士官学校に入学して最初に行われる大きな行事と言ったら、たぶん、大樹の節の半分を過ぎたくらいの時期にある野営訓練だと思う。
帝国領の森の中にある野営地で一晩を明かすのだ。勿論、お遊びじゃない。王国領を経由して現地に到着したら、自分たちで天幕を張り、食事を準備し、夜は交代で寝ずの番をする。さほど遠い地ではないから、入学後の合同訓練として最適なのだとか。
でも、そもそもの基準に達してない私みたいな人間にとっては、その「最適」は途轍もなく高い壁の先にある。
「……は、はぁ……」
入学して以降自分と皆とを比べて、自身が箱入り娘であるらしいという自覚はしていたけれど、でも、こんなにも差があるなんて思ってなかった。山道を歩くのに慣れない足は、ガルグ=マクを出て早々に悲鳴をあげたし、皆の半分の重さの荷物ですらガルグ=マクのすぐ西にあるエレボス領を出たあたりで背負っていられなくなった。見かねたアッシュくんが「持ちますよ」って声をかけてくれたけれど、意地だけで首を振った。だいじょうぶ、だいじょうぶだよ、ありがとう、って。だって、こんなんで音をあげていたら、わたし、立派な領主になれないでしょう。
脇腹はずっと前から痛くて、ぜいぜい息が切れた。山の中を差す緩い日差しは、帝国領に入ったあたりから心なしか少し痛かった。目の前がちかちかと明滅して、耳に膜が張っているような感じがする。本当に体調が悪かったら馬を貸してもらえるみたいだったけれど、そんなの軟弱者の象徴だ。荷物を軽くしてもらっている時点で軟弱者、っていうのは、その通りなんだけど、それは一旦おいといて。
「大丈夫ですか? 」
ガラテア家のイングリットちゃんは騎士を志しているだけあって、こんな私をひどく気に掛けてくれる。どうにか曖昧に頷けば、「がんばりましょう。もうすぐで野営地が見えてきますよ」って勇気づけてくれた。イングリットちゃんとはガルグ=マク士官学校に入学して初めてお話をさせてもらったのだけれど、彼女は普段から皆の足を引っ張る私にも、すごく優しい。
そろりと彼女を見上げたら、イングリットちゃんは、通常の重さ、つまり私の持つ二倍の重さの荷を抱えて、平生と変わらない顔で私に微笑んでくれた。それがあまりにも格好良くて、頼もしくて、一方で自分の情けなさをひしひしと感じ、二重の意味で泣けてしまったのだ。
「う、がんばる、がんばります……」
そう、がんばらなくちゃ。だって、私は、やるしかないんだから。
「ありがとう、イングリットちゃ……」
だけどそんな気合とは裏腹に、私はずるりと足を滑らせた。そのとき踏みしめた土が先日の雨で泥濘んでいて、私の体ごと足を持って行ったのだ。せめて、悲鳴くらい飲み込めていたら良かったんだけど、イングリットちゃんにお礼を言うために開いていた口が、そのときだけ何も発さないなんていう器用さを発揮させることは、なかった。
果たして私はさして整備されてない山道の中、盛大に転ぶことになる。
そりゃあ、まあまあやかましかったと思う。慌てたアッシュくんが「!」と私の名前を呼んだし、イングリットちゃんも「大丈夫ですか!」と心配してくれた。膝と両手の平の皮が剥け、小石をめり込ませ出血する私を治療してくれたのは、私の後ろを歩いていたメルセデスちゃんとアネットちゃんの二人だったのだけど、でも、まさかそんな恥ずかしい瞬間を、私の遥か前方を歩いていた殿下に見られていたなんて、思ってもみなかった。
「、怪我は大丈夫か?」
「けがっ?」
野営地に着いて早々、ディミトリ殿下に短く尋ねられた。
傭兵や、軍が頻繁に使用する土地らしい。山中において開かれたそこは天幕を設置するに易く、先生や騎士団の人たちが生徒たちに指示を出している。ガルグ=マク士官学校の学級三つ分の活気が、今この地に凝縮されていた。そのざわめきに紛れるように、「さっき、転んでいたようだったから」と呟く殿下の声は、ぬるく、思いやりに満ち、穏やかだ。分かっているのに、私は殿下に目を合わせられずにいる。重なった木々の隙間から、暮れ始め、薄い紫へと色を変える空が見える。光が殿下の輪郭を、空気の中に溶かしていく。
「あ、ええと、こ、ころ、転んでました、ね」
慌てる私の目線は、行き場を失って、とうとう地面に落ちた。殿下の靴は、私のものよりも、一回りも二回りも大きい。
級長を示す青い外套の作る影は、私たちのものとは明確に違った。もしもあと一年士官学校に入るのがずれていたら、こんな風に殿下に直接お声をかけていただくことなど、きっとなかったはずだ。でも、でも、本当だったら、そっちのほうが良かったのかもしれない。だって、こんなに緊張するんだから。士官学校に入学して、もう半月が経つって言うのに。
ついさっき、擦りむいて血だらけになった両手を胸の前で組む。「で、でも、大丈夫です。メルセデスちゃんとアネットちゃんに魔法で癒してもらいましたし、その」それに、入学してからもっと派手な怪我はしてますし。そう言いかけて、慌てて飲み込んだ。それを言ったら、殿下を困らせてしまうし、私も自分の首を絞めるのと、一緒だから。いくら緊張しているからと言って、これを口にするのはいけない。
殿下も、私が言葉を詰まらせた理由を察したらしい。ふ、と、息を吐く音が聞こえた。ため息というよりは、自分の感情に整理をつけるためのものであるように思えた。
「そうか。……だったら良かった」
これから天幕を建てるが、無理はするなよ、殿下はそう続けると、そっと私に目を細めて、踵を返す。その先に、殿下の従者である、ダスカー人のドゥドゥーくんがいた。彼と目が合ったように思えて、どうしたら良いかわからず、そっと目礼だけをする。
私の暮らしていた領地よりも、このあたりは少し、温かい。もっと北で暮らしていたイングリットちゃんからしたら、暑いって感じるんだろうか。そういうことをイングリットちゃんは口にしないし、顔にも出さないから、分からないけれど。
手の平をそろりと制服に擦りつけた。メルセデスちゃんとアネットちゃんの魔法により完璧に治療された私の手の平は、もうつるりとして、埋まった小石も取り除かれている。
二人はかつて、王都の魔道学院で学んでいたらしい。その魔法の腕に感嘆し、「いつもありがとう、すごいね」ってお礼を言った私にメルセデスちゃんは柔らかく笑って、囁いた。アネットちゃんに聞こえないくらいの、細やかな声音で。「でもね、私なんかより、アンは本当にすごい子なのよ。色んな魔法が使えるの」でも私から見たら、二人とも、とてもすごいひとだ。
私たちの使う天幕を受け取ってきたイングリットちゃんが「お待たせしました、。さあ、準備をしましょう」と言うまで、私はじっと息を潜めていた。領地のある北の方に目線を投げても、そこには深い木々の影が連なるだけだった。