ガルグ=マク大修道院は、ここフォドラの大陸の、丁度中央に位置する。
各国の優秀な貴族子弟や有望な平民の学びの場として開かれた士官学校に、しがない弱小貴族の、それも第二子である私が通うことになるなんて、数年前は夢にも思っていなかった。私は兄と違って紋章を宿していなかったし、従ってお父様たちの期待を背負うこともなかったから。
自分で言うのもおかしな話かもしれないけれど、私は実に、絵に描いたような「お嬢さん」だった。
もしも私がもっと北、スレンが攻めてくるようなゴーティエだったり、かつて大飢饉に見舞われたガラテアに生まれていたら、もう少し貴族としての矜持や誇りを持っていたのかもしれない。だけど侵略の不安もなく、王国の中でも比較的過ごしやすい南部地方に生まれた、継承権も紋章も持たない私は、生まれ持っての気質もあったのかもしれないけれど、それはもうお気楽だったのだ。それなりの知識と、それなりの愛嬌と、それなりの根性さえ持っていれば、とりあえずはどこかのおうちにお嫁さんにいけるよね、って、物心ついたときからそう思っていたし、周囲もそれを良しとした。引く手あまたとはいかずとも、兄が紋章を持っているのだ。可能性を求めて、近しい血筋を求める貴族はいるだろう、と。
私に長時間の移動すらも困難な基本的な体力がないのは、私がそういう生き方をしてきたためだ。弓以外の武器の扱い方もまともに知らないのだって、魔法の知識がないのだってそう。教養を身につけるためという大義名分を笠に着て、本を読んでいた。お菓子を作ったり、編み物をして、お兄様についていた人よりもずっと優しく甘い家庭教師を持った。領地の視察に赴く父と兄に付き添っては、街や点在する村を見学してまわった。
取り立てて特産品のない、強いて言うなら麦の出荷量が多いかもしれないくらいの、小さな領地は、私ではなく、お兄様が守るものだった。
皆がそう信じていた。
「どけ!」
「わわ」
まともに武器も振るえないなら下がっていろ、そう言われて首根を掴まれ背後に押しやられる。だけどそこだって安全地帯でない以上、賊の攻撃対象から外れるわけでもない。弧を描き容赦なく飛んでくる手斧から身を守るために頭を抱えて蹲ったら、直後二歩分真横に矢が突き刺さって、目を見開いた。月明かりの下、鏃に妙な液体めいたものが塗られているように思えたが、あれが毒だとしたら、彼らは一体どれだけの殺意を持って私たちに向かっているのだろうとぞっとする。
「足を止めるな! 動け!」
「は、はいぃ……っ」
頭上からの怒声に慌てて立ち上がる。下がっていろ、だの動け、だの、難しいよ。難しいけど、ちゃんとしなくちゃ。だってこれってもう、死と隣り合わせだ。士官学校に入学して初めての野外訓練で、こんな恐怖を味わうことになるなんて思ってもなかった。
深夜、眠りこけていた私は劈く鐘の音で叩き起こされた。敵襲を報せるそれに、私は最初、訓練の一環だろうと思っていたのだ。だけど天幕の外に広がっていた物々しい雰囲気は、深刻な事態であることをひしひしと私に実感させた。賊に取り囲まれているのだと、セイロス騎士の男性が私たちに説明した。隣にいたイングリットちゃんはもう、数刻前、飯盒炊爨で見せたきらきらした瞳をしていなかった。森の奥にある、獣以外の生きた何かの息の音を、私たちは確かに聞いていた。
野営地を出たのは、賊の狙いが私たちの荷にあるのではないかと踏んだからだったし、敵の数を見誤ったからでもある。月明かりだけを頼りに進んだことで、知らず知らずのうちに縦に伸びてしまった隊列、その真ん中あたりにいた私たちは、森から際限なく現われる賊の格好の餌食になっていた。先生が一人逃げてしまったとか、殿を務めている騎士団の一部が足止めを食らっているらしいとか、そういう情報が錯綜して、混乱する。そうすると、判断力が鈍る。そんな大層なもの、そもそも私は持っていなかったけれど。
けれど叛乱の鎮圧だとか、賊の討伐だとか、そういうことを経験している貴族の人は、案外多い。特に、次期領主となることが約束されている人たちは。棒立ちの私を叱り飛ばした黒髪の彼だって、王の盾と名高いフラルダリウス家の人だ。彼を含めた優秀な貴族の方々は、冷静に賊を切り伏せて、慣れていない私のような人間を守ってくれた。狩りでしか使ったことのない弓を背負う私は、自分の身を守るのに精一杯なのだ。飛んで来る矢を避けて、私以外の誰かが切りかかった賊の血溜まりを踏みつけて、立ち止まることも泣くこともできずにいる。現実じゃないみたい。そう思うのは、やっぱり、私が兄の影の中、お気楽な生涯を歩いてきたからに違いない。
私の目の前で斧を振りかぶった男がいた。人は死の予感を覚えたそのとき走馬灯を見るのだと聞いたけれど、私が瞼の裏で見たのは兄だった。「、すまない」謝らないでお兄様、私は大丈夫だから、その言葉は嘘だったけれど、私はこのとき自分が吐いてしまった嘘を、本当にしたかった。
次の瞬間、脇腹を薙ぎ払われた男が、血を噴き出し倒れた。闇の中呻き、藻掻いていたその影がやがて力尽きたそのとき、私は私を助けてくれた人を見上げた。彼の背丈よりも長い槍から、真新しい血が流れていた。彼の澄んだ青い瞳は、決して私を見てはいなかったけれど。
「殿下」
月光を受けて輝くその金の髪を、私はいつも、恐ろしく、美しいと思っている。
私たちの命の危機が去ったのは、あの後、殿下たち各学級の級長三人が機転を利かせて囮になってくれたからだ。
賊のほとんどが彼らの背を追いかけていったのを見るに、もしかしたら彼らの狙いは、殿下たち三人だったのではないかと思われた。実際、彼らは私たちの荷などには見向きもしていなかったから。
その可能性に思い当たったのは、勿論私だけではない。セイロス騎士団は残っていた賊を殲滅した後、すぐに兵を整えて、彼らの後を追った。殿下たちが戦っているのなら、挟撃することで一網打尽にできると踏んだのだろう。一方で、私たちには野営地での待機命令が下された。戦力が必要とは言え、まともに戦えない人間が複数いる以上、戦闘に慣れた生徒達だけを連れていくわけにもいかない、そういう真意が、そこには確かにあった。それに気がついてしまうと、居たたまれず、申し訳なかった。やっぱり、戦えなくちゃだめだな、って、改めて自分の前に、課題として、それを置く。
幼馴染みのシルヴァンくんと話し込んでいるイングリットちゃんを横目に野営地を歩く。当然のことであるけれど、二人は殿下を心配しているのだ。怪我人が複数出ているらしかったけれど、どれもがほとんどかすり傷らしい。戦いの興奮が残った天幕の前で、それぞれの学級の生徒たちが、級長の身を案じる声を聞く。黒鷲の学級の級長は、次代の皇帝となるエーデルガルトさん。それから、金鹿の学級の級長は、現レスター諸侯同盟の、盟主の孫と聞いている。いずれも他に代わりのない、尊い身分の方々だった。失われてはいけない方々だった。絶対に。
足が張って、痛かった。昼間も散々歩いて、もう心身共にくたくただった。そうして入った、数刻前まで私たちが眠っていた天幕は、さっきまでと同じままだったのに、明らかに何かが変質しているように思える。でも、それが一体何なのかが、私には分からない。
背負っていた矢筒を下ろした。矢はここを出たときから一本も減っていなかった。膝を抱えて丸くなったら、爪の先に血がこびり付いていることに気がついた。多分、見えていないだけで、私はあちこちに血を被っている。胸の内側がざわざわして、同じくらい、どきどきしていた。全身の毛穴から流れていくものを可視化できたら、私はそれに名前をつけることができただろうか。
怖かった。生きているのが、不思議だった。
「……殿下」
ぽつりと呟いた声は、酷く頼りなく、掠れていた。
怪我人は出こそすれ、賊の襲撃で命を落とした人は誰もいなかった。それでももしもあの時殿下があの男を殺してくれていなければ、きっと私だけは死んでいた。