死んだとばかり思っていたローレンツの姿をデアドラの港でみとめたその瞬間、最後まで張り詰めさせていた緊張の糸が音を立てて切れちまったような感覚になった。ジュディットからの無事は聞かされていたが、ローレンツは彼女を迎えに行っていたのだろう。市街戦で疲弊しきったのだろうを馬に跨がらせ、その身体を守るようにしていたローレンツは、面白いくらいに物語の騎士然としていた。



「は? ローレンツ?」



 口をついて出たその言葉に、あれだけ人間から離れちまったと思っていたディミトリが、ふ、と分かりやすく息を吐いて笑ったから、ああ、なんだよと思ったのだ。ディミトリと先生の反応を見るに、王国軍が一枚噛んでいたんだろう。感情がそのまま濾過も選別もされることなく表に出ちまったのが恥ずかしくて、思わず口元を手で覆う。その下で、だけど俺はやっぱり笑ってしまったのだ。
 ああ、なんだ、お前が生きてたんなら、って。
 お前が生きてたんなら、もう何もかも、この手から落としてしまっても良いか。








 僕がを連れてここまでやって来る間に、先生やディミトリ君とは話が済んだらしい。彼らに席を外して貰ったそのとき、どうしてか、途端にデアドラを臨む海がこれまでよりもずっと広く見えた。クロードのものらしい飛竜の嘶きが、戦の終わった港に響く。
 を馬から下ろし終えたその瞬間「えー! ローレンツくんー!」と僕の名を叫んで駆け寄る人の姿があった。ガルグ=マクから落ち延びて以来ずっと会っていなかったが、すぐにヒルダさんだと分かった。既に治療をして貰ったのか、彼女自身も目立った外傷は見られないようだったが、髪や衣類の様子で激戦を潜り抜けたことが嫌でも想像できてしまう。



「ヒルダさん、久しぶりだね。息災で何よりだ」



 そう微笑めば、ヒルダさんのその大きな双眸は分かりやすく歪む。何か言いたげに何度か口を開こうとしたものの、彼女は最終的には口を噤んで、僕の傍に居たに寄り添った。



「今、すごくいろいろ聞きたいんだけどー……あたしに何か言われるよりも、ちゃんが怒った方が効くわよねー。だけど、後で詳しい話は聞かせて貰うから、覚悟しといてよー?」



 ヒルダさんは聡い女性だ。だから、僕が今クロードと話をすべきだということを察している。の肩にそっと手を寄せると、未だ僕が生きていることの動揺を消化しきれていない彼女に二言三言囁いて、僕に目だけでクロードの元へ向かうように合図をしてくれた。本来を落ち着かせてやるのは僕の役目であるが、それでもそれを引き受けてくれた彼女には頭が上がらない。ヒルダさんはの身体を支えながら、彼女を連れて市街の方へと向かおうとする。



「ロ、ローレンツくん」



 それでもは身を捩って僕を振り向いた。「また後でね、絶対だよ」と言葉にされてしまえば、口元を押さえて頷くしかない。
 ヒルダさんの気遣いに感謝しながら、僕は橋のかかる波止場の先に立っていたクロードに目線を移す。飛竜の背を撫でていたクロードは、僕が歩み寄る気配に気がついて、そっとこちらに目をやった。
 彼とこうして会うのは、実に五年ぶりか。少し体つきが変わったようにも思うが、人を食ったような瞳は変わらないらしい。



「ようローレンツ、まさかお前が生きていたとはな。驚いたぜ」

「そうだな。君のあんな顔は初めて見たよ」

「いや、嬉しい誤算だよ。――良かった、本当に」



 確かに僕を見たその瞬間、クロードは彼らしからずその瞳を丸くはしていたが、最早今の彼は平生とそう大差ない。クロードの頭の中では、既に僕が生存に至った経緯の計算が済んでいる。ミルディン大橋で王国軍の協力を得て生き延び、どこかに身を隠していたことを、恐らくクロードは既に結論づけているのだろう。のように問いかけるような真似を、彼はしなかった。
 感情の読み取りにくい目線のその先には、彼が逃がした船がある。あそこにはデアドラの民がいるらしい。領民を一切犠牲にしない、上手い方法だったと思う。建物の修繕は出来ても、人の命は戻らないのだから。
 数人の天馬騎士が空を旋回しながらこちらに向かって誘導している、その翼の白さに目が眩みそうになった。雨は既にあがっていて、初夏の日差しが海を煌めかせている。



「……しかし、君にしては今回の作戦は無茶な賭けだったんじゃないか? 王国軍が救援を受けるとも限らなかっただろう」

「ディミトリや先生達にはそういう顔をしておいたがな。俺としてはほとんど助けが来るって確信してたよ。ここで俺達に潰れられて困るのは、向こうも一緒だろ?」

「……ああ、君は本当にそういう男だよ」



 敵には回したくないものだ、と改めて考える。一体どういう人生を歩めば、こんな人間になるのだろう。元々の素養もあったのだろうが、この男は頭が回りすぎて厄介だ。しかし今後の同盟を彼は一体どうするつもりでいるのか。同盟内部は今ほとんど崩壊しきっている状況と言っても過言ではないはずだ。勝利したとは言え、帝国軍にデアドラまでの侵攻を許してしまったのだから。
 とは言え、王都を取り戻した王国軍はこれから再び帝国へ進軍するはずだ。共闘というにはこちらの兵力が足りなすぎるのが実情だが、それでも彼らを支援することはできるだろう。そうしながら同盟領内の立て直しを図るのが現実的ではないか。
 そう口にしようとしたその時だった。「ローレンツ」と、彼にしては静かな声音で、クロードは僕の名を呼んだ。



「先生達には他に手がなかったと言っておいたんだが」



 彼はその時初めて、手の内に隠していたものを、僕の前に見せようとしていたのだった。
 目線を感じてクロードの方を見やれば、彼は真っ直ぐ僕を見つめている。翡翠色の瞳、が追いかけ続けたその色は、海からの光の反射を受けて、不思議な深さをもっている。



「そうでもなかったんだよ。俺は、いざとなればまだ動かせる兵があった」



 彼は欺瞞の塊だ。僕は短い付き合いではあったが、彼の傍に一年居続けて、それを嫌というほど実感している。だが、今のクロードは嘘を吐いている様子がない。その口元は弧を描くことなく、引き結ばれている。



「……兵? そんなもの一体どこにある」

「王国からの援軍の当てがあったから使わなかったんだ。盟主として俺は、最良ではなく、最低限の務めを果たす方に重点を置いたんだよ」



 懺悔というには、彼の瞳は温度が低い。



「勿論、どうにもならなかったら呼び寄せるつもりでいたさ。使える駒は全部使って、それでもお手上げだっていうんなら、例え外からの援軍にフォドラが混乱しようと、あいつらに、俺に才覚がないと貶められようと構わなかった。今の俺は王の息子じゃなく、レスター諸侯同盟の盟主だからな。そんなものすらも務まらなくて、俺の野望なんざ叶えられるはずがない」



 言っていることがすぐには飲み込めず混乱する。外から、あいつら、王の息子。繋がらない言葉にどういうことだと目だけで問いかければ、クロードは初めて、困ったような顔で笑った。



「俺にはやりたいことがあってさ。元々盟主になったのもそのためだったんだよ」



 士官学校の入学を目前に控えた前の年、突然その存在を公表されたリーガン家の後継者。僕は、君が何者なのか分からなかった。
 はじめは盟主であったリーガン家の当主が優秀な平民を養子にでもしたのかと思ったが、実際君にはリーガン家に伝わる紋章があった。僕や父、他の諸侯を黙らせるだけの非凡さを兼ね備えた君の存在は、僕にとっては青天の霹靂だったのだ。
 君が真に同盟領を背負うに相応しい男であるならばそれでいい。それをガルグ=マクで見極めてやろうと監視していたのに、クロードはまるで掴めない存在だった。統率力があり、人を丸め込むのも上手い。セイロス教とはどこか線を引きながら周囲を観察し、ほとんど無自覚に自分の内側に取り込む。人の秘密を知りたがるくせに、君は決して自分の手の平を開いて見せることをしなかった。だから僕は君が嫌いだったのだ。
 なのに、今更、ここに来て、クロードは僕に全てを打ち明けようとしている。



「俺はパルミラの人間だ」



 クロードがそう口にした瞬間、風が強く吹いた。
 遮るもののない海風は、波の飛沫と共にそれ以外の音を持って行く。だけど、聞き逃さなかった。クロードの言葉を、僕は確かに聞いた。その時、ようやく何もかもが腑に落ちたのだ。



「母親がリーガンの出でね。それを聞かされた時は、ひっくり返りそうになったよ」



 行方不明となったリーガン家の息女、それが彼の母親だ。



「フォドラの人間ってのは、パルミラじゃあ蔑まれる。臆病者だってな。そんな臆病者の血が半分流れていた俺は、向こうじゃ『異物』扱いさ。フォドラを直接見たわけでもなけりゃあ、フォドラ人とほとんど話をしたこともないくせに。知りもしないで臆病者だなんて、良く言うよな」



 だが、それはフォドラにいても同じことだ。幾度となく同盟領内に攻め込まんとするパルミラ人は野蛮な存在だと、固定観念のように刷り込まれている。僕の表情で、何を考えているのか彼も察したのだろう。



「だから、俺はこの世界をまとめてひっくり返したかったんだよ。塗り替えたかったんだ、何もかも」

「……果てしない夢の末の話だ」

「はは。そうだな。だけど同盟をまとめて、フォドラを俺が統一して。それから新しい価値観を作って。そうしたらいつか、外との境界をぶちこわせると思った。……そのためにはやっぱり力が足りなかったな」



 クロードが先生の持つ天帝の剣に興味を示していたのも、そこを見据えてのことだったのだろう。
 選ばれなかった時点で負けている。いつだったかクロードが言った言葉が蘇る。だけどそれでも、クロードは自分自身と、周囲の人間の力を使ってそれを成し遂げようとしていた。



「――面白い世界が見れると思ったんだがな」



 彼がもしも、もっと早くにその壮大な野望を打ち明けてくれていたら。そう考えてしまうことはしかし間違いだ。僕は、君の語る夢を荒唐無稽だと言って唾棄すらしただろう。同盟を、フォドラをより良くする。僕の思考は常にそこで止まっていたから。だが、君はさらにその先を見ていた。理解出来ないわけだ。今になってそれが分かるなんて。クロードは薄く笑う。



「だから、お前が生きていてくれて良かった。ローレンツ」



 船の汽笛が鳴っている。戦後のざわめきは止むことはない。血と、潮のにおい。目にしみるのは、沈み始めた夕陽が君の背の奥にあるせいだ。その中でも、どうして君の声だけははっきりと僕にこびりつくのだろうな、クロード。



「これで安心してパルミラに帰れる」



 いくつもの意味が、そこにはあったのだろう。「俺は外からもう一回、別の方法で夢を叶えるさ」何年後になるかは分からないがな。目を細めたその男は、いつも僕の先をひた歩いていた。



「あとはよろしく頼むよ」



 だから僕は、彼が決めた道を確信するのだ。
 クロードはきっと、同盟を終わらせる選択をした。だが、独断では決められまい。恐らく円卓会議の決定を経てのことだ。同盟はこのまま、ファーガス神聖王国へと吸収される。




「……君は最後まで自分勝手だ」

「はは、否定はしないさ」



 何もかもを投げ捨てて行ったとは、僕はしかし思わない。彼は彼の最善を尽くし、同盟をここまで生き長らえさせた。
 勝手だな。君の同級生としてはそうも思うが、感謝もしている。君がいなければ、同盟の灯火はとっくの昔に消えてしまっていたと、このフォドラに住まう誰しもが知っているから。
 彼を乗せた飛竜が、デアドラの空に飛ぶ。僕はそれをただ、言葉もなく見上げている。名前を呼べば、縋り付くような声が出てしまいそうで、呼べなかった。
 別れを告げるためにか、腕を掲げられる。逆光でその表情が見えない。ああ、任せてくれクロード、念が届いたのか、そうでないのか、クロードの飛竜が鳴いた。








 そういえばから直接あの時の答えを聞いてなかったことを思い出したが、今更それも野暮ってもんか。ローレンツがいるんだ。何もかも、安泰だ。
 飛竜の上で風を受けながら、自分の身体がすっかり軽くなったことに無意識に息を吐く。
 同盟はなくなった。元々王国から独立しただけだったから、元に戻ったと考えりゃあそんな大したことでもないだろうさ。盟主の肩書きも、英雄の遺産も、全部手放しちまえばこの肩に背負うもんは何もない。
 自由だな。そうやって伸びをすれば、グロンダーズでの傷が引きつるように痛んだ。その痛みの中でも、かつての士官学校での日々が順々に頭を過ぎっているから、喉の奥に産まれた違和感に、感慨を覚えてしまうのだ。
 対抗戦だとか、平和な課題だとか、先生の周りで次々に起こった事件だとか、でも、そういうのもひっくるめて、実に楽しい日々だったよ。ヒルシュクラッセは、他の二学級と比べて随分賑やかだったな。真っ直ぐで、お人好しな連中ばかりで。
 だから一緒に俺の野望を叶えてほしかった。
 ここですまなかったと言えばそれで全てが終わりになってしまうようにも思うから、俺は、死んでいったお前らに、悪かったとは言わないよ。お前らがいてくれて良かった。だから、きっとフォドラは良くなるさ。



「また会えたら、そん時は、お手柔らかに」



 ディミトリにも向けて言った言葉を、レスターの空で吐き出す。雲の切れ間から光が差し込んでいた。俺が終わらせた同盟は、こんな時でも、笑えるくらいに美しかった。








 後に、クロードはを連れて行く気があったらしいことを、僕はの口から聞かされる。彼がパルミラの人間だったとはついぞ知らなかったは、けれど行き先がどこであってもアレキサンドルに戻るつもりでいたらしい。



「全部なくなっちゃったわけじゃなかったから。お母様やオーランド、ソフィーも、ノエルも、アレキサンドルのみんなも、お義父さまも。捨てることは選べなかったよ」



 そう言う横顔はどこか寂しげではあった。一方で「解散することは確かに決まってたし、クロードくんだって盟主の座を降りた以上は自由の身だけど、ふつう、何も言わずにどっかに消えちゃうかなー?」とヒルダさんはその眉根を寄せていたが、クロードが今もどこかで、それこそ自由に生きていることは想像に難くないのだろう。
 飛竜に跨がり空を飛んだクロードが戻ってくることはなかった。二人とも、きちんとした別れが出来なかったことを悔やんでいるのかもしれないが、あの様子なら数年後にはまたその名を耳にすることもあるだろう。
 なんせクロードはフォドラを統一できずとも、パルミラの王としていつかフォドラの隣の大地に立つくらいはしてみせるだろうから。
 そんな彼の姿を想像してみたら笑えてしまって、浮かんだ笑いを噛み殺す。なあクロード、君ならそれくらいは易いだろう? そう心の中で語りかける。
 そんな僕を、とヒルダさんは不思議そうに見つめている。








 リーガン家のクロードが盟主を降りたレスター諸侯同盟はこの年の花冠の節、その三百年の歴史に幕を下ろした。
 同盟諸侯はファーガス神聖王国に臣従することになり、その傘下に降る。
 一方、王都を奪還したことで安定した王国軍は、王国領西部と元同盟領より兵力が拠出されたことを受け、軍を再編。破竹の勢いで帝国領内へと進軍する。青海の節には不落と呼ばれたメリセウス要塞を陥落させる。
 その翌節、帝都アンヴァルに王手をかけた王国軍は市街を制圧すると、そのまま皇帝の拠る宮城を攻めこんだ。王国軍は激闘の末、アドラステア皇帝エーデルガルトを打ち倒したのだった。
 五年半に及ぶ戦乱がそうして終息したのは、帝国歴1186年、翠雨の節のことだった。


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