その動きを、私はなぜだか、妙に神妙な気持ちで見つめてしまう。
「ディミトリも、自分が見られないとき、のことを気に掛けてもらえたら助かる」
目を見開く必要なんか、本当はきっとなかった。
私はファーガス出身の人間が所属する青獅子の学級の生徒で、殿下はその級長だ。在籍していない時分ならば兎も角、この一年に関してのみ言えば、殿下が生徒の代表として同級の人間を手助けするのは、何もおかしなことではない。
でも、やっぱり、どきどきしてしまうのだ。
殿下は先生と見つめ合ったまま、一度その双眸を瞬かせると、ややあってからこちらに目線を寄越した。いつもの、慎みのある、思慮深い瞳だった。私の本心を、優しく掬い上げて探るような。
殿下の唇が、そっと開く。その目線が一瞬だけ、私の手の甲に落ちた気がした。そうされたとき、私はもう、痛くもなんともないはずのそこが大きく疼いた気がしたのだ。
大丈夫、なんともない、いくら言っても、殿下は泥の中にいるみたいに、じっと息を潜めて、聖職者に懺悔するようにいる。言葉を選ぶ殿下は、未だ、どこまでも私を気遣っている。「ああ、俺で良ければ手伝わせてもらう」低く掠れた声が、私たち四人の間に、横たわるように落ちていく。
「さえ良かったらだが」
そんなの、良いに決まってるじゃないですか、お願いしたいのはこっちの方なんですから。そう言いたかったけれど、声にならなかった。代わりにイングリットちゃんが「良かったですね、。殿下と先生がついてくださるなら、百人力です」と微笑んでくれて、私はそれに、曖昧に笑いながら頷く。
実際、イングリットちゃんの言う通り、このことに関してはもう、後は私の努力次第になってくるだろう。なんてったってベレト先生と殿下、イングリットちゃんが協力をしてくれるって言うんだから。本当に、本当にありがたい、恵まれている、なんてもんじゃない。でも、おかげですぐには無理でも、いつか自領の民を守れるくらいに強くなれるんじゃないだろうか。私にとっては高すぎる目標にも、いつか手が届くんじゃないか。その夢がまだ途切れずにいることに、私は確かに安堵している。
「よ、よろしくおねがいします、先生、殿下。イングリットちゃんも」
心強く、嬉しいはずなのに、だけどどうにもそわそわした。この空間が落ち着かないんだろうか。そろりと殿下を見たら、いつもの顔で、彼は小さく笑いながら目を伏せていた。「それでは、私たちもいただきましょうか」と言うイングリットちゃんの言葉に、慌てて姿勢を整える。
少し冷めてしまった昼食は、それが原因ではないだろうに、ほとんど味がしなかった。だけどイングリットちゃんの様子を見るに、食事はいつも通りとっても美味しいらしいから、斜向かいに座る殿下が、私の味覚を鈍くさせているのかもしれない。
咀嚼しながら殿下のことを見ていたら、うっかり目が合ってしまって、参った。頬がじわじわと熱を持って、慌てて目を逸らす。露骨すぎたかも、って内心で物凄く焦ったけれど、殿下は何も言わず、どこまでも美しい姿勢で食事を続けていた。