「――ローレンツ様?」
アレキサンドルからリーガンへ向かう街道には、既に出立のため兵が列を成していた。オーランドを探していたらしい上官が、僕の姿に目を丸くしている。彼らからしてみれば、僕は宛ら霊のようであっただろう。
ざわめき、信じられないものを見るかのように彼らの目が見開かれているのを見ると、なんと口にするべきなのか分からなくなる。この反応を見る限り、オーランドは誰にも僕の存在を口外せず、また訝しがられることもないまま匿い続けていたのだろう。そうしてほしいと頼んだのは僕だが、本当にそれをやってのけてしまったというのなら、それはそれで末恐ろしいな、と僕の隣で涼しい顔をして立っている少年に目線をやった。
放心した兵達に、それでも何か告げねばならぬと「死地より戻ったよ」と口にすれば、しかし彼らはようやくその顔にはっきりとした感情を浮かべた。
強くなった眼光、震える口元、それを押さえる手の甲、そこを涙が伝う者すら居る。あれは、歓喜だ。僕は、それを半ば信じられないことのように思うのだ。
「……い、生きて、生きておられたのですね、ローレンツ様」
武装した大の男たちが嗚咽を漏らす様は異様で、本来この状況を思えば僕は彼らを一喝すべきであったのだろう。これから救援に向かわねばならぬのだ、泣いている暇などあるものかと。だが、それでも僕は今、胸を打たれている。
あの時なくした命だった。僕の遺体はアミッド川を見晴らすことのできる丘の上にでも埋められているはずだった。
彼らには苦労をかけたのだろう。僕が死んだことで、父はすぐにクロードの講和を受け入れた。その後は戦場に出るようなこともせず、ただひとり、静かに過ごしているらしい。表舞台からこのまま去る気なのだろうか、グロスタールはどうなるのだろうか、兵たちがそう話をしているということも、オーランドから聞いていた。彼らの積み重なった不安が、嗚咽となって漏れていく。
「すまなかった、心配をかけただろう。……だが、もう安心したまえ。これからは、僕が君達を導く」
残された同盟貴族として。そう続けた僕に、兵達は強く頷く。その時、僕を呼ぶ声があった。「よう、ローレンツ」と。
背後からの声に振り向けば、そこにはあの孤月の節、ミルディン大橋で僕を見下ろしていたシルヴァンの姿があった。オーランドの言う王国軍の先遣隊とは彼のことだったのだろう。その表情は、あの頃に比べればずっと晴れやかで、僕は本人を見たわけでもないのに、絡まっていた全ての枷から、ディミトリ君が解放されたことを知る。
「元気そうで何よりだ。空の居心地は悪くなかったか?」
死んだ者は星になる。フォドラに言い伝えられている言葉で揶揄され、「ああ」と肩を竦めた。
「少し狭かったが、雨の音が良く響いてね。それほど悪くはなかったよ」
ぶは、と貴族らしからぬ笑い声をあげるシルヴァンに、僕もまた目を細める。グロスタール兵達に向き直って「君達も、王国軍の本隊が来るまでは泣き止んでくれたまえよ。僕達にはまだ大仕事が残っているのだからな」と告げれば、彼らは、実に不揃いな、感情的な敬礼をしてみせた。
「デアドラにいる奥方様を、必ずお救い致しましょう」
彼らの言葉に、けれど僕はどんな表情を浮かべたら良いのか分からない。
士官学校に入学したあの大樹の節、ガルグ=マクで十年ぶりの再会を果たしたは昔の面影をほんの少しだけ残して、美しく成長していた。
くまのぬいぐるみを抱きかかえて、不安げにグロスタールの屋敷を歩いていたあの頃よりもずっと大人びていたのに、だけど根の部分は変わらなかったから、僕はどうしてかほっとしたのだ。表情が豊かで、考えていることが顔に出てしまう君が、僕は昔から頼りなくも愛おしく思っていたから。妹とは、きっとこんなものなのだろうなと。
あの春に同じ年に士官学校に通うことになるとは父より聞いてはいたけれど、僕を見上げて明らかに狼狽していた大樹の節を思い出すと、僕は今でも笑いそうになる。あの時僕は取り繕って君に挨拶をしたが、君が僕の姿に動揺する様はおかしかったな。こんなに背が高くなったのか、とその瞳が僕の爪先から頭のてっぺんを何往復もして問いかけるから、いっそ口にしてくれれば良いのにと思ったのだ。
結婚相手をさがしていると耳にしたから、ならば僕は傍に居ない方が良いのだろうと思って距離を置いた。僕ほどの男が傍に居れば君を思う学生がその身を引いてしまうとも限らないから。後に僕の思惑を知ったは、言いようのない顔で僕を見つめていたけれど。
僕達は確かに幼馴染みだ。だが、そうは言っても十年前の一時期に頻繁な交流があったくらいで、彼女はそれ以降舞踏会に現れることもなかったから、君の兄君との方がよほど親交が深かった。君もそうだったが、作物の集荷の手伝いが好きだと飾らずに笑う彼はあまり貴族らしくなかった。一緒に居ると抜けて良いはずのない肩の力が抜けてしまって、だから、本当は少し苦手だったのだ。僕は同盟貴族の一人として常にそれらしくあらねばならなかったのに、君の兄は貴族特有の腹の探り合いや、作り笑顔を浮かべることをしなかったから、あまりの毒気のなさに、僕の芯まで溶かされるようだった。ヴァイル殿や、くるくると表情を変えるを見ていると、環境がそうさせたのだろうなと思う。
ヒルダさんとは特に馬が合ったのか、教室内にいれば二人の鈴のような笑い声はいつも響いていたし、マリアンヌさんに怪我の具合を心配されてはまるで全くその後遺症などないかのように朗らかに笑った。リシテア君と菓子を食べ、レオニーさんと街へ出かけ、そうして過ごす穏やかな日々の中、君はあっという間に恋をしていた。
僕は名門グロスタールの嫡男として、僕に相応しい女性と結婚する義務があった。恋だの、愛だの、それに憧れがなかったわけではなかったと言えば嘘になるが、それでも自分はそれを切り離して生きなければならないだろうと知っていた。それに比べれば、結婚相手をさがしているとは言いながらもさほどそれを重荷に感じている様子のないが、どれほど自由に見えたか。
クロードに惹かれているのはその横顔を見ていれば分かった。僕とは違って自由に生きることの出来る君を縛る権利は僕にはなかったはずなのに、それでも僕は、クロードだけはやめておけと思ったのだ。
あれは君を愛しはしまいと知っていたから。
だけど君の思いをねじ曲げ、不自然な方向へと向けることを良しとするほど独善的な男では、僕もない。舞踊から逃げ回って生きていた君が僕に教えを乞うたとき、僕はもう、ほとんど諦めたのだ。その頃には不確かだった靄のような思いはきちんと形になって君へと向けられていたけれど、無理に飲み下した。
君が幸せになれるようにとこの思いを祈りに変えればそれで済むはずだった。
済むわけあるか。
クロードのことだからそこまで彼女に無理をさせることもあるまい、そう思っていたが、そうも言っていられないほどに同盟軍は兵の損耗が激しかったのだろう。
グロンダーズでの敗戦が響いたせいだ。残念なことにイグナーツ君やラファエル君、レオニーさん、そしてリシテア君があの地で戦死したことは、からの手紙にあったとオーランドから聞かされていたが、恐らくクロード自身も多かれ少なかれ怪我を負っているはずだ。もしかしたら、指揮を執ることすらもままならないのではないか。そうでなければ、彼自身あそこまで港の奥に籠もりもしないだろう。
は遊撃隊の一員として港へ続くデアドラの市街地を守っていたらしい。剣を振るうその姿を遠目から見たとき、心臓が止まる思いがした。もう体力のほとんどを使い切っていたのだろう、当然だ、彼女はガルグ=マクを出てからの五年間、オーランドの訓練という名目でしか武器を振るってはこなかったのだから。
返り血なのか、自分のものなのか分からない血を頭から被った彼女の姿は、五年前のガルグ=マクでの戦いを彷彿とさせた。君に戦ってはほしくなかったのに、僕はそんなことからも君を守れない。
グロスタール兵の指揮は僕が執る、そう言っていたはずなのに、デアドラの窮地を目の当たりにした隊長の男は、僕に「行ってください」と言ってのけた。
「我々も訓練を重ねています。誰一人死なせはしません。ローレンツ様は、奥方様の元へ、お早く」
海に面したデアドラの空気はどことなくべたついて、だけどそこに紛れる死臭が彼女を手招いているようにも思えた。僕の背を押す手がある。目線だけを向ければ、ベレト先生が静かに頷いて僕に合図を送っていた。それに頷き返して、僕は馬の手綱を握る。
港からは離れた市街、デアドラに明るくない王国軍のため、港へ直で入ることの出来る経路に導いたのが功を奏した。もしも市街の正面から入っていれば、既に帝国兵の手によって制圧されているそこを突破するのは骨が折れただろう。脇腹を衝く形になれたこと、そこに彼女が帝国兵に囲まれ身動きが取れずにいたこと、全てが偶然に過ぎなかったけれど、それでも僕は、まるでそれらを奇跡のように思うのだ。
の元へ向かうには、それでも数多の帝国兵を切り捨てていかねばならなかった。彼女たちは、既に王国軍が援軍にやって来たことに気づいているのだろうか。帝国兵の動揺は伝播し始めているが、それでも同盟軍は目の前の敵を倒すのに手一杯だ。、叫べども、この声は戦場の喧噪にかき消されてしまう。
手を伸ばせば届く距離ではないけれど、それでも彼女はそこにいる。強ばった顔で敵を切り倒し、痛みに耐えている、その目が恐怖に染まっているのを僕は知っている。もういいのだ、もういいのだと言いたいのに、まだこの手は届かない。
子供でもないのに、僕はずっと自分が君を救うのだと思っていた。君の神様にはなれずとも、君の王子にはなりたいと、あまりにも都合の良い夢を見た。だけどそれの何が悪い。
その時、が死体に足を取られ身体の軸を崩す。彼女の目の前にいた帝国兵もそれを見逃すほど愚かではない。
「!」
響いた声は、僕のものではなかった。喉にはりついて、何も出ないのだ、僕の槍はその時目の前の帝国兵を貫いていて、魔法の詠唱も間に合わない、頭が白くなりかけたその時、けれど僕の身体の脇を、流れるような矢があった。
を貫こうとした槍が兵士の手から落ちる。鎧と兜の隙間、首の後ろに真っ直ぐ突き刺さったその矢は、呆気なくその命を奪った。ずるりと頽れた兵士の奥で、彼女はただ目を見開いて事切れた男を見つめている。振り向けば、そこには弓矢を放った姿勢のまま僕を見るアッシュ君の姿があった。
「行ってください、ローレンツ」
その口が、静かに動く。
「はやく!」
体勢を立て直すために市街側へ引き返していく帝国兵を負うディミトリ君たちの攻勢は凄まじかった。彼らにならばクロードの救出を任せられる、そう思えるほどに。
残党を切り伏せ、その断末魔を耳にこびりつかせながら、僕は君への道を見つける。どこまでもお膳立てされて、死ぬ寸前から引きずり上げられて、人を頼って生き延びた、こんな時ですらも颯爽と君の元へ駆けつけられない僕の、何が王子であるものか。
だが、どれほどみっともなくとも、君が誰を選ぼうとも、何も伝えぬまま、言葉もなく終わりにはしたくない。
僕は君が好きなのだ。
「」
馬から下り、地面に倒れこんだの名を呼ぶ。傷だらけの肢体だった。下衣が破れ、露わになった右腿にはあの春にできた傷が生々しく残されていた。同盟兵や帝国兵の区別なく積み重なる遺体の中で眠ったように目を閉じた君は、それでも小さく呼吸をしていた。走馬灯のように、どうして、これまでの君が僕の脳を駆け巡るのだろう。
七つの頃、薔薇が見たいと泣いたと一緒に雨の中走って濡れた。同じようなことを、僕達は十年経って、ガルグ=マクで再現した。
情緒のない君は肘傘雨と言われても首を傾げる。クロードを見つめる君の横顔を美しいと思ったとき、なんて不毛な恋だと思った。名誉の勲章と笑った君に目を覚ませと言ってやりたかった。アレキサンドルを人質に君の心を縛った。それでも時折見せてくれる笑顔に救われた。
好きだと一度も言えないまま、僕はここまできてしまった。
の瞳が開かれたその瞬間、僕はその腕を掴み、抱き寄せていた。それは、これまでの僕が見たら性急すぎるもので、だけど、止まらなかった、脳の中で必要な回路を幾つも飛ばして、抱きしめた。
腕の中のが、びくりと身構えて息を止める。
「え?」
くぐもった声が胸のあたりでして、ああ、そうか、これでは顔が見えなくて、相手が僕だとわからないと、そう思ったのに。
「……ローレンツくん?」
彼女は確かに僕の名前を呼んだ。
それだけで、きっと全ては報われた。