夕方の訓練場は日が落ちて涼しくなるためか、想像していたよりも生徒の数が多く、それなりに活気があった。私はイングリットちゃんの言う「特訓」からある種特別な響きを感じていたのだけれど、ここで訓練をしている彼らにとって、武器を振って己を鍛えることは、ずっと日常から伸びた線の上にあるものでしかないんだろう。そう思うと、ちょっとだけ、焦りのようなものを覚えてしまった。訓練から目を逸らしていたのは、私自身だったくせに。
 これまでほとんど訓練場に足を運んでいなかった私は、この時間帯にここを訪れたこと自体が初めてだった。口を開けた天井に切り取られた、暮れ始めた薄紫色の空が、自分の中の訓練場の印象から剥離している。たったそれだけで、身が引き締まる。



、こちらです」

「あっ、はい!」



 イングリットちゃんに促されて、慌てて彼女の背を追った。訓練中の生徒の邪魔にならないよう、壁際を歩きながらそろりと辺りを見回す。
 訓練用のものとは言っても、武器がぶつかりあう音っていうのは、こう、体の芯がぞわぞわするものだ。そして多分、というか、間違いなく、私の感じるその「ぞわぞわ」は恐怖に分類される。気を抜くと、折れた槍の柄が、或いは振り下ろされる寸前だった斧の先が、瞼の裏に浮かびそうになる。そうしたとき、「ひぇ」と弱々しい悲鳴ともつかぬ音が、口から漏れそうになるのだ。
 これが寮の、寝台の中だったら掛布を頭まで被ってしまえば良いけれど、外部からの刺激に増幅された「ぞわぞわ」をいなすのは、ちょっと難しかった。ぐっと息を止めてから、長い間、吐き出さずに耐える。そうしているうちに、頭がぴりぴりしてきて、恐怖がまったく別種の苦しさにすり替わる。ぷは、と息を吐き出したとき、私の中に芽生えた「ぞわぞわ」は、僅かだけど小さくなっている。
 頑張らなくちゃ。イングリットちゃんが付き合ってくれるって言うんだから、尚更。
 ところでイングリットちゃんは兎も角、普段からほとんど訓練場に行かない私なんか、ここじゃあ悪目立ちしてしまうんじゃないかと思っていたけれど、そんなこともないらしい。新参者であっても、私なんかを気にする人は誰一人いなかった。お恥ずかしいことに、自意識過剰というやつだった。
 打ち合い、素振り、或いは動きについて相談しているのか、話し込んでいる人。隅の方に座って弓の弦を張り替えている生徒。向上心豊かな彼らは、他人にさほど興味がない。私たちの位置からちょっと遠いところで他の生徒と打ち合いをしているフェリクスくんなんか、まさにそういう人である(少なくとも、そう私は認識している。)勝ち抜き戦でもやっているのか、生徒の一人を地面にたたき伏せたフェリクスくんは「次!」と声を張り上げた。この状況で自分が「次」になんかなるわけないのに、思わずそこから目を逸らしてしまった。
 他に知っている人はいないだろうか、と思ったけれど、直後、私は自分の頭に浮かんでいる「知っている人」の影が、殿下その人であることに思い当たった。それで、自分自身の思考にちょっとだけ面食らってしまって、慌てて首を振る。別に、フェリクスくんと同じくらい訓練場にいそうって自分が思っているのが、殿下だった、ってだけだ。けれど最近の私は殿下のことを考えると、足元がふわふわしてきてしまって、困る。誤魔化すように、「イングリットちゃん」と、訓練用の武器を吟味するイングリットちゃんに声をかけた。イングリットちゃんは手を止めて、きちんと私と目を合わせてくれる。



「みんな、すごいね。盗賊団相手でも、もう渡り合えそう」

「ええ。ですが、も体の使い方さえ分かれば、すぐに身につきますよ」

「そ、そうかな……」



 イングリットちゃんは、私にやわく微笑んだ。その双眸は私への励ましと期待に満ちているように思えたけれど、私は本当に、自分がここにいるみんなのようになれるのだろうか。やっぱり、どうにも不安だった。








 その日イングリットちゃんが私に教えてくれたのは……と言うと、少し語弊があるかもしれないので、言い換える。
 イングリットちゃんがその日私に教えようとしてくれていたのは、槍の構え方だった。今日の授業で、私がへっぴり腰だったのを見て「これは」と思ったらしい。
 勿論、この日の授業で、ベレト先生だって私に(悪い意味で)目を留めた。殿下やフェリクスくん、シルヴァンくんにイングリットちゃん、ドゥドゥーくん……他、基本のできている、できの良い生徒たちには「打ち合いをしていて」と指示を出し、槍を持ったまま一定の姿勢も保てずにいる私を前に「君は、武器の扱い方は、知っている?」と小さく首を傾げたのだった。



「ゆ、弓ならば……と言いたいのですが、たまに父や兄と狩りをしていた程度なので、弓ですら恐らく、平均より下だと思います……」

「そう。じゃあ、魔道の心得は」

「残念ながら少しも……」

「……うん、そうか。わかった」



 ベレト先生が、感情が表に出ない人で助かった。もしもそういうのが顕著に出る先生だったら、私は多分、そこに浮かんだであろう表情に一人落ち込み、煩悶し、三日くらいは引きずっただろうから。
 先生はその後も私の傍で色々指導をしてくれていたけれど、勿論個人授業ではないわけだから、最終的に「まず、君は筋力をつけた方が良い」と言い残して、他の生徒の元に向かった。筋力、あと、基礎的な体力も、だろう。槍を持っていられなくなった私は最後にはそれを地面に置いて、まざまざと見せつけられてしまった己の駄目っぷりに、酷く落ち込んだのだった。肩で息をする私に、「私も、こういった武器の扱いは苦手なのよ〜」とメルセデスちゃんが慰めてくれたけれど、でも、私はメルセデスちゃんと違って魔法が使えない。武器も魔法もてんで駄目。じゃあ、私の存在価値って一体……? どれだけ呆然としても、答えなんかない。
 訓練場で打ち合いをしている殿下たちはそれはそれは、きらきら輝いていた。お兄様も、士官学校に通われていたときは、ああして武器を振るっていたのかな、と思ったら、益々胸が苦しくなった。
 授業中、そうして打ちひしがれている私を見ていたイングリットちゃんは、だから、「せめて構え方だけでも」と思ったのだろう。筋力や体力は後からつけるにしても、まず正しい構え方ができるようになれば心持ちも変わってくるはずだから、と。
 その考えは、私の性格を照らし合わせても、物凄く合っていたと思う。私は単純なので、「なんか出来てる気がする」だけで、随分前向きになれるのだ。だけど問題は、正しい構え方を維持できる筋力と体幹が、全く足りていなかったことだ。イングリットちゃんに一対一で教わっても、槍を持った私の下半身はぐらつき、重さに耐えきれない腕はぷるぷると震えていた。訓練用だと言うのに槍をずっと握っていられず、定期的に手から離さなければ、皮膚が真っ赤になった。
 特訓以前の問題であることは、明白だった。



「すみませんでした、。特訓と言っておきながら、役立たずでしたね……」



 申し訳なさそうに項垂れるイングリットちゃんに、慌てて首を振る。役立たずなんて、そんなわけがない。



「そんな、違うよ、私がだめすぎるの! だって体の使い方以前の問題なんだもん……」

「やはり先生の言う通り、は体力作りからなのでしょうか……」

「うん……たぶん……」



 走り込みとか、そういうやつからした方が良いんだろうな。走るのか……いやだな……と思いそうになる自分の頬を頭の中でひっ叩く。いやだな、じゃない。頑張るしかないのだ、私は。



「とりあえず、先生とも相談して体力作りからやってみる。今日はありがとう、イングリットちゃん」



 言いながら、深々と頭を下げる私に、イングリットちゃんが「手助けが必要でしたら、いつでも言ってください。頼りないかもしれませんが……」と言ってくれるのが、うっかりすると泣けるくらい、嬉しかった。
 いつの間にか訓練場の空はすっかりと日が落ちていて、あれだけいた生徒たちも、今はもうほとんどまばらだ。フェリクスくんもいつの間にかいなくなっていて、思っていたよりも時間が過ぎ去っていたことにびっくりしてしまう。
 見上げた空に、微かに星が瞬いていた。相変わらず武器の扱いはてんで駄目だし、どうにかなる気もしない。今節の課題に関しては、まだ不安だらけだ。でも、ベレト先生に勇気を出して相談してみよう、と思えるくらいには、気持ちは前向きになれていた。これって、「特訓」前と比べたら、すごい進歩だ。だってそうじゃなかったら、ずっとうじうじしていたから。
 私のことを気に掛けて、応援してくれるお友達がいるって、本当に有り難いし嬉しい。感謝しながら訓練用の槍を片付ける。イングリットちゃんが「お腹が空きましたね」と呟くのに、「うん、空いたあ」と返した瞬間、どちらともなくお腹が鳴って、二人で笑った。