グロスタールのお屋敷は、うちよりもずっと大きくて、「ごうしゃ」で、だけど初めて連れられていったとき、私はなんだか好きになれないな、と思った。
横に広い廊下は薄暗くて、寒々しかった。お兄様が直前で体調を崩されて、私とお父様の二人で来なければならなくなったことも、本当はとても嫌だったのだ。
グロスタールには私よりも一つ年上の男の子がいるらしい。名前は、ローレンツくんっていうんだって。なんで男の子なんだろう。女の子だったらよかった。私は優しいお姉様がほしかったから、もしもその子が女の子だったら、絶対に、絶対に仲良くしてもらったのに。
お腹の前で抱きかかえたくまのぬいぐるみは、私を守る盾みたいだった。お父様はおいていきなさいって仰ったけれど、お兄様もお母様も来られないんだったら、お友達を連れていったっていいでしょう。そう言って、どうにか馬車に一緒に乗った。
出迎えてくださったグロスタールのおじさまは、そんな私に微笑んで「お名前は?」と言うから、「エステル」と、くまの手を取って答えた。そうしたら、おじさまは私の名前を聞いていらしたみたい。慌てて訂正するお父様に、おじさまはその楕円の形をした目を細めて、声をあげて笑われた。それで私はすっかり恥ずかしくなってしまったのだった。
「息子は今丁度教師が来ているところでね。あと半刻もすれば終わるはずだから、それまでは屋敷を探検しているといいさ」
探検なんて、一人でしたって楽しくもなんともないのに。そう思ったけれど、お父様とおじさまのむずかしいお話を聞いているのはきっともっと面白くないから、私は素直に言うことを聞いて、エステルを連れてお屋敷を歩き回ることにした。
雨が降っていたせいもあるのかな。グロスタールのお屋敷って、なんだかひっそりしていて、私の靴の足音が変に響いてしまうから、とっても落ち着かなかった。時折すれ違うお手伝いさんも、にこりともしてくれない。もしもここがアレキサンドルだったら、お手伝いさんは「あら、様、退屈なんですか?」なんて声をかけてくれるのに。
お屋敷の中に飽きても、外に行けば畑作業をしているみんなが私に手を振って、ちょっとお手伝いしてくれる? なんて声をかけてくれるから、私はとても嬉しくなる。両手にいっぱいの麦を抱えて、収穫のお手伝いなんかしてるうちに、あっという間に陽が暮れる。麦畑の奥に沈んでいく太陽を見るのが好きだった。もの悲しいような気持ちになるけれど、お夕飯のいい香りがアレキサンドルいっぱいに広がって、私はみんなに手を振って、またね、って笑ってお屋敷に帰る。
でも、グロスタールのお屋敷の外には畑なんか少しもない。整った街並みは、みんなが住むおうちと、商人さんたちが商売をするところとできれいに分けられていて、そういうのも、なんだか少し落ち着かなかった。
お兄様がもしもいらっしゃったら、きっとこんなに心細くて、退屈な思いはしなくて済んだのに。螺旋状の階段をくるくると上っていると、今自分がどれだけ歩いてきたのかが分からなくなってしまう。きちんと数を数えておくべきだったね、エステル。抱きしめながらそう呟けば、エステルの首に巻いておいた、私の頭にあるものとお揃いのリボンが頬をくすぐった。
窓の外はしとしとと雨が降っていた。濃く、厚い雲が空いっぱいに広がって、これじゃあアレキサンドルでも今日の収穫はお休みかな、なんてことを考える。
廊下から窓の向こうをぼんやりと眺めていた私の後ろを、そのとき、すぐ傍の部屋から出てきた誰かが足音もなく通り過ぎていった。お手伝いさんかな、そう思って横目で見てみたら、それは一見してお手伝いさんとは違う、男の人だった。たくさんの書物を脇に抱えていて、それが何だか、フォドラの歴史を教えてくれる私の先生に雰囲気が似ていたから、ほとんど直感で、あれが「ローレンツくん」の先生なのかな、なんて考えてしまう。
ぼんやりとその人の後ろ姿を見送ったとき、もう一度、すぐ傍の扉がぎい、と古めかしい音をたてて開かれた。反射的にエステルを抱きしめながら振り向く。あ、この子がそうだ。そう思ったのは、グロスタールのおじさまと、そっくりな目の形をしていたからだ。
想像に反して、頼りないくらいに細っこい男の子だった。いや、想像に反して、っていうと、ちょっと違うのかも知れない。私の周りにはこの子くらいの体型の子が一人も居なかった。お兄様も比較的細身だったけれど、それでも日に焼けていたし、良く食べていたから、この子に比べたらもう少し健康そうだった。私はここまで華奢な男の子を、初めて見たのだ。
膝丈の下衣から出たこの子の足は折れそうなくらいに細くて、真っ白かった。肩のあたりで真っ直ぐに切りそろえられた、男の子にしては長いその髪型のせいもあったのかもしれないけれど、彼は見ようによっては女の子のようにも見えたのだった。
「ああ、君が=フォン=アレキサンドルかい?」
何だかちょっと鼻持ちならない人だな。彼が口を開いた瞬間そう思ってしまったのは、「僕はローレンツ=ヘルマン=グロスタール。よろしく頼むよ」と口にした彼のその顎が、不遜に上を向いたからだ。私はエステルを抱きしめたまま、顔の半分を隠して、じいっと彼を見つめ返す。
「部屋においで。未来のフォドラについて語り合おうではないか」
絶対におもしろくないんだろうな、その話。私はあのときそんなことを思っていたくせに、結局お菓子につられて入ってしまった。
だけどローレンツくんのお話は、わかりやすかった。滑舌が良くて、要点を掴んだ話し方をしてくれるせいかもしれない。貴族としてのあるべき姿、自分たちに課せられたもの、不思議に思って質問したことは、全部私にも分かる言葉で噛み砕いて答えてくれた。
努力家なんだということは、彼の机の上に詰まれた無数の書物が証明していた。私はあれらのうち、一冊を読むのにもきっと一年はかかってしまうだろう、そんなことを思ったのだ。
ローレンツくんのお話は、けれど七つの私にはやっぱり飽きてしまうのだった。眠くなってしまったけれど、それを誤魔化すためにエステルの首のリボンを解いてこっそり遊んだ。おや、と、ローレンツくんが私とエステルを見比べる。
「君達のそれは、揃いなのだな」
そう言った時のローレンツくんは、私が思っていたよりも、優しい声をしていた。
私は最近、どうしてか、そんなとりとめのないことを思い出してしまうのだ。
ばかだよね。
降り続いていた雨があがる頃、防衛線は既に突破され、アランデル公の指揮する帝国兵は市街へと入りこんでいた。クロードくんの指示通り市民を海上へ逃がしていたからこそ、私達は何の憂いもなく港に近い市街の奥へと帝国兵を引き込むことができたけれど、想定以上に帝国兵の数が多い。ジュディットさんと共に遊撃隊として兵を迎え撃っても、次から次へと現れる帝国兵に徐々に戦力を削られていた。
「ちっ……数が多いねえ、ここまで囲まれちまうと、盟主様の援護にも行けやしない……」
クロードくんとヒルダちゃんは港で船への最終防衛線を守っている。敵の流れを見るに、恐らくそちらにも帝国兵は押し寄せているはずだ。圧倒的な兵力差に、気が遠くなる暇もない。徐々に市街の隅に追い込まれた私達は、ここを切り抜けなければ身動きも取れなかった。
人を殺すことが恐ろしい。そう言って躊躇っていた六年前の私には、きっと守らなければいけないものがまだなかった。貴族として、民を守る。それは私の中にこびりついた指針であったけれど、肌の上にぺたりと乗せていただけの飾りに過ぎなかったのだ。だけど、今はもうそんなことも言っていられない。ここで負けるわけにはいかなかった。覚悟があった。この手で屍を築いてでも、同盟を、そこに生きる人々を守る覚悟が。たとえそれがこれから消えゆく国であったとしても。
ここまで帝国兵を引き込んだのは、援軍に来てくれるだろう王国軍にその後背を衝かせるためだ。王国軍が来るまでは、だからどうか持ちこたえてくれとクロードくんに言われている。剣を切り返し、敵を切り捨てるジュディットさんに背を預ける。左腕は随分前に切りつけられてからもう感覚がないし、気を抜けば視界が霞んだ。
「、あんたは大丈夫かい」
ジュディットさんに尋ねられ、「何とか」と口にしたその時、返り血なのか自分のものなのかも分からない血が口の中に入った。
本当に王国軍が来ると思いますか、ジュディットさん。そんなことを聞いてはいけない。分かっているけれど、一人、また一人とこちらの兵が倒れていく度に、叫び出したい衝動に駆られてしまう。
息なんかとうに切れていた。剣をまだ握れているのが不思議なくらいだった。どちらの兵のものなのかも分からぬ屍を踏み、血だまりに足を滑らせながら、身体を低くして肉を断つ。生きなければ、生きなければ。呪詛のように繰り返す。きっと皆もそうだった。
レオニーちゃん、イグナーツくん、ラファエルくん、リシテアちゃんも、ローレンツくんだって。
奪われてたまるか、これ以上殺されてたまるか、そうやって歯を食いしばり続けて、それでも途切れない敵兵の波に、いつかこの心が折られてしまうことを私は既に感じ取っている。
死にたくなんかない、生きたい、全部終わったとき、怖かったねってヒルダちゃんと抱き合うんだ、クロードくんに本当にお別れを告げるんだ、アレキサンドルに戻って、お母様やソフィー、ノエル、オーランドを抱きしめて、ちゃんとただいまって言わなくちゃ。だけどそれと同じくらいの強さで、私はここで死んでしまうのかもしれないとも思う。
視界はもう平生の半分くらいになっていて、ただ暗い。耳鳴りがして、それが必要な情報を遮断していて、本当は、立っていることすらもままならない。
一人で頑張らなくちゃ。戦わなくちゃ。ジュディットさんに迷惑をかけちゃだめだ。役に立たなきゃ。一人でも多くの帝国兵を倒さなきゃ、そう思っているのに、私はそれと同じ分だけ、助けてと思っている。お兄様を失った日のように。
手に残る肉の感触が嫌だ。どうしたって聞こえる断末魔の悲鳴が嫌だ。私が手にかけたという事実が嫌だ。ここまできて、こんなところで助けてなんて、本当は思っちゃだめなのに、情けない感情が頭から溢れて止まらない。
屍に足を取られる。敵兵の槍が目の前にある。それがやけに遅く見えたから、あ、どうしよう、と思ったのだ。まだ遠いそれが、自分のお腹に突き刺さる幻覚を見る。服を、皮膚を、肉を突き破って、それは私の身体に穴を開けるのだ、そう遠くない未来に。
避けなきゃいけないと思うのに、身体に力が入らない。
「!」
ジュディットさんの絶望に染まった声だって耳に届いた。だけどその時には私はもう来るべき衝撃に目を閉じていた。殺される覚悟をしていたのだ。なのに、目の前で私じゃない誰かの低い悲鳴が聞こえた。恐る恐る目を開ける。倒れた帝国兵の首の後ろに突き刺さる、一本の矢があった。
顔をあげたとき、私はそこに、青い旗を見た。
デアドラの市街に、金色の髪の獅子がいた。その隣に立つ先生を見た。歓声が聞こえる。うねりのような怒号の中に、確かに彼らは立っている。
「ああ……ようやく来てくれたね」
意識をそちらに向けた帝国兵を容赦なく切り伏せながら言うジュディットさんの口元は、その日、初めて弧を描いていた。
「帝国兵を打ち倒し、同盟を救え!」
ディミトリくんの声は、その歓声は、港にいるクロードくん達にも届いているだろうか。
クロードくん、すごいよ、本当に、本当に来てくれたよ、先生達が。クロードくんの思惑通り後背を衝かれる形となった帝国兵は、王国軍の攻勢を受けてその前線を市街側へと戻されていく。
「、私は王国軍と一緒にこのままクロードの元まで向かうが、あんたは一度手当てを受けた方が良い。王国軍の衛生兵に声をかけておくから、ここにいるんだ、いいね?」
既に立っているのもやっとである状態を見抜かれていたのだろう。ジュディットさんに肩を叩かれた私は、ほとんどもう声も出せなかった。何とか頷いて、剣を地面に突き刺し膝をつく。肩で息をすれば、ぐらりと視界が歪んだ。喘ぐように吐いた息が震える。痛みを感じていなかったはずなのに、今更自分の身体が傷だらけであることを知る。滲んだ血は皮膚を伝い、地面に落ちる。
それでも六年前の大樹の節のものに比べれば、どれもこれも浅かった。片膝をつき、右太股を立てた状態であるせいで下衣が捲れ、あの時の傷が露わになる。
引きつった皮膚、私の名誉の勲章、ローレンツくんは、私がそう言うのを酷く嫌がった。でも、今日の傷だって、きっと少しは痕になるんだろうな。その傷を、悲しい目で撫でてくれる人はもうどこにもいないけれど。
「いきてる……」
呟けば、デアドラの市街の片隅に、積み重なった死体の上に、私の声は掠れて消えていく。
これ以上傷が増えたら、嫁のもらい手がなくなるっていつだったかローレンツくんに言われたのを思い出す。私はあのとき、この人はなんて酷いことを言うんだろうって思った。身体に傷が残った私の気持ちを慮らないその言葉に憤慨して、ちょっと根に持っていたのだ。
だけど、そうだな、こんなに増えたら、やっぱりもうだめだね。私はどうやら運良く生き残ることができたみたいだけど、このままいけば、きっと帝国軍を追い払うことはできるだろうけれど、そして同盟は、消えてなくなってしまうのだけど。
そこにあなたがいないことがこんなにも悲しい。
でも、やっぱりそれでも、長すぎる余生は、あなたのことを思って生きよう。そう思うのに、どうしてもつらいのだ。だって、責任をとってくれるって言ったじゃない、お嫁さんにしてくれるって言ったじゃない、こんなボロボロの私、誰ももらってなんかくれないよ、ねえ。
約束通り、責任とってよ、ローレンツくん。
剣で支えていた身体が崩れる。右肩を石畳に叩きつけて、受け身もとれないまま仰向けに転がった。
水の都デアドラの美しい街並み。血に混ざる、湿った潮の香り。歓声が遠く、耳鳴りはやまず、瞬きというには長すぎる明滅、死ぬには浅すぎる傷ばかりで、だけど、こうしていると酷く心細くなる。息を吸えば、胸が痛む。どうにか吐き出したいのに、出るのは涙の方なのだ。
目を閉じる。長く、長く。今は動ける気がしない。だけど。
名前を呼ばれた気がした。
私はその声を、ずっとさがしていた。