夜明けを待ち、私たちが再び王国領を通過してガルグ=マクに戻ってから半日が経って、セイロス騎士団を伴った殿下たちもまた大修道院に帰還した。
 先に戻って来ていた伝令兵から殿下たちの無事は予め報されていたけれど、それでもやっぱりその姿を見るまでは落ち着かなかった。本当に、本当に大丈夫なのかな、って。だからその日の昼過ぎ、釣り池のあたりを彷徨いていたときに門の方から歓声が聞こえたその瞬間、弾かれるみたいに顔をあげたのだ。青い外套が、真っ先に視界に飛び込んだ。それだけで、安堵でいっぱいになった。
 本当だったら私も、皆みたいに殿下たちの帰りを門付近で待ち、出迎えても良かったんだろうけれど、変な遠慮があってできなかった。私はイングリットちゃんやシルヴァンくんみたいに殿下に近しい間柄ではなかったし、ドゥドゥーくんみたいに殿下の身を心底(それは本当に、言葉以上の意味で)案じる立ち位置にはいなかったから。



「殿下たち、戻られたみたいですね」



 その時食堂の階段の方からやって来たアッシュくんも、もしかしたら、私と同じような遠慮があったのかもしれない。その視線が、殿下と話しているイングリットちゃんたちの姿に向けられているのを見て、私もまた倣った。大樹の節の陽光は温く、どこか白々と敷石を照らしている。



「うん」



 小さく口にした相槌に、アッシュくんが気がついたのかどうかは分からない。それくらい、小さい声しか出なかった。雑踏にも、足音にすらも、呆気なく飲み込まれてしまいかねないくらいの声しか。



「怪我もなさそうですね。……良かった」

「ね、ほんとう」



 殿下たちは付近の村に滞在していた傭兵団に助力を依頼、セイロス騎士団が到着するまでの間に、傭兵の協力を得て盗賊たちを追い払ったのだと言う。今、彼らの近くにいる見慣れない装いをした男性たちがそうなのだろう。傭兵の人って、雰囲気が独特だから何となくそうと分かる。歴戦の猛者、と言った肩書きが似合う、がっしりとした体躯の男性と、それから妙に美しい面立ちをした、私たちとそう年代の変わらないように見える青年は、これから教団より謝礼と報酬を受け取るのだろうか。じっと見つめていたら、偶然なのか殿下がこちらを見たから、アッシュくんと二人、慌てて頭を下げた。殿下は、軽く微笑んだようだった。
 月明かりの下、まるで中身の詰まった砂袋を裂くだけのような仕草で容易く賊を切り伏せた殿下の横顔は、今でも鮮明で、それを思い出すと、胸の内側が大きく脈打つような感覚に襲われる。
 あのときの殿下の双眸は、感情がすべて削ぎ落とされていたように思えた。


 





 傭兵の人たちは、圧倒的な実力を持っていた。あの後レアさまたちに報告を済ませ、私たちが待つ教室へと戻って来た殿下は、力を貸してくれたと言う傭兵たちをそう評した。特にジェラルトさんと言う方の指示は的確で、統率の取れていない賊の隙をつくことは易かったのだとか。勿論、剣士の青年の実力も目を見張るものがあった。士官学校に戻るまでの道中、多少話をしたけれど、出来ることならばもう少し彼らと共にいたかった。そう話す殿下の表情は明るくて、私は自分の記憶にこびりついていたはずの殿下が、途端にほろほろと崩れ落ちていくような感覚を覚える。あれだけはっきりと目に焼き付いたはずだったのに、と思ったけれど、殿下が笑っているならば、それでいいように思えた。



「兎に角、心配をかけていたらすまなかった。俺はこの通り無事だから、安心してほしい」



 今回の件を受けて、授業は二日ほどお休みになるそうだ。混乱の最中、担任を引き受ける予定だった先生が一人逃げ出した、というのはやっぱり事実だったらしくて、その調整をしなければならないらしい。



「となると、代わりの先生は武術師範のイエリッツァ先生でしょうか」

「あ、ああ〜」



 殿下の話が終わり、張り詰めていた空気が微かに解けた教室の中、イングリットちゃんはそう私に呟いた。
 代わりがイエリッツァ先生。そうか、そういう可能性は、すごく高いのか。だって、今から誰か新しい先生を急遽探すのなんて、大変だもんね。たった二日で代わりが見つかるなんて、到底思えないし。
 イエリッツァ先生とは入学した直後、大修道院の見学をしていた際にご挨拶をさせてもらったけれど、仮面で顔を隠した彼は、私にとってなんだかとても近寄りがたい人だった。背が大きくて、声がびっくりするくらいに低くて、表情はほとんど動かない。それに、あの長い手足で武器を振るわれたら、大抵の人はちょっとやそっとじゃ敵わないだろう。彼が武術師範という立場であるのも、頷ける。
 頷ける、けど、担任の先生、って言われたら、ちょっとこわいかも。
 口にはしなかったのに、イングリットちゃんは私の表情で内心を察したらしい。ちょっと笑って、「は本当に顔に出ますね」と言われたので、慌てて両手で顔を隠す。



「で、出てない出てない」



 イエリッツァ先生が担任になるんだったら、ハンネマン先生かマヌエラ先生がいいな、なんて、ちっとも思ってない。
 イングリットちゃんは、だけど私の顔を見て、「そうでしょうか」と笑っている。イングリットちゃんは、それこそイエリッツァ先生が担任になっても、私みたいに怖いだなんて思わないんだろうな、って思ったら、勝手に打ちのめされそうになった。こういう心構えは、まったくもってよくない。誰が私たちの担任の先生になっても、私のやるべきことは一つだ。ちゃんと勉強する。体力もつける。武器も扱えるようになる。……あれ、これじゃあ一つじゃないな。でも、やるしかない、頑張らなくちゃ。いろんなことに、怖がってばかりじゃいられない。まずは、担任の先生が誰になっても全然平気、っていう顔ができるようにならなくちゃ。頬を押さえていた両手をそろりと下ろす。頬に張り付いた髪が、その存在を微かに主張しながら離れていく。
 教室の奥の方で話をしている、フラルダリウス家の――私の首根を引きずって後方にいるよう指示してくれた彼だ――フェリクスくんと、シルヴァンくん、それから殿下の三人に視線を送ったのは、耳に、殿下の声が届いたからだ。殿下の声は、穏やかで角がないのに、色んなものが混ざった空気をすり抜けるみたいにして、私の耳に入る。



「……ああ。フェリクスも、彼から学ぶものは多いと思う」



 件の傭兵さんの話だろうか。
 殿下にも、あとはフェリクスくんにも、あのとき助けて貰ったことのお礼が言いたいのだけれど、あそこに入る勇気なんかあるはずがなかった。それに、フェリクスくんは兎も角、殿下はもしかしたら私を助けてくれたことなんか、気がついていなかったかもしれない。だって、少しも目が合わなかったんだもの。私が「ありがとうございました!」って頭を下げたところで、何のことかわからない、なんて顔をされてしまったら、羞恥と動揺で眠れなくなってしまいそうだった。
 「怖いもの」を自分から一つずつ取り除くことを目標にするのであれば、私はまず、殿下のことを克服しなければならないだろう。
 私たちの住まうファーガス神聖王国の、次期国王となるディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド殿下。席に座ったまま彼のことを見つめていたら、その青い瞳がこちらに向いた。どうしたらいいかわからなくて、そわそわと視線を逸らしたのち、どうにか笑った私をうけて、殿下は困ったように眉尻を下げ、笑みを返してくれた。
 殿下は、アッシュくんと一緒にいた昼もそうだったけれど、こうして学級の全体を見ようとしてくれている。将来国を背負う立場にある人として当たり前のこと、なのかな。でもそういうことって、簡単にはできないと思うから、やっぱり殿下はすごいひとだ。


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