あなたの腕に抱かれているということは、さては私は死んだのだろう。
胸のあたりで頭を固定された状態で抱きしめられているせいで顔は見えなかったけれど、背中に回された腕の細さとか、感触で、それがローレンツくんのものだと分かった。私は浅ましいから、最後にローレンツくんが抱きしめてくれた夜のことを何度も思い出して、忘れないように刻みつけていたし、この匂いがローレンツくんのものだということだって知っていたのだ。
同盟の息の根を止めにかかった帝国軍の攻勢は凄まじかったとは言え、ジュディットさんに守られながら戦った私は死ねるような怪我を負ったわけではないと思っていたのだけど。
「」
死んだはずの私の身体はけれどあちこちが痛くて、重い。ぼやける視界のほとんどをローレンツくんが埋めていて、私は確かめるように手を伸ばした。お星様になると、食事もまともに摂れないのだろうか。最後に会ったときよりも、痩せた気がした。死んだら、そこで終わりだと思っていた。記憶の中に燦然と輝く像のように、変わることなんてないと。
私の手の平は、革手袋越しにローレンツくんの頬に触れる。ローレンツくんは何も言わずに私を見つめて、私の手の平を受け入れる。私の手を包むように、ローレンツくんの手が重なって、その時、ああ、と、口の端から息とも声ともつかぬ喘ぎが漏れた。
なんで泣きそうな顔をしているんだろう。
ローレンツくんは普段は抑え込んでいるけれど、元々感情の揺れ幅が大きい。特に、悲しいとか、そういう感情は、彼はいつも飲み込んでしまう。自分は貴族だから。民を不安にさせないようにって、彼はそういうことを考えている。
垂れ下がったローレンツくんの片側の髪の毛が顔にかかるほど、距離は近いはずなのに、遠くて、この声が届くのか、甚だ、不安だ。だけど、は、と息を吸い込んだとき、確かに私の身体の内側は震えた。ローレンツくんの手が、私の頬にはっきりとした温度を残した。鮮明な感覚が、私のぼんやりとした意識を徐々に覚醒させていく。
「ローレンツくん」
夢じゃないのかな。私は死んだんじゃないのかな。でも死んだなら、どうしてこんなに生々しく、彼の呼吸を感じるのだろう。
耳鳴りはいつの間にか止んでいた。歓声が聞こえていた。馬の蹄の音。響く断末魔。はためく軍旗の青。潮の香りに混ざる、むせかえるような血のにおい。デアドラの美しい街並みを作り上げていた建物の壁に飛び散った鮮血。ここが死語の世界だっていうなら、あまりにも、あまりにも報われない。
じゃあ、だったら。だとしたら。
「……いきてるの?」
こんなに自分の声が掠れるなんて、思ってもみなかった。
こんなんじゃ聞き取ってもらえない、そう思ったのに、ローレンツくんはその眦を細めて、静かに、深く、頷く。「本当に? 本物なの? 夢じゃないの?」繰り返そうとした声は、もう出ない。
焼け付いたように喉が痛い。瞬きをすれば、ローレンツくんの部屋に取り残された自分の背を、俯瞰するように眺めている、そういう映像が脳に浮かぶ。
紙片の花吹雪の中で死ねずにいた。酸欠になりかけても、手足が痺れるばかりで生きていた。あの部屋で蹲る私は、いつまでもあなたが迎えに来てくれる夢ばかりを見ていた。
都合のいい夢だった。
現実にはもう起こりえないと、私はもう諦めていたはずだったのに。
「ローレンツくん」
あれだけ痛かったはずの身体は、だけど、もう言うことをきかなかった。動かないっていう意味じゃなくて、逆だ。私は抱きしめられていた身体を起こして、その首筋に顔を埋めるために抱きついた。鎧を着込んだ彼の身体は弾力を感じさせはしなかったけど、心音は確かに聞こえた。
身体の軸を崩したローレンツくんは、それでも私を受け止める。いくら前線はもう遠く離れていると言っても、こんな戦場で地面に座り込んだまま抱き合う私達は、貴族らしさからかけ離れていて、いつものローレンツくんだったらこんな私に叱責の一つや二つはしただろう。だけど、彼は何も言わなかった。彼の名前を呼び続けるしかできない私を抱きとめて、何も言わずにいてくれた。
「なんで」
本当に、本当に生きてるの、なんで、どこにいたの、聞きたいのに声にならない。ぜんぶ、全部泣き声に埋もれていってしまう。子供みたいで、みっともなくて、情けない。私はもういい大人なのに。
だけど、だめだった、嗚咽も、涙も、突き動かすような衝動も、何も止まらなかった。会いたかった、怖かった、もう覚悟を決めていたはずだったのに、いざローレンツくんを前にすると、その全部が音をたてて弾けて、消えてなくなってしまうのだ。これではきっとローレンツくんに呆れられてしまう。
でも、それでもいい。呆れられても、嫌われても今は良い。
ローレンツくんに抱きついたままみっともなく泣いてしまう私の傍に、遠慮がちに膝をつくメルセデスさんの存在にも気づかないまま、私はそうして勝利の報せが戦場になっていたデアドラに響き渡るその瞬間も、ずっと彼の身体にしがみついていた。
帝国軍を指揮していたアランデル公を討ち取ったとの宣言は、港の方から波及するように伝わった。
恐らく王国軍の到来を予期していなかったアランデル公が、挟撃される前にとクロードの首を直接取りに向かったのだろう。実際、彼さえ殺してしまえば今の同盟など恐るるに足りぬのだから。そして彼は、クロードへとその刃を届かせることのないまま死に至った。帝国の脅威は、これでまた一つ消え去ったことになる。
「……。そろそろ僕は行きたいのだが」
メルセデスさんによって治療をしてもらったはそれでも僕にべったりとくっついて離れてくれない。
「あらあら〜うふふ、ローレンツったら幸せ者ね〜」
そうメルセデスさんに微笑まれて、どんな顔をしたらいいのか分からなくなる。にここまではっきりと喜んでもらえることは嬉しいが、クロードや先生の元へ向かわねばならぬし、人の目もそろそろ気になる。路傍で治療を受ける負傷兵からの生ぬるい視線は今になって痛く、僕は未だに泣きじゃくって隙間なく身体を寄り添わせるの頬に伝う涙を指の腹で拭った。
「……そう泣かれてしまうと、君と話もできない」
「だ、だって、だって、お葬式もしたんだよ、わ、私、もう会えないって思ってたのに、なんで生きてるの」
「ミルディン大橋の戦いの後、落ち延びていたんだよ。先生たちに見逃してもらえてね」
「皆、そのことを知ってたの? わ、私だけ知らなかったの?」
「王国軍の一部以外には知られていなかった。あとは、オーランドが協力を」
「オーランド!」
なんで、とその瞳が見開かれる。一瞬身体が離れた隙をついて、を抱きかかえて立ち上がる。視点が高くなって動揺したは短い悲鳴をあげて再び僕にしがみつくが、そのまま馬に乗せられて、困惑の色を一層深めた。とにかく港の方に行かねばならない。いつまでもこんな市街の片隅で、再会を喜んでいるだけではいられなかった。
僕は、クロードにも会わねばならなかったから。
を自分の身体の前にやり、包みこむように手綱を持つ。なるべく大きな通りを選び、記憶にある港への道を進む僕に、はまだ鼻を啜っていた。今は彼女自身、まともに話が出来ない状態であることを自分でも察したのだろう。突然口数が少なくなった彼女の、その長い髪が風に靡くのを、僕は視界の端で見つめている。本当はこのまま抱きしめてしまいたいとすら思うけれど、今はその時ではない。果たしてその時が来るのかどうかも、定かではないが。
これから先のことを考えようとすると、どうしても心がざわめく。帝国軍の脅威は去った。だが、同盟領は最早虫の息だ。僕が戦線に復帰できるとしても、今すぐ帝国に攻め入るほどの兵力はもう同盟には残されていない。ならば王国軍との共闘が現実的なのだろうか。クロードは一体どういう選択をするのだろう。今は読めないが、兎に角彼と会って話をしなくては。ディミトリ君や先生とも。
同盟にとって、全てが上手く片付くことはないだろう。この地は既に傷つきすぎている。後継者を失った家もある以上、今は領内を立て直すことが先決か。リーガンとグロスタール、エドマンドと、それからゴネリルが中心となって諸問題を片付けていくことになるだろう。リシテア君を失ったコーデリアの代わりは、ダフネルが穴を埋めるのが妥当か。そういうことを考えて、僕は彼女の問題を敢えて頭から追いやろうとしている。
がこれから先どういった道を選ぼうとも、僕は彼女を応援すると決めていた。
父は恐らく僕の死を知って、頼んでいた通りに婚約破棄の手続きを取ってくれただろう。アレキサンドルは未だグロスタール領としておかれているが、彼女が望むならばいずれは以前の形に戻すことだって出来る。勿論、それが重荷であるようならばグロスタールの中で自治を認めても良い。もしも五年間の空白を経て再会したクロードとの間に慕情が芽生えていたのなら、僕は二人を祝福するさ、それはすぐには難しいだろうけれど。だけど、その前に、一度でいいから僕の話を聞いてはくれないか。
僕は君が今でも好きだとそれだけをどうか、伝えさせてほしいのだ。それがどれほど独り善がりで、君を困らせることになろうとも。
戦後処理の始まった市街を抜けると、潮の香りが濃くなる。死んだはずの僕の姿はどうにも目立ってしまうらしく、ざわめきは徐々に広がっていくが、港にまではまだ届いていなかったらしい。
遙か彼方、波止場に立つ見覚えのある人影に僕が意識を持っていかれかけたその時、僕は、彼女の手に添えていた自分の指先に、慣れない感触があることを知った。息が止まる。
思わず視線を落として、の手を見る。ゆとりのある黒い革手袋で覆われたその指を。
馬上の揺れから守るためか、私の手を、彼は一度確かめるように握った。そうしたとき、その指にそれは触れたのかもしれない。彼は何かに気がついたように私の革手袋に意識をやったようだった。びくりと指先が震える。指の腹でなぞられて、息が止まる。
汗なのか血なのか分からない体液で湿ったそこが空気に触れた瞬間、ぞくりと寒気を覚えた。彼の手によって外される手袋を、私は抵抗もできずに、見つめている。
「あ、ああ、その」
だけど口は勝手に言い訳をしようとしているのだ。だって、そこには指輪がある。視界の隅に映ったそれは、左手の薬指に収まったまま、花冠の節の、薄い雲を隔てた陽の光の下、淡く輝いていた。
どうしよう、怒られるかもしれない、なんてことを私は考える。勝手に部屋に入って、勝手に箱を開けて、勝手に自分のものだと決めつけてもらってしまった。
お義父さまは何も仰らなかったけれど、盗人のような行いも、喪に服した手袋のその下に隠せば許されると思った。だけど、ローレンツくんに見られてしまうとなると話は別だ。気まずくて、申し訳なくて、恥ずかしくて、そういうのがいっぺんに襲ってくるから、私は彼が吐き出した長い長いため息の果てに口にしたその言葉に、思わず身を竦める。
「君は」
私の背中から聞こえたローレンツくんの声は、掠れていた。
「…………君はいつも、僕の想像の上を行くんだな」
あれ、もしかして、怒ってない?
振り向いて確認しようにも、後ろから身体を固定されているせいで身動きが取れない。困っていたら、波止場の方で、ディミトリくんや先生と話をしていたクロードくんが私達に目線を寄越したことに気がついた。その瞬間、クロードくんのその目が丸くなる。
「は? ローレンツ?」
さすがのクロードくんも、ローレンツくんが生きているなんて想定外だったんだろうな。
ローレンツくんが今どんな顔をしているのか、私には分からない。それでもデアドラの市街地の片隅、積み重なる死体の山の中、これから消えゆく同盟の終わりを、私達は生きている。