1187年 式日
花冠の節のその日、グロスタールは天候に恵まれていた。
昨日までは雨が降っていたらしい。濡れた地面に服の裾を持ち上げて馬車を降りる。雨が降った後の地面のにおいは、好きだ。私にはない生命の確かな息吹を感じることが出来るから。
グロスタールのお屋敷の目と鼻の先にある教会は、既に人の気配が濃い。新たな門出を迎える若き二人の祝福のため、遠方より駆けつけた参列者が集っているのだろう。本当は私達も昨夜のうちにグロスタールに到着している手筈だったのだけど、運が悪く馬車が脱輪してしまった。養父にも私にも怪我がなかったのは不幸中の幸いだったけれど、それにしても、こんな時まで不幸に見舞われるなんて、やっぱり私は周りを不幸にしてしまうのかもしれない。
馬車を出迎えてくれたのは古くからグロスタールに仕えている従者で、彼は私達をお屋敷に案内してくれた。ローレンツさんに挨拶をすると思うと、何だか急に落ち着かない気持ちになってしまう。学生時代、彼のことは苦手というほどではないけれど、六年ぶりの再会で昔話に花を咲かせることができるほど親しくもなかった。そう考えると、自然と背中が丸まってしまう。
「ご無沙汰しております。遠方よりおいでくださって、お疲れでしょう」
養父に続いて俯きがちにお屋敷に入って早々だった。既に式のための燕尾服に身を包んだローレンツさんに声をかけられたのは。
ローレンツさんは養父に恭しく頭を下げると、その陰に立つ私に目を細めて微笑んだ。
「マリアンヌさんも、久しぶりだね。元気そうで何よりだ」
少しだけ驚いてしまう。面立ちは勿論変わらないけれど、六年もの月日はこれほどまでに人の雰囲気を変えるのだろうか。彼は明らかに昔よりも肩の力が抜けていた。
六年前、彼の傍にはいつもクロードさんの存在が濃くあって、それが故に彼はいつもどこかぴりぴりとしているように思えた。常々クロードさんを「監視」していたためだったのだろう。それは同時に彼の持つ生命力を強く際立たせていたようだったけれど、今のローレンツさんは、それを維持しながらもまるで角が取れたような穏やかさを持っていたのだった。
それはさんのおかげなのだろうか。
「……ご結婚、おめでとうございます」
何とかそう口にすれば、ローレンツさんは気恥ずかしげにその眦を細めた。
養父は私と違って弁舌家だ。養父の口から流れる祝詞を聞きながら、私はローレンツさんの表情を、養父の陰から見つめている。一年前にデアドラが帝国の侵攻を受けた際、グロスタールからの避難民をエドマンドが受け入れたことにローレンツさんは丁寧にお礼の言葉を口にした。
グロスタールのお屋敷には従者や侍女、それから親戚の子たちなのか、お行儀良く座っている子供たちがいるだけで、慌ただしさは微かに感じ取ることができたけれど、静かなものだった。分厚い本を眺めている男の子の隣で、女の子が退屈そうに周囲を見回している。目が合って、微笑まれてしまった。曖昧な笑みを返したけれど、あのあどけなさが眩しくて、少しだけ怖い。
ローレンツさんが先代のグロスタール伯から家督を譲り受けたのは去年の中頃、レスター諸侯同盟が解散し、ファーガス神聖王国がアドラステア帝国を滅ぼすに至ったあのアンヴァルでの戦いが終わった後のことだった。クロードさんがいなくなったことで空白地となったリーガンの統治をも王国に任された彼は、この一年ほとんど不眠不休だったと言ってもいいはずで、だけど、そんな彼を、さんはずっと支えてきたのだろう。
新しいグロスタールの領主の結婚、それは新たな次代の始まりの象徴の一つにもなり得るのかもしれない。養父とローレンツさんの姿を視界に収めながら、私はそんなことをぼんやりと考えていた。
ヒルダさんに声をかけられたのは、その後のことだ。
「マリアンヌちゃんも、本当に久しぶりよねー。元気だったー?」
「あ、はい……その……ヒルダさんも、お変わりないようで」
「ないないー、マリアンヌちゃんにまた会えて嬉しいよー」
ヒルダさんは今まで、玄関ホールに程近い花嫁の支度室にいたらしい。「お化粧をしてあげる約束をしているんだけど、エドマンド辺境伯の声が聞こえたからもしかしてって思ってねー」と悪戯っぽく笑うヒルダさんは、六年前と変わらずに華やかで、美しかった。
まだ支度をしているというさんのいるお部屋を訪れた。さんのお母様と思しき方が私に気を利かせて出て行ってくれたことが何だか申し訳ない。母娘で話したいこともたくさんあったはずなのに、そう思ったけれど、既に婚礼衣装に身を包んださんは部屋を訪れた私を見て、わあ、と感激したような声を漏らしてくれたのだった。
「あ、その……さん、この度はご結婚」
「マリアンヌちゃん!」
おめでとうございます、と頭を下げるよりも早く座っていた椅子から立ち上がったさんは、ほとんど飛びつくように私に駆け寄る。手をぱっと握られて、唇の高さで握られた。さんの手は、やわらかくて、温かい。
「久しぶり、久しぶりだあ、六年ぶり? きれいになったね! 前髪切ったんだねー!」
顔がよく見える、と微笑んださんの勢いに飲まれてしまって、曖昧に頷くことしかできない。実はグロスタールへ発つ直前に切ったんです、折角の式に陰鬱な顔をした私がいては良くないと思ったから。喉元まで出かかった言葉は、声にならずに自分の中に沈殿していくだけだ。
さんは相変わらず表情がくるくると動く。
「今やっと着替えが終わったんだけど、お腹のあたりがぎゅうってなって何だか苦しいよ。胸元もすーすーするし」
そう言いながら皮膚の露わになった鎖骨のあたりを隠すように触れる彼女は、白がよく似合った。
さんが着ている婚礼衣装はグロスタール家に代々伝わるものらしい。張りのある布を贅沢に使ったそれは、近くで見てみると裾に同じ色の糸で細かな刺繍がなされていて、その繊細さに思わず見とれてしまった。薄い肩、伸びた腕は白く、無駄な肉がない。下ろされた髪は、かつてよりも随分と伸びた。もともと屈託なく笑う女性だったけれど、婚礼の日である今日は少し緊張しているらしい。
「ねえ、変じゃないかな、大丈夫かなあ?」
「大丈夫大丈夫、すっごく綺麗だよ〜ちゃん。あたしがローレンツくんだったら泣いちゃうかもー」
「ええ、泣かないよ、散々見慣れてるもん私の顔」
「も〜、そんなことないってー。ねえマリアンヌちゃん、ちゃんすっごーく綺麗だよねー?」
「あ、はい、すごく……お綺麗です……」
私の言葉にさんはなぜだか分かりやすく顔を赤らめさせた。白い顔に熱がこもるその様は、ほとんど花が開いたようだ。直後さんはその表情を手の平で覆ってしまう。何事かと思えば「マリアンヌちゃん、すっごく綺麗」と唸るように言われてしまって、困った。ヒルダさんがそんな彼女に柔らかな声音で笑ってくれたことが、どうしてか救いであるように思えた。
私の狼狽をヒルダさんはきっと見抜いていたのだと思う。それどころか、この所在のなさすらも。ヒルダさんは士官学校にいるときから、私のことを気にかけてくれていたから。
ローレンツさんとさんの結婚式、そんな大切な式に私なんかを呼んでくれた時、私はいっそそれを辞退すべきなのかもしれないとも考えた。前髪を切った後も、ずっと。エドマンドを出る直前まで、私は逡巡していたのだ。
私はこの六年、リーガンよりさらに北東にあるエドマンドから一歩も出なかった。さんが大変なときも、領内で義父の政務を補佐していただけだ。アレキサンドルがグロスタールに吸収された初夏も、ミルディン大橋が王国軍によって落とされた春も、グロンダーズにおいてクロードさんに援軍要請を打診されたときも、私は殻に閉じこもるように、同盟領の端で息を潜めていたのだった。
先程ローレンツさんは、デアドラが侵攻された際にグロスタールの民を引き受けたことを感謝してくれた。だけど、あの時だって私は戦場に出るべきだった。安全地帯に身を潜めるのではなく。そう後悔していたのに、さんもヒルダさんも、ローレンツさんも、私を責めはしない。
さんは六年前の面影をそのままに、私に目を細めた。
「来てくれてありがとう、マリアンヌちゃんに会えて、すごく嬉しい」
だから、私はそれだけで、胸が引きつったような痛みに襲われたのだ。
負の感情によるものではないことだけは確かだった。私は確かにこのとき、二人の優しさに、心遣いに、純粋な、裏表のない表情に救われた。
前髪を切って良かった、そんなことを、私はこの時考える。この式日に立ち会えて良かったと、心から。
ヒルダさんがさんにお化粧をしていくその姿を、椅子に座って眺める。初夏の日差しは遮られることもなく、私達のいる室内を照らしている。開け放していた窓から柔らかな風が吹いた。通りに面した窓の向こうからは、式を間近に控えているせいか、人の声が絶えない。僅かに滲んだ高揚の色、戦時中は抑圧されるしかなかった感情の流れを感じる。
そうしていると、まるでそこが七年前のガルグ=マクであるような錯覚に囚われてしまうのだ。ここは教室で、外を見れば思い思いの時間を過ごしている学生の姿が目に入る。リシテアさんは本を抱えて書庫に向かい、レオニーさんは武器の手入れをしている。ラファエルさんの笑い声が食堂の方から聞こえて、イグナーツさんは書き物をしている。私達一人一人を泰然と眺めていたのが、クロードさんだ。
彼らはもうここにいないけれど。
さんは美しくなった。あの大樹の節の夜、重傷を負ってあわや歩けなくなるところですらあった彼女は、だけどこうして生きて、新しい時代にいる。私はそれが、どうしようもなく嬉しい。
お化粧のためにさんが目を伏せているのを良いことに、彼女を見つめていた。気を抜いていたのだ。ヒルダさんがさんの目元から筆を離した瞬間、さんはぱっと私の顔を見返すから、びくりと肩が震える。「そうだ。見て見て、マリアンヌちゃん」悪戯っぽく笑った彼女はあの頃より遙かに大人びて、きっと私の知らない傷をたくさん持っている。けれど、彼女は確かに、私とあの一年を過ごしたさんだったのだ。
さんが衣装の裾をまくり上げる。その白い足が向き出しになって思わず息を飲んでしまったけれど、何か言葉を発するよりも先に見えた右足の太股の痣に、私は目を奪われた。あの日の夜を、私は今でも夢に見る。薄く色が変わったそこは、あの頃の面影をほとんど残していない。
「あの時の怪我、すっごく薄くなった。もう痛むこともないんだ。ありがとう」
まだ式も始まっていないのに、私の方が感極まって泣いてしまうなんて、あまりにもおかしい。こみ上げてくる感慨のような何かに蓋をしようにも、けれど上手くいかず、私はただただ首を振ることしか出来なかった。
ヒルダさんが「こんなところローレンツくんに見られたら怒られちゃうよー?」とくすくすと笑うから、さんは慌てて衣装の裾を戻す。
「女の子しかいないから良いんだもん」
さんの頬が色づいていく。ヒルダさんの手によって、彼女はさらに美しく姿を変えていく。
「でも怒られたくないから、内緒ね」
照れくさそうに笑ったさんに、私は涙を堪えて頷いた。
二人の未来が、ただただ明るいものであることを、私は今、強く願っている。