1186年 角弓の節


 王国軍の攻勢を受け帝都アンヴァルが陥落したことで、アドラステア帝国は滅亡した。
 アレキサンドルに配備されていたグロスタールの部隊は帝都へ向かう王国軍に再編されることになっていて、俺は翠雨の節のその日、ほとんど五年ぶりにアンヴァルに戻った。
 勿論と言っても良いのか分からないが、アンヴァルに向かうことをには止められた。同盟が終わった花冠の節のあの日、デアドラでぼろぼろになるまで戦った自分のことを棚にあげて、彼女は「あの時もまさかオーランドがデアドラに来るなんて思ってなかったよ。びっくりした」と眉根を寄せる。ローレンツさんを匿っていた件については事情が事情であったためか、最終的には理解を示してくれたけれど、それでも戦場に出るとなると心配の方が勝るらしい。
 だが、メリセウス要塞を落とした王国軍の損耗も激しかった以上、グロスタールの軍が援軍として呼び寄せられたのならばそれを拒否する権限は俺にない。そもそもそんなものがあったところで関係なく、俺は帝都へ向かったはずだった。それが兵士としての役割なのだから。
 前線と言ってもそれは全体を見たときの話であって、実戦経験に乏しい俺達は補給部隊に配属されることになった。だから、実際帯剣はしていても武器を抜くことなど一度もなかったのだ。王国軍は統率が取れていて、士気も高かったから。



「おい、オーランド。お前本当に大丈夫なのか?」



 俺が元は帝国出身であることを知っている先輩がやけに気遣ってくれたが、「はい、別に」と返す。この人は俺がローレンツさんにこっそり使わせていた天幕の件で無駄に隊長に怒られることになったのに、それを知った後でも優しい。同盟の人間にお人好しが多いのは、お国柄ってやつなのだろうか。それとも偶然か。少なくとも、帝都にはこんな人間はあまりいなかった。
 帝都の門を破って市街に入ったとき、俺は思ったほど、感慨も何もないことに気がついた。俺が十二年過ごしたアンヴァルは、帝国軍が既に布陣していたせいか、あの頃の面影を全く残していなかったのだ。
 今では顔も思い出せない仲間達と住んだ路地裏。セイロスが作ったんだかなんだか、学のない俺にはよく分からないが、旅の修道士がわざわざ拝みに来る運河には、死んでも誰も悲しまないような人間が度々浮かんでいた。何もかも昔の話だ。
 美しい街だとの母さんが言うのを俺はいつも黙って聞いていた。一度訪れただけでは、そういう風に見えるんだろうな。整備された街並み、昼の市場は賑々しく、夜になれば煌びやかな一角から歌声が響く。一本あの薄暗い路地に入ってみろよ。ここの野良猫よりも粗悪なもんを食って生き延びる子供が、ごろごろいるんだ。そんなことは薄い笑顔の下に押し込める。
 当時、あるいは今も、知らない人間がいなかった世紀の歌姫に声をかけられたのは、俺が盗みに失敗した日のことだった。
 まだ十にもならない子供だったが、身寄りのない俺に世界はまるで容赦なかった。歌劇なんか見にくるのは金がありあまった貴族ばかりなんだから、別に少しばかり恵まれない俺達が頂戴したって罰は当たらないだろうに。容赦なく殴られ、蹴られ、どこかの骨が折れた。フォドラの南に位置するアンヴァルも、冬は冷え込む。この街の外を知らない俺にとって、その日は極寒と言っても良いほどの寒さだった。空気の澄んだ、星の綺麗な夜だった。ぼやけた視界の奥でそれは確かに瞬いていた。母親は空から無様な俺を見ているだろうか。迎えに来てくれるだろうか。女神に祈ったこともないくせに、そんなことを思ったのだ。口の中で、歯が一本折れた。
 意識を手放しかけたその時だった。遠巻きに俺を眺めていくだけの通行人、その中から「ねえ」と、やけに良く通る女の声が響いたのは。



「お客様。その辺でやめてもらえます?」



 歌劇場の近くでそういうことをされると、迷惑なんですよねえ。と。
 騒ぎを聞きつけてやって来たのだろう。世紀の歌姫は、俺を殴っていた男の傍に来ると、ほとんど俺に聞こえないような声量で二言三言何かを告げた。何をどういう風に解決させたのか、俺には分からない。だけど男が去った後、彼女はぼろぼろになった俺の傍の地面、俺から流れた血痕でその服が汚れるのも構わず膝をつき、俺の頭をそっと撫でたのだった。



「だめねえ、君」



 なめらかな、傷一つない指先だった。だけど、見上げたその目が、俺を見ていたその表情が、思い詰めるように歪んでいたから、彼女はきっとこの指ほど、その生い立ちに傷がないわけではないのだろう。



「やるならもっと上手くやらないと」



 神様なんていやしないが、俺にとってはドロテアが、きっとそれに近かった。
 俺を歌劇団の下働きとして働かせてくれるよう口利きしてくれたドロテアがガルグ=マクにある士官学校に入学したのはその二年後のことで、だけどそれまで彼女は俺のことをほとんど身内のように可愛がってくれた。
 アドラステアがセイロス聖教会に宣戦したことを受けて、ドロテアはアンヴァルに戻ってくることになる。士官学校で良い人を見つけてくるわね、なんて言ったのと同じ口で、彼女は「戻って来ちゃった」と笑った。まるで今後のことを予見するかのように歌劇団の仲間の疎開を手伝った。最後に残ったのは、捨て子のソフィーと、病死した歌劇団仲間の子供のノエル、そして俺の三人だった。
 ドロテアは俺達をアレキサンドルに連れて行った。俺達をに託して、そして自身は成すべきことのため、再びアンヴァルへと戻ったのだった。
 ドロテアの姿を戦場で見つけたその時、俺は、だから、そうだよな、と思った。
 強かなふりをして、情に弱い。ドロテアはきっとガルグ=マクで、自分の命を捧げるべき相手を見つけたのだろう。歌劇団を去った栄光の歌姫の終わりは、アンヴァルこそが相応しい。
 彼女が王国軍の剣士に切り倒されたその瞬間、まるで音が消えたみたいだった。お前が舞台上に立ったその瞬間、劇場を包むあの静寂に似ていた。
 目が合わなくて良かった。俺がここにいることを気づかれなくて良かった。そう思ってしまうのだ。それは自分のためではなく、彼女のために。
 ドロテアの最期をこの目で見たことを、俺は誰にも言いはしまい。








 五年半続いた戦が終結し、角弓の節に入ったある日、手紙が一通届いた。
 差出人の名前はなかったが宛先はになっていて、首を傾げたは警戒心も何もなく俺達の前で広げてみせた直後、血相を変えて自室に閉じこもって、数刻ほど出てこなかった。ソフィーやノエルは不思議がっていたが、恐らく、ドロテアからのものだったに違いない。彼女がアンヴァルでの戦いに赴く前に出したものが、今になって届いたのだろう。いつも俺達の分と四通まとめて届けられたそれがにだけ届いたこと。それが全ての答えであるように思えた。
 は懸命に隠そうとはしていたが、腫れた目のせいで気がついてしまった。そこに何が書かれていたかは推して知るべしだ。
 ソフィーとノエルを順番に抱きしめたは、最後に俺を手招きしたが、俺の表情から俺が嫌がっていることを気づき、身体の代わりに俺の手の平をぎゅうと握りしめた。
 その指には、ローレンツさんから貰った婚約指輪が光っていて、俺はそれを視界の端にいれるとき、何故だかわけもわからず、充足感に似た何かを覚える。二人が結ばれる、それは、多くのものを失った末の結末として、せめてもの救いであるように思えたから。
 ドロテアの代わりにそれを見届けることができるなら、充分だ。








 フォドラはファーガス神聖王国により統一された。王座についたディミトリ王は、旧帝国領、旧同盟領をまとめあげ、新たな治世に踏み出す。
 難しいことは俺には分からないが、どうやら王は領地や自治権を没収することなく、旧同盟領の貴族にはほとんどこれまで通りの統治権を与えたらしい。
 当主を失った家も多い以上、動乱は暫く続くことになるし、特にリーガンの領主が不在となった今、その中心になるのはグロスタール家だ。これまで通りの自治を認めてくれたとは言え、王国との話し合いを進めながら慎重に統治しなければならないとのことで、ローレンツさんも今まで以上に忙しない日々を送っている。も彼の手伝いのため、最近ではグロスタールとアレキサンドルを行き来することが増えた。あまり長い時間一緒にいられるわけではないようだったが、それでもに笑顔が増えたのは、俺としても嬉しい。
 一方でセイロス聖教会は帝都から救い出された大司教の引退に伴い運営組織が再編され、元教師だとかいう新たな大司教が据えられた。廃墟同然であったガルグ=マクは再建され、かつての美しさを取り戻し、再びフォドラの象徴として存在している。
 フォドラ全土を統一したファーガス神聖王国とセイロス聖教会は、これから先、正道を歩むため、手を取り合っていくのだろう。
 その世界にあんたがいないことが、俺は残念でならないが。
 自分の手に目線を落とせば、全く違う感触をした二人の手の平がそこにあるような錯覚に襲われる。俺は今でも、あの夜俺を見つけてくれた歌姫を、俺をこの麦畑の広がる世界に連れ出してくれた彼女を、信奉している。
 いつまでも。

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