1187年 花冠の節


 僕が父と再会したのは、一年前の青海の節のことだ。
 その当時王国軍はメリセウス要塞を攻略するための準備を進めていて、同盟からも兵を拠出しガルグ=マクへ向かわせたばかりだった。
 王国に臣下の礼を取ったとは言え、今後のことはまだ不透明だった時期だ。自治を認める約束は成されていたが、リーガンの当主が姿を消してしまった以上、旧同盟領内の中心的役割を果たすのはグロスタールになると見て良い。まだまだ成すべきことは山積みだった。僕は父と共に、その課題を乗り越えねばならぬと思っていたのだ。



「もう同盟はなくなってしまいましたが、それでもフォドラの貴族として、僕達の務めを果たしましょう」



 僕は父にそう告げるつもりでいた。だが、僕とグロスタールにて再会を果たした時、父はその眦に涙を浮かべ、声を震わせた。「ローレンツ」と、僕の名を呼んだ父は、落ち窪んだ眼窩から涙を零した。僕は、そんな父を生まれて初めて見たのだ。
 会っていなかったのは、ほんの数節だ。孤月の節に父がリーガンへ向かったあの日を最後に、僕は父の姿を見ていなかった。訃報を聞いてはいなかったから、お元気でいるのだろうと思っていた。だが、頬が痩けていた。目尻の皺が深かった。
 父は、少なくともこんな風に、僕や、ましてやの前でこういう感情を露わにすることなど一度もなかった。
 父に確かめるように名前を呼ばれながら、僕は隣にいたが鼻を啜った音を聞いた。









「でもまさかオーランドが匿っていたなんて思わなかったよ。私やお義父さまにも隠しているなんて」



 と共に父の部屋を出た直後、彼女は唇を尖らせてそう言った。いずれ帝国に付け入られる理由を与えないためだったとは父にも説明したばかりだったが、それに理解を示しつつも、やはり文句の一つも言いたくはなるのだろう。それは分からないでもないが。



は特に顔に出るからな。僕が生きていることが同盟内にすら広まっては、先生たちにああいった形で見逃して貰った意味がなくなってしまう」

「う、う〜。でも……」

「それともクロード達にすら気づかれない自信があったか?」

「いや……ない、ないですね……」



 正論を突きつければ、は唸りながらも目線を逸らす。本当に考えていることが手に取るように分かる子だ。だからこそ可愛らしく思うのだが、しかし、僕はにも話さねばならないことがある。
 陽が落ちたグロスタールの屋敷は少し薄暗く、足音も反響する。これから数日間はグロスタールに滞在し、いくつか片付け物をすることになっていた。自分はアレキサンドルの屋敷に戻ろうかと言った彼女に首を振ったのは僕だ。一緒に居てほしいと言った時、彼女は分かりやすく目と口を開いて、それから赤くなった顔を隠すように頷いた。
 彼女の部屋は確か二階に準備されていると聞くが、僕はそのまま「じゃあまた明日、おやすみなさい」と階段で別れようとした彼女の手首を掴む。



「話をしないか」



 いや、しないか、ではないな。話をしたいのだ、僕が。
 じっと彼女を見つめれば、しかしは僕の言葉に目線を泳がせた。大体彼女も愚かではない。僕がしたい話など、分かっているのだろう。だが、なぜそんなに申し訳なさそうな顔をするのか。気にはなったが、首を振らない彼女の気が変わる前にとその手に力を込めた。の手首は細く、ともすればあっという間に折れてしまいかねないように思えた。
 は左手に指輪をはめている。
 それに気がついたのは、デアドラでに再会した直後のことだった。
 彼女にはあまり似合わない黒い革手袋の下、手を重ねた瞬間にそこに何かがあることが分かって、だけど、何かというよりも、僕はもう何があるかをその時理解していたのだ。だが、まさかとは思った。どうしてとも。
 僕は、僕に何かがあったとき、に婚約破棄の手続きをしてもらえるように準備しておいた。その書類の所在も父に伝えていたし、僕が死んだことを知ったは恐らくそれを受け入れるだろうと思った。彼女を縛るものはもう何一つとしてなくなるはずで、そうしたらは自由になれると。だから、どうしてと思ったのだ。
 だけど、そう考えながら彼女の手袋を外したその瞬間、身構えるように強ばったその身体を後ろから支えていた僕は、気がついてしまった。
 だっては、僕の位置からでも分かるくらいに緊張していたから。身を竦めて、叱られる直前の子供のように項垂れて、だけど、その顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
 もしも、と、その時僕は不意に思った。もしも彼女が僕と同じ思いでいてくれていたとしたらと。
 その考えにこれまで一度も思い至らなかった僕は、自分でこの視野を狭めていたのだろう。
 もしもそうだというのなら、僕達は途方もないすれ違いをしていたことになるんだな。
 僕はを自室にある革張りの椅子に座らせると、その向かいの椅子に腰を下ろす。飲み物を準備すべきかと思ったが、先程父の部屋で頂いてきたばかりだ。今は僕達のこれからの話に集中させてもらいたい。
 部屋はどうやら僕の「死後」に誰かの手が入ったらしい。僅かな違和感がそこにある。無論指輪が彼女の手にあることを思えば、それは不思議なことではないのだろうけれど。恐らくあれは父が侍女に探させて、そしての手に渡ったのだろう。



「さて」



 そう口にしたとき、向かいに座ったはびくりとその身体を震わせた。
 緊張しているのだろうか。まさか正式に結婚したわけではない君を取って食うような真似をするはずもないのに。だが、そう勘違いさせてしまったのならば、自室ではなくもう少し開けた場所で話をすべきだったのかもしれない。僕としては、この話は君以外の誰にも聞かれたくはなかったが。



「あ、あの」



 もじもじと忙しなく指を組むの手には相変わらず指輪があって、僕はそれをどうしようもなく、こんな時にもかかわらず嬉しいと思ってしまうのに、あろうことかは突然それに指をかけたのだった。彼女が指輪を外そうとしていることは明白だった。これには僕も目を見開かざるを得ない。



「こ、これ、これの話だよね? 私、ごめんなさい、勝手に、その、勝手につけてしまって」

「待て、何をしているんだ?」

「だってこれ、そもそも私がしてていいの? だ、だめだったよね。私にくれる予定だったものかなあなんて思って勝手にもらっちゃってたんだけど、違ったのかなって申し訳なくて、でもなかなか返すきっかけも」

「いや、どうしてそんなことを思うんだ、それは僕が準備したもので、大体君へのものでなければデアドラで」

「そう、デアドラで私のこと、予想の上をいく、って言ったでしょ? 怒ってはいないみたいだったけど、でも、これ、もしかして私にじゃなかったのかなあ? って思って」

「あれはそういう意味ではない!」



 机の上で彼女の手がその指輪を外そうとするのを必死で止めるも、やはり自分の指に対する遠慮がないのは本人の方で、それは最終的には、僕の願いも虚しく外されてしまうことになる。
 彼女の左手の薬指には、薄い痕が輪になって残されていた。だから、ため息を深々と吐いてしまったのだ。項垂れた僕に、の方も意地になっているのか、彼女は僕に指輪を渡そうと手を差し出している。
 彼女の手の平の上に転がっている指輪は、細身の造りをしていて、の瞳と同じ色をした小ぶりの宝石がついていた。その色で分かるだろうに。これが似合う人間など君以外にいないと。
 これは確かに、僕がに用意していた婚約指輪だ。だが、渡す気はなかった。それは勿論僕の心の問題で、だけど今、もしも自分の気持ちと同じ思いをが抱いていると言うのなら、僕は今更それを返して貰うつもりなんてない。ため息を吐ききった後、僕はの手の上にある指輪を一度受け取って、それからの瞳をじっと見る。



「……これは正真正銘、君のために準備したものだ」



 低く呟けば、はその丸い瞳をさらに丸くしてみせた。
 随分大人びたと思う。くまのぬいぐるみを連れて、心細そうにこの屋敷を歩いていたあの日から。薔薇を見るために、雨に濡れながら走ったあの日から。ガルグ=マクで再会したあの日から。クロードを目で追いかけていた君の横顔を見続けていたあの日から。はずっと、大人になった。
 君が消えぬ怪我を負った春を、僕は今でも夢に見る。もしも嫁のもらい手がないようならば、君を守れなかったことの責任を僕が負うとあの頃の僕は言ったが、あれは自分自身に逃げ道を用意した、みっともない求婚だったと思う。
 があれを覚えているかは定かではないが、何もかも有耶無耶のまま、この思いを君に伝えずにいるのはもう終わりにしようと思うのだ。折角がわざわざ指輪を外してくれたのだから、余計に。
 僕はの左手を取ると、それを自分に引き寄せる。びくりと反応したように思うが、振り払われはしなかった。



「順番が滅茶苦茶になってしまったが」



 口にしながら、本当にそうだなと自分で笑ってしまいそうになる。



「僕はを愛している」



 その時、は、と、彼女は喘ぐような呼吸を一つした。その瞳が潤む。僕は、君を泣かせたかったわけではなかったのだが。



「僕と結婚してもらえるだろうか」



 それでも僕が確かめるようにそう口にした瞬間、はぼろぼろと大粒の涙を零して、何度も深く頷いた。僕がその答えを受けて彼女の手の甲に口づけをしたことなど、気がついていないらしい。
 外されたばかりの指輪を、改めてその指にはめる。ぴったりとはまったそれは、まるで最初からの身体の一部であるかのように似合っているから、僕は自分の審美眼が正しかったことに改めて満足するのだ。
 はいつまでも泣いていた。どれだけ拭っても止まらないその涙に、僕の方が笑ってしまった。



「そうだよね、あれだけ私宛てのお手紙いっぱい書いてくれてたんだもん。別の人への指輪なわけないよね」



 どうにか泣き止んだが朗らかに言ってのけた言葉に血の気が引いたのは、その直後のことだ。
 部屋の違和感は侍女ではなく君か。そう言った僕に、ははっと目を見開いて、誤魔化せるはずもないのに笑うのだから、本当は、僕は卒倒しそうなほど狼狽していたのに、最後にはとうとう絆されてしまった。「私もローレンツくんのこと、大好き、お嫁さんにしてください」なんて言われたら、仕方ない。








 あれから一年が経とうとしている。
 アドラステア帝国が滅亡し、ファーガス神聖王国がフォドラを統一して一年だ。あの戦争で旧帝国貴族の多くは当主、或いは子息を失った。
 皇帝、その側近であったヒューベルト君、留学生だったペトラさんもアンヴァルで亡くなった。
 去年の角弓の節、ちょうどアンヴァルが落ちたその翌節に、に届けられた手紙があった。差出人の名前はなかったが、それは間違いなくドロテアさんの筆跡だったと言う。は、僕にそれを読ませてくれた。

 多くの仲間を看取りました。
 腕の中で消えた命がありました。
 王国軍に急襲されたメリセウス要塞からどうにか逃げ延びた人。
 かつて私と踊った男の子。
 その命が消える瞬間を、私はただ見ていることしかできなかった。
 私も彼の後を追うことになるのでしょう。
 でも、後悔はしていないの。最後にようやく自由になれた気すらしているわ。
 あなたには多くのことを託してしまった。
 永遠の命のような三人のこどもたち。
 どうかお元気で。
 あなたたちを心から愛していた。

 素っ気ない便箋に書き殴られたその端が、皺になっていた。
 後にシルヴァンに聞いた話だが、メリセウス要塞で、王国軍はリンハルト君を討っている。カスパル君は重傷を負って撤退したと言うが、そのままアンヴァルで相対することはなかったと。ならば、この手紙の「男の子」はカスパル君で間違いないのだろう。ベルナデッタさんは、同盟が敗戦を喫したグロンダーズで命を落とした。フェルディナント君は、そして、僕の目の前で。
 イグナーツ君もラファエル君も死んだ。レオニーさんも、そして、リシテア君も、もうこの世にはいない。
 一年が経った。だが、たった一年だ。
 僕達だけが幸せになって良いのか、そういう思いは時折頭を掠める。消えようのないガルグ=マクでの日々、そこに、けれど彼らは確かに存在していた。
 ああ、そうだ、素晴らしい日々だった。死ぬまで消えない光のような。



「ローレンツくーん、準備できたみたいだよー」



 ひょいと顔を出したヒルダさんに、僕は表情が強ばるのを感じる。そんな僕の微細な変化を見逃すヒルダさんではない。わざわざマリアンヌさんを呼び寄せ「見てよマリアンヌちゃんー。ローレンツくんたら、すっごい緊張してるー」と笑うのだから、僕もつい閉口してしまった。



「す、すみませんローレンツさん。私達も、先に教会の方に行っています……」



 相変わらず嫋やかなマリアンヌさんにどうにか心を解される。二人の後ろ姿を、僕は何だか既視感を持って見送っている。
 屋敷に程近い、代々グロスタールの領主が式を挙げる教会には、既に大勢の参列者が駆けつけているらしい。旧同盟領に住まう人間ばかりでなく、ファーガスやガルグ=マクからも来訪があるのだから、こんな時世にしてみれば実に大々的な式になるのだろう。



「花冠の節の花嫁さんは幸せになれるのよね」

「言い伝えでしょ、幸せの定義だって漠然としてるのに」

「もー、ノエルは夢がないなあ」



 愛らしい礼服を纏ったソフィーは、今日はぬいぐるみの代わりに花嫁の持つ花束を手にしていた。飾りの調整をしているらしいが、香り立つ花にうっとりと目を細めたソフィーの横顔は実に愛らしい。
 隣で時間潰しのために読書に没頭するノエルは、最近近視が進んで眼鏡をかけるようになっていた。折角顔が良いのに、勿体ない、とはソフィーの言であるが、彼はそういう物事は煩わしく感じる性分らしい。最近は紋章学が気になっていると言うので、近々ハンネマン先生の著書を贈ろうと思っている。
 白い燕尾服を着た僕は、準備が済んだと言うのいる部屋へと向かう。妙に緊張してしまうのは、致し方ないことだろう。
 落ち着かない。彼女に会ったらなんと声をかけるべきか、姿を見ぬうちから考えてしまう。
 ヒルダさんが言っていた部屋の前に、人影がある。今日は兵士として働く必要はないと言っていたのだが、最早そうしていないと落ち着かないのだろうか。オーランドは礼服のまま、部屋の前で見張りでもするかのように立っていた。



「ローレンツさん」



 益々精悍になった面立ちで、彼は僕をみとめる。「オーランド、良いのかい? こんなところにいて」と声をかければ、彼は首を振った。



「ここに居る方が落ち着くので」



 想像通りの答えを返されて、思わず笑う。
 閉じられた扉の奥には、と、母君がいらっしゃる。妙な緊張感は拭いきれないが、それでもいつまでもこうしているわけにもいくまい。扉を叩こうとしたその瞬間、しかし、オーランドが僕の名前をもう一度呼んだ。「ローレンツさん」と。



「どうかお幸せに」



 だから、僕はつい笑ってしまうのだ。それはの方にこそ言ってやってくれないかと。だが、おかげで程よく緊張が解れた。それを狙っていたのかもしれないな、そんなことを考える。彼は恐ろしいくらいに聡い男の子だから。
 君がいたから、僕はこうしてこの日を迎えられている。
 扉の脇に避けたオーランドの横で、僕は咳払いを一つして、扉をそっと叩いた。



、入っても良いか」



 今日は花冠の節だが、目が覚めるような晴天だ。



「は、はい、どうぞ」



 その震える声で、彼女もまた緊張しているらしいことが窺えた。扉を開ける。その先に、彼女の母君と、僕の母が着た、グロスタールに伝わる婚礼衣装を纏ったがいる。
 窓の方を向いていた君が振り向いたその瞬間、僕は、目が眩んだように思えたのだ。
 こんな幸福が僕に与えられて良いものなのだろうか。



「綺麗だ」



 口にした言葉に、かつての少女だった頃の面影を僅かに残したは、面映ゆげに笑った。
 この式日を、君と迎えられたことを、僕は奇跡のように思っている。








 先生達の手によって再建された大聖堂の床に、今日もあの玻璃硝子は光の水たまりを作っているだろう。僕はあれを、いつかもう一度見に行きたい。君と二人で。