不運が重なった事故だった。
あれはガルグ=マク士官学校に入学して間もない、良く晴れた日のことだった。その頃まだ正式に授業は始まってはいなかったけれど、私たち学生は書庫や訓練場の利用、見学は認められていた。それで本を探しに行く際、訓練場近くを通りかかった私は、折角だからと何の気なしに立ち寄ることにしたのだ。そういう細やかなことの積み重ねで、事故っていうのは起きるものだった。
天井になるものがないため、容赦なく光の注ぐ訓練場の中央では、数人の生徒が武器を振るっていた。勿論訓練用で、殺傷能力は(よっぽど当たり所が悪くなければ)低いものだ。訓練をしている人たちは、半分以上が見知った人だった。要するに、既に教室で何度か顔を合わせた、青獅子の学級の生徒がほとんどだったのだ。ちょっとだけ緊張していた心が和らいで、そのまま彼らの訓練を見学することにした。後学のため、彼らがどんな風に武器を扱うのかを、見てみたかった。
だけど訓練場の隅にいれば邪魔にならないだろうと、同じように見学をしていたらしい数人の学生の傍に向かおうとした丁度そのときだった。私の耳が、何かが折れるような鈍い音を捉えたのは。
「危ない!」
弾かれるように叫ばれた声の方に顔を向けたその瞬間、私に飛んで来る、折れた槍の柄があった。
眼球に突き刺さる寸前まで真っ二つに折れたそれを見ていた私が、どうやって避けたのかは分からない。いや、正確には、避けたんじゃなくて右手の甲で防いだのだ。体に触れた部分が槍の切っ先ではなく、柄の部分だったことも幸いだったけれど、それでも鈍い痛みと衝撃で、気が遠くなる。激しく痛む患部を見るのが怖くて、そのまま右手を押さえて地面に蹲った私の元に真っ先に駆け寄ったのは、直前までフラルダリウス家の男の子と手合わせをしていた、ディミトリ殿下だった。ぬるりと左手に伝わった生ぬるい感触に狼狽える私の名前を、驚くべきことに、彼はきちんと、正しく呼んだのだった。
幸運なことに、その場にいた同じ学級の女の子達(アネットちゃんと、メルセデスちゃんの二人だ。彼女たちもまたこのとき、訓練場を見学していたのだった)に治療をしてもらって、すぐに傷は塞がったし、怪我の具合という点に関してのみ言うならば、大事には至らなかった。
それでも、もしも怪我をしたのが手でなくて眼球だったら、失明したっておかしくなかったらしい。それを聞いてすっかり腰を抜かしてしまいそうになったけれど、私なんかよりも殿下のほうが、ずっと酷い顔をしていた。殿下は訓練場の端、人だまりの中央にいる私に向かって膝をついて、私としっかり目を合わせると、「すまなかった」と言った。それで私は、殿下の槍が私に直撃したのだと、ようやく気がついたのだ。
「で、殿下、そんな」
「俺の不注意だ。……他に怪我はないだろうか、」
慎み深い静かな声は、微かに震えていた。私の右手を前に、彼はそっと目を伏せる。それは私みたいな、平民とそう大差の無い、小さな領土しか持たぬ男爵家の娘に、してみせる態度だとは思えなかった。
殿下の傍らには、折れた槍の残骸がある。いつもなら散らかっているはずの私の思考は、殿下を前にして研ぎ澄まされていた。治癒魔法によって手当てをされた私は、砂の敷かれた地面に落ちた赤黒い血痕さえなければ、怪我をしていたとはもう分からないくらいだったし、実際もうどこも痛くはなかった。きっと、派手に出血しただけで、大した怪我ではなかったのだ。塞がった傷を前に沈痛な面持ちでいる殿下は、なのに、一体どうしてそんなに苦しそうにしているのだろう。私は、もう大丈夫なのに。
だいじょうぶですよ、殿下。
私の声は、か細すぎるあまり、もう全然、言葉になってはいなかった。
だったらいっそ、大きく指で丸でも作ってあげたらよかった。
寮の部屋に戻って寝台に寝転び、右手を空に掲げても、私のそこは、何の傷も残ってはいなかった。
殿下は良く、物を壊した。
ふとした瞬間文字通り筆を折り、手にしただけで皿を割り、私が貸した鋏は翌日真新しくなって帰ってきた。丁重に扱おうとしても、気を抜いた瞬間、彼の手の中で物体はあらゆる方向にねじ曲がった。それは殿下が、ブレーダッドの紋章をその身に宿しているせいだった。
私の兄もカロンの小紋章を持っていたけれど、私生活に支障を来すようなものではなかったし、それは他の、同じように紋章を持っているイングリットちゃんやフェリクスくんを見ていても、そうらしい。ブレーダッドの紋章を持つ彼だけが、普通の生活を送るのに苦心している。いつも慎重に、神経を研ぎ澄ませている。
「扱いに慣れているものであれば加減が分かるんだが……慣れたつもりでいたものですら壊してしまうんだから、手に負えない」
槍ですら、ここにきてこれで二度目だ、そう殿下は言いながら、「……あのときのことは謝っても謝りきれないな」と、再び私に謝罪をする。一体これで何度目だろう。緩く首を振っても、どうかもう謝らないでください、って直接言ってもこうなのだから、これはもう殿下の性格なのだ。そして、それに対して上手い言葉を返せない私も、機転が利かない女である。
ガルグ=マクまでの道を歩きながら、私は段々痛み始めた横腹をこっそりさすった。今、殿下はものすごく大事な話をしていらっしゃるというのに、私は今、一日の疲労がここにきて最大値に達しているのだ。野営訓練時の帝国領までの道程に比べれば、今回の対抗戦の舞台はよほどガルグ=マクに近いというのに、なんてざまなんだろう。咳払いをしながら、ぜいぜいし始めた喉を誤魔化す。そうした瞬間、殿下はぽつりと言葉を漏らした。「明日から正式に授業が始まるが」と。
「……大丈夫か?」
大丈夫です、と咄嗟に答えそうになって、飲み込んだ。息をするように同意をしてから、その後で仔細を確かめようとするのは私の悪い癖だけれど、今回そうしなかったのは、私の顔を覗き込んだ殿下の表情が、労りに満ちていたせいだ。だから、つい、「大丈夫、とは」と聞き返してしまった。
「……その、俺の口から言うのもおかしな話だろうが、無理はしないでほしい」
「む、無理?」
「ああ」
この時私は、殿下の言っていることの半分も理解できていなかった。彼の言わんとしていることが飲み込めず、眉を寄せて首を傾げる。思考に神経がいくと、腹痛も疲労も、消えてなくなるらしかった。それは私にとって、それなりに大きな発見だった。
殿下は私の視線から逃れるように、そっと目線を落とす。「には怖い思いをさせてしまったから」と、私にしか聞こえない声で、続ける。
「だからあれ以来、お前は訓練場に近づかなくなっただろう」
訓練場に、近づかなくなった。
殿下の言葉を、頭の中でゆっくり反芻させる。一度それを噛み砕いてから、改めてこの一節のことを振り返った。訓練場には、あれから確かに行っていない。行ってないけれど、それは別に、殿下の言うような「怖いこと」、畢竟、精神的外傷が原因ではなく、私自身の理由でもって避けていたからに過ぎなかった。要するに、「訓練の仕方も知らない私が行っても周りの迷惑になるのでは?」ということだった。
自己流で変な癖をつけるよりは、武器を扱うことに関しては、授業が始まってからでも良いのではないだろうか、そう言い訳をして、私は訓練場に近づくことをしなかった。これはある意味現実逃避に近く、「強くならなければ」という目標から目を逸らした行いであることは自覚している。でも、どうしても足が進まなかったのだ。へろへろの矢を放って、訓練場に足繁く通う殿下たちに笑われるのが怖かった。私が臆病だっただけなのだ。だけどそれが、殿下の気を病ませていただなんて。
「で、殿下」
私の短い呼びかけに、けれど、殿下はすぐに顔をあげた。その双眸が真っ直ぐこちらに向けられたのに、つい躊躇してしまいそうになったけれど、今否定しなければ、殿下の勘違いを拭いきれないことは明らかだった。「あの、殿下、それはちがいます」って、はっきりと首を振る。殿下は微かに目を見開いて、頭一個分以上高い位置から、私のことを見下ろしている。
「違う?」
「や、ええと、確かに行ってはいないんですけど、その、それは殿下のせいではなく、私が全然武器を扱えないからで……。ど、どちらかというと、恥ずかしくて行けない、の方が正しいっていうか……」
「…………」
「授業があれば勿論行きます。そりゃあ喜んで、ではないですが……。ですから、その、殿下が気にされているような、精神的な恐怖とかではないです。……あっ、でも剣の振り方もめちゃくちゃだろうから、ベレト先生に呆れられてしまうかも、という意味では、精神的な恐怖はありますけど……」
そこまで言い切ったとき、ふ、と、頭上で声が漏れた。それはなんていうか、ずっと耐えていた笑いが、とうとう堪えきれなくなってしまった、みたいな音に似ていた。
そろりと視線を上げると、殿下がその相好を崩して私を見つめている。殿下は、小さく笑っていた。やっぱり困ったみたいに、眉尻を下げて。私はそれを、口を半開きにさせて見ていた。殿下が泣き出す一歩手前のような顔で私を見ているのを、ただ、見ていることしかできなかった。
「そうか」
私たちは、いつの間にかガルグ=マクへと戻る生徒たちの、最後尾を歩いていたらしい。前方の方で、騎士団の方が私たちに向かって「そこの二人、遅れてるぞ!」と報せてくれるのを聞いて、ちょっとだけ、足の幅を大きくした。そうしたとき、殿下は私に合わせてくれていたんじゃないだろうかと、気がついた。
確かめようと見上げれば、ほとんど落ちてしまった陽の光が木の間から差し込んで、殿下の輪郭を溶かしていた。そのとき、「……そうだったんだな」と、言い含めるみたいに殿下が言った。その声色があまりにも優しくて、その瞬間、私の奥底にしまい込んだ感情が、微かに震えた気がした。