大方の予想を覆す形で担任に抜擢されたのは、イエリッツァ先生ではなく、殿下たちを救ってくれた例の傭兵の人だった。それも、私たちとそう変わらない年頃に思える、年若い男性の方。名前はベレトさん……というらしかったけれど、これからは、先生、って呼ばなくてはならない。なんてったって、彼は私たちの所属する、青獅子の学級の担任教師になったのだから。
「、彼ならば怖くないですか?」
私にこっそり尋ねるイングリットちゃんに、からかう意図はないのだろう。だって、すごく真剣そうな顔をしていたから。「べ、べつにイエリッツァ先生でも怖くなかったもん」と小声で嘯いて、ベレト先生を中心に出来た生徒の輪の、最奥の列から彼を見る。
ベレト先生は、なんだか不思議な色の目と髪をした人だった。涼しげな目元はあまり感情というものを出さなくて、だけど、あの夜の殿下のものとは、全く別のものであるように思える。もう一人の年配の傭兵さん(ジェラルトさん、という彼は、一方でセイロス騎士団の団長に任命されたらしい)とは血の繋がった実の親子だと耳にしたけれど、二人は表面的な部分にのみ関して言うならば、あんまり似ていなかった。ジェラルトさんは、大きな声で、自分の感情を表に出す。きっとベレト先生はお母さん似なんだろう。少なくとも、その容姿や性格に関しては。
長く傭兵として働いていた、殿下曰く「腕利き」の先生。先日、大修道院内を歩いていた彼の姿を見かけたときは、まさかそれが教師になるための見学だったなんて思ってもみなかった。長く続いている士官学校の歴史から見ても、傭兵が教師になるなんて、きっと異例のことであるのは間違いない。でも、彼はほんとうに、私たちの先生になるらしい。
「これから一年、よろしく」
短くそう口にしたベレト先生の声色には抑揚がなくて、イエリッツァ先生までとは言わなくても、何だかこわそうな人だな、って思った。イングリットちゃんには怖くない、って言ったくせにね。でも、そう思ったそばから、慌てて首を振る。まずは一方的な苦手意識を抱くことをやめなければ。無自覚に重ねる恐怖心なんて、ねじ伏せていかなくてはならないのだ。
よろしくおねがいします、と皆にまざってご挨拶をしたら、ベレト先生はちゃんと、私に対しても「よろしく」って言ってくれた。私は大層単純な人間なので、たったそれだけで、これから一年を上手く過ごせるように思えたのだった。
彼が教師としてガルグ=マクに留まることになると決まる以前から、もっと話がしたかった、と言っていた殿下は、いつもよりも気持ち、表情が和らいでいるように思えた。殿下が嬉しそうだと、私も嬉しい。多分それは、この学級にいるみんながそうなんだとは思うけれど。
解放された教室の入り口から差し込む光は、私たちの足元まで、ぬるく伸びている。それが私たちの未来を祝福しているようだった。私は確かにそのとき、そう思っていたのだ。自分の勘が異常に悪いことも忘れて。
でも、先生がいてくれなかったら、私たちは間違いなく破滅の道を辿っていたことになるのだから、そういう意味ではこのとき、私の感覚は、いつもよりは正しく冴えていたのかもしれなかった。
大樹の節の最終日に、士官学校では例年、学級別の対抗戦が行われることになっていた。それぞれ正式に担任教師が決定した黒鷲の学級、青獅子の学級、金鹿の学級の三つ巴の戦いとなるそれは、各学級から選ばれた数人の代表者によって行われる。
指揮を執るのは各学級担任である先生と、級長だ。今回私たちの学級から選出されたのは殿下の他に、ドゥドゥーくん、それからメルセデスちゃんとアッシュくんだった。殿下と先生とで話し合って代表を選んだみたい。フェリクスくんはそれでもやっぱり自分も参加したかったみたいで、「まあ、外から先生の動きを見るのも良いだろう」と不承不承といった様子で頷いていたけれど、結果を見れば、釣り合いの取れた良い編成だったのだと思う。
対抗戦が開始されると、殿下たちは、まず先陣を切ってこちらに向かってきた金鹿の学級の男子生徒二人をその級長たちから切り離して撤退に追い込みつつ、北から現われた黒鷲の学級のドロテアさんを迎撃。ドロテアさんはすぐに自陣へと引き返したものの、これを陽動であると判断して深追いはせず、西の森に潜伏していた金鹿の学級の級長たちを叩くことを優先した。彼らが身を隠していた遮蔽物を迂回すると、数の有利を持ったままに攻撃をし戦力差でねじ伏せる。その後は森林地帯を利用して、南下してきた黒鷲の学級の生徒たちを各個撃破。エーデルガルトさんの斧を受けたとき、殿下の槍が折れるという事故があったけれど、その隙はつかせないとばかりにアッシュくんの矢がエーデルガルトさんの腕に突き刺さり、青獅子の学級は勝利を収めたのだ。
私はその様子を外から見ていて、それはもう興奮してしまった。なんて鮮やかなんだろう! って。フェリクスくんは、私の真横で「まあ、まともな兵の動かし方をするな」と言っていた。殿下については、槍を折ったことに対して「最後の最後で、またあの猪は……これでもう二度目だろう」と苛立ったように漏らしていたけれど。
「ですが、フェリクスはあれでも褒めているんですよ」
そうイングリットちゃんが教えてくれたけれど、フェリクスくんは「ふん」と言うだけで、ちっとも表情を変えなかった。
でも、みんな本当にすごい。用兵に優れた先生の指揮は勿論そうだけど、その指示通りに動くにはまずそれだけの実力がなければいけないと思う。思いがけず武器が壊れてしまっても、咄嗟に対応できるのだって、並大抵のことではないだろう。自分だったら、アッシュくんみたいな反応ができたかな。そういうことを考えたとき、私の目の前には、真っ二つに折れた槍の柄があった。それは見覚えのある光景だった。折れたそれが眼球に突き刺さるかどうかの寸前まで、私は剥き出しになったその先を、ただ、じっと見ている。
フェリクスくんの言う通り、殿下が槍を折ったのは、これで二度目だった。
「ほら、。殿下たちが戻ってきましたよ」
「うぇっ?」
イングリットちゃんに肩を叩かれて、現実に引き戻された。殿下の手には、折れた槍の残骸がある。それは応援していた生徒たちの影に飲まれて、呆気なく消えてしまう。どこを見たらいいのかわからなかった。殿下やアッシュくん、ドゥドゥーくんやメルセデスちゃんに拍手をして、ばくばくと音を立てる鼓動にあわせて、呼吸を整える。そのとき視界の端っこで、他の人とは違う動きをする人影が引っかかった。あの髪の色は、ベレト先生だ。
戦闘を終え、戻って来た殿下たちと喜びを分かち合っている生徒たちの輪から、先生は随分離れたところにいた。今回の対抗戦を見学していたジェラルトさんと、何かお話をしているみたいだった。その横顔はやっぱり、ほとんど感情というものがなくて、先生は、あんまり嬉しくないのかな、とぼんやり考える。ずっと傭兵として生きてきた先生からしたら、もしかしたら、こんな勝利は当たり前で、なんてことないものなのかもしれない。
黒鷲の学級や、金鹿の学級では、それぞれマヌエラ先生やハンネマン先生が生徒たちの健闘を称えている。そういうのを見ると、なんだかちょっと、思うところがなくもなかったのだけれど、でも、だからどうしろっていうんだろう。私が先生のことを知らないように、先生もまた、私たちのことを知らない。先生だって、成り行きでやらされているだけかもしれないのだ。耳の奥できんと音が鳴っている気がして、そろりと目を逸らした。
そうしていても、私の目には、あの日の光景があった。殿下の槍が初めて折れた、あの日の昼下がりに、私は時折、こうして引きずりこまれてしまう。
ガルグ=マクへと戻る道中、「」と名前を呼ばれた。
振り向いて、ぎょっとする。落ち始めた陽の中でこちらを見ていたのは、殿下だったのだ。慌てて背筋を伸ばして、腑抜けていた眉にぎゅうと力を入れる。「お疲れさまでした、殿下」と言えば、殿下はちょっとだけ、困ったように笑った。殿下は私を前にすると、よく、こんな風に笑う。
緊張を押し殺すように一度ぎゅうと唇を噛んでから、ぱっと顔をあげた。私の眼には、直前まで見ていた二人分の長い影が焼き付いていた。傾いた太陽の光が、私たちの行く先を照らす。なだらかな傾斜の道を歩く私たちがつけた無数の足跡が、ガルグ=マクへと続いている。
「殿下、すごかったですね」
「いや……俺の力ではないよ。ドゥドゥーたちの力もあってこそだが……何より、先生の采配が的確だったんだ」
「でも、殿下たちもそれに従って動けるんだから、すごいですよ」
「はは。そう言ってもらえるのは嬉しいが……」
殿下はそこで少し言い淀む。目線を泳がせて、どこか考え込むみたいに一度瞼を伏せる。
私は、どうして殿下が私に声をかけてくれたのかが分からなかった。確かに殿下が私の名を呼ぶ直前、イングリットちゃんが他の学級の女子に声をかけるシルヴァンくんを見つけて走って行ってしまい、一人で歩くことになってはいたけれど、殿下がそれに気を遣って、ということでもない気がした。
言葉を選んでいるのか、そのまま考え込むように視線を落としている殿下に声をかけるべきかどうか迷って、結局私は口を噤んだ。だけど、殿下はそれから暫くして、私たちの間に落ちた沈黙をまるごと包み込むみたいな声色で、「今日、俺はまた槍を折っただろう」と言った。それで私は、分かったのだ。どうして彼が今、こうして私を気遣うように、隣にいるのかを。
そっと殿下を見上げた。「それで、お前は大丈夫だろうかと……思った」だけど、殿下は私の方を、きちんと見てはくれていなかった。私たちの前を歩く、金鹿の学級の子たちの後ろ頭を、彼はその視界の真ん中に置いている。
「俺は、またを怖がらせてしまったんじゃないかと」
もう痛くもなんともないはずの右手の甲の皮膚が、瞬間、突っ張ったような感覚があった。士官学校の入学直後の私がした、転んで両手の平に小石を埋め込むよりも「もっと派手な怪我」。殿下はそれを、ずっと気に病んでいる。だからこうして、他の人よりも、小さじ一匙分ほど、私を気に掛けてくれている。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、目の前が白んだ気がしたけれど、気のせいだった。きっと。