人を切るために剣を握るのは、思い返してみれば五年前のガルグ=マクでの戦いが最後だった。
 いくつになっても、戦いに至る前の空気というのは苦手だ。リーガンの潮風は髪や皮膚をべたつかせるけれど、それ以上に軍全体が妙な高揚感に包まれて、それが肌をぬるりと撫でていくように思う。死地へ赴くことへの恐怖は、こうして形を変えなければ私達を正常にさせてくれない。



「あーあ、本当にこの空気って嫌よねー。早く終わんないかなー」



 あえて軽い口調で呟くヒルダちゃんに、曖昧に頷く。早く終わらないかな、本当に、私もそう思う。黒い革手袋は滑り止めになって、剣を手に馴染ませた。
 リーガンは近く戦場になる。帝国軍は既に同盟領内に進軍を始めていて、防衛線が突破されるのも時間の問題だ。グロンダーズで負傷したエーデルガルトさんの代わりに軍を率いているのは、彼女の伯父であり帝国の摂政でもある、アランデル公フォルクハルトだ。内政のみならず用兵にも長けた彼は辣腕摂政と渾名されていて、強敵であることは疑いようがない。
 クロードくんは帝国軍の進行方向にいくつか軍を潜ませておいた。それは兵力を削るためというよりも、ほとんど時間稼ぎを目論んでのことだ。クロードくんは、王国軍が救援に来てくれると信じている。王国軍が王都を奪還すること、同盟の救援要請に応えてくれること。これらの二重の賭けに勝たなければと口にしていたけれど、彼は既にそれを確信していたのだと思う。



「俺はディミトリの良心を信じるというよりも、頭を信じているからな」

「あたま?」

「そう、頭だよ。今同盟を奪われて困るのはあいつらも一緒だ」



 リーガンが陥落すれば、王国軍は北東の同盟領、南の帝国領の二方向に敵を抱えることになる。俺がディミトリの立場だったら、それは何としても阻止したいね。王国軍が王都を奪還する前提で彼は話すから、「そもそもそっちの方は信じてもいいわけー?」とヒルダちゃんが唇を尖らせるのも無理はない。クロードくんはそれにも「いいさ」と簡単に言ってのけるから、私達は揃って顔を合わせてしまうのだ。
 曰く、コルネリアはフェルディアで苛政を続けている。それに耐えかねているのは、何も民だけではない。帝国に降った王国の諸侯は、心から帝国に賛同しているわけではなかった。親帝国派が反旗を翻す機会を窺っていたのと一緒だ。本来正当な王位継承者であるディミトリくんが武器を持ち、立ち上がったとき、公国軍として組織された彼らは恐らく武器を交えることを躊躇うだろうと、クロードくんは見ている。



「グロンダーズで歴史的な勝利を収めたと言っても良い王国軍が、こんなところで屈しはしないさ」



 だから、彼にとっては本来賭けとも言えなかったのだろう。問題は、それが間に合うかどうかだ。
 同盟領の南部は、既に戦場になっている。前線は少しずつ下げられていて、間もなくグロスタールへと到達するらしい。
 帝国の進行方向からアレキサンドルが逸れているのは幸運だった。彼らも統治下に置く予定の地を、わざわざ蹂躙するような真似はしない。人道的な観点からというよりも、占領した後の復興の手間を考えてのことだとは思うけれど。だから民の避難が既に済んでいるグロスタールの街並みも、戦場にならない限りは大きく破壊されることはないだろう。ローレンツくんが過ごした街だから、なるべくそのままのグロスタールであってほしいと、私は願っていた。
 遙か遠く、ガルグ=マクの方角に目線を向ける。リーガンからガルグ=マクへの直線上には、ちょうどアレキサンドルがある。王国軍は救援要請に応えてくれるとしても、一度体勢を整えるために本来の拠点であるガルグ=マクに戻るはずだ。アレキサンドルを通過するだろう軍隊が、帝国軍ではなく王国軍であるだろうことには安堵した。
 でも、アレキサンドルに駐在しているグロスタール兵たちが、そのまま王国軍に同行してリーガンの救援に加わるとも限らない。そんなことを思いついて途端に落ち着かない気持ちになってしまう。
 先日届いたオーランドからの手紙には、アレキサンドルを守ると書いてあったけれど、帝国兵の行く先がリーガンでしかなければ、彼はグロスタール兵として武器を持ち、そのまま戦地であるデアドラへと赴くことも辞さないだろうから。
 私は勝手だけど、オーランドには危険な目に遭ってほしくなかった。あんな手紙を受け取ってしまったら、余計に。
 おしゃべりなソフィーと違って、オーランドはほとんど自分の話をしなかった。だから、彼が綴ってくれた気持ちは、彼と過ごした五年の日々と共にじわじわと私に染みこんでいったのだった。
 彼は私に死ぬなと言った。死ねばローレンツくんが悲しむと。
 死ぬ気なんかないと、直接会って話をしたかった。これは復讐心ではないと。いや、少しもそれがないとは、勿論言い切れないのだけど。私はやっぱり悲しいから。ローレンツくんがいなくなってしまったことで空いた身体の穴を、ちっとも埋められないままここにいる。
 オーランドと別れた大樹の節が、彼が私の部屋に来てくれたあの夜が、今、酷く遠い過去のことのように思えている。剣を振れば、そこに、まだ幼い面立ちをしたオーランドがいる。
 お母様や、ソフィー、ノエル、オーランド。クロードくんも、ヒルダちゃんも、ここにはいないマリアンヌちゃんも、お義父さまも、アレキサンドルの皆も、私にはまだ守りたいものがたくさんあるから、悔しいし、苦しいし、本当はつらいけど、やっぱり死ぬわけにはいかない。








 帝国軍はとうとうリーガンに到達し、その領地の奥地にあるデアドラの目前まで迫っていた。
 最後まで街に残っていたデアドラの市民は船に乗せ、海に逃がしてある。無人になった市街を眺めていると、五年前のガルグ=マクを思い出す。あの時は、私の隣にはまだ皆がいた。戻れるならば、戻りたい。そんなことは思うだけ無駄だと知っているけれど。
 私は今回の戦いでは、ジュディットさんの配下で戦うことになっていた。「期待しているからな」とクロードくんにじっと見つめられる。頷いて、その翡翠の瞳を見つめ返す。
 私は昔、クロードくんの目が好きだった。見透かすようなその双眸は、自信のないぐらぐらの自分を支えて貰うには丁度良い幹であるように思えた。
 あれはだけど、恋とは少し違ったのだ。あれは、憧憬だった。私は今ではきちんと、正しく、あの頃の自分が抱いていた感情に名前をつけている。
 クロードくんは、この戦いを最後に同盟と別れを告げる。どこか、きっと、遠いところに行く。私にだけ教えてくれたんだと思う。ヒルダちゃんは何も言わないから。一緒に行くかと、そう言ってくれたのも、このフォドラに私の居場所はないだろうと彼が判断したからに過ぎないのだろう。
 昔の私だったら、ついていったんだろうな。
 ジュディットさんと共に作戦の最終確認をするその横顔を、私は眺めている。浅黒い肌、暗い色の髪、背丈は変わらないのに、それでもあの頃よりも大人びて、だけど、笑顔だけは変わらなかった。気遣ってくれたことが嬉しかった。ローレンツくんが死んでしまったことの悲しみを、一緒に背負おうとしてくれた。それだけで、もう充分だ。
 私は皆が、ローレンツくんがいたフォドラから離れたくない。
 答えなんか、もうずっと決まっていて、だけど口にはできなかった。
 全てが終わって、無事に生き延びることができたら、だけど私はクロードくんに伝えよう。
 私は昔、クロードくんのことが好きだった。あなたの隣に立ちたいと思っていた。それを恋だと信じていた。そう思っていたあの日々が、今でもきらきらと輝いていることだけは、確かだった。
 あなたのおかげで、世界がほんの少しだけ眩しかったのだ、クロードくん。


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