王都フェルディアは、帝国から叙爵されたコルネリアの圧政に喘いでいた。
王都を占拠した公国軍を率いるコルネリアは、王国軍の到来に呼応して勃発した民衆による暴動を鎮圧することもせず、帝国より借り受けた全ての軍勢を王国軍の迎撃に差し向ける。
市街は戦場へと変わる。フェルディアは街というよりもほとんど要塞の様相を呈していたが、それは街全体から滲み出る生命の希薄さがそう思わせているのかもしれなかった。
重い税があったと聞く。少しでも抵抗しようものならば、すぐさま処刑されたとも。飢えて死ぬ民も多く、逃げ出しても運命は変わらなかった。血の臭いが染みついたその街は、短い月日の間に重く色を変えたのだろう。
なるべく建物に被害が及ばないようにしながら武器を振るうが、暴動を起こした市民にも容赦なくその刃を向ける公国軍を切るのに躊躇いはいらなかった。コルネリアが再編した軍は一枚岩とは言えず、中には我々と戦うのを躊躇う兵もいた。降伏する敵兵を、しかしディミトリはその槍で貫きはしない。中には油断を誘うための罠としてそういう手を使う兵もいたが、それには背を向けたままその槍で薙ぎ払い、躊躇なく肉塊にする。舞い散る血と肉の奥の、その背から滲み出ていたのは、最早憎悪というよりも、悲哀であるように思えた。
「……殿下は、何も昔に戻られたと言うわけではない」
ガルグ=マクにて、帝国領内から王都へと進軍先を変えるとディミトリが宣言したことを受けて吐き出された、ドゥドゥーの言葉を思い出す。
ディミトリは、昔からも、これまでも、ずっと変わっていなかったと彼は言った。王となるには優しすぎたのだと。弱者にも死者にも肩入れしすぎるディミトリは、ああやって心を閉ざすことでしか生きていけなかった。
ディミトリは斬首の前日にドゥドゥーにより救い出され、母国の兵を殺して武器を奪い、その命を繋げた。地獄の日々だったと彼は言う。民ごと王都を捨て去り、泥水を啜り、帝国将官を殺した。汚れた手の平を携えて、復讐のために生きると誓った。
しかし彼が「捨てた」と形容する王都は、彼を待っていたのだ。公国軍により命を奪われる寸前だった民達の歓喜の声は、ディミトリの背にも届いていただろう。
この国は長い抑圧から解き放たれようとしている。苛政により民衆を長く苦しめた仇敵を打ち倒し、民を先導して共にその日を迎えるのは、王である器を持ったお前ではなくてはならない。
コルネリアが用意した、奇怪な装置や兵器を残らず叩き壊す。この一つ一つが、フェルディアを、ファーガスを長く苦しめ続けたものの欠片であるはずだった。一体どういう技術であるのかは首を傾げる他ないが、今は休むわけにはいかない。馬の蹄の音に振り向けば、それは自分の真横で止まった。シルヴァンで間違いないだろう。
「先生、妙な兵器は全部破壊しましたよっと。次はどうします?」
「ご苦労だった。ではすぐにディミトリの援護に」
シルヴァンにそう指示を出したその瞬間、地鳴りかと思い違うほどの歓声が、うねりを持って響いた。武器を捨て、抱き合って喜びに泣く兵士たちのその中で、コルネリアの血で汚れた槍を抱えたディミトリが、その腕を大きく掲げている。
「あー」
シルヴァンのその声は、疲労に染まっているようにも、安堵で揺らいでいるようにも聞こえた。細められたその瞳が、眩しそうに彼を見る。感慨深げですらあった。
「終わったみたいですねぇ」
雲の切れ間から差し込んだ光が、まるで舞台上の演者を照らすように彼の頭上に落ちていた。
血を被り、復讐の怨念に取り憑かれたディミトリはもういない。
暗闇の中、沼に沈んでいたお前を引きずり上げるのには、きっと差し出された腕の一本でも欠けていれば叶わなかったのだろう。その腕の一つに、自分はなれていただろうか。
だがどうであろうと、お前が王としてその帰還を歓迎されたとき、声を震わせて民の歓迎を受けたお前を、自分はこの目で見ることができて良かった。
昏い目のまま俺に手を差し出した、六年前の、少年と青年のあわいにいたお前はもういない。
なあ、ソティス。少しは自分も教師らしくあれているだろうか。
答えはない。それでも耳の奥で、少女の笑い声は微かに響いている。
フェルディアの城内では、その夜、宴が開かれた。と言っても王都の奪還という大きな勝利から見れば、本当に細やかなものだ。それでも大勢で囲む食卓というのは、温かくて良い。
王都を放置して帝国へ向かうことをディミトリがほとんど独断で決めたとき、この軍の間には大きな亀裂が入ったように思えた。それでもこれは自己修復の結果なのだろう。気づかぬうちに姿の見えなくなったディミトリを探すアネットとメルセデスに彼の所在を尋ねられ、自分が探すと買って出た。
自分が眠っている間に世界は五年が過ぎていて、その間にフォドラは絶え間なく変遷し続けていた。処断される寸前でありながらもドゥドゥーに救い出され、血反吐を吐きながら生き続けたディミトリ。アッシュは仕えていたローベ家が帝国へと臣従を表明したことを受けて下野し、ドゥドゥーはディミトリを救ったときの傷の治療のため、そのほとんどを療養に充てていたと言う。他の皆にとっても、この五年は長く苦しいものだっただろう。まだ平和への道は半ばで、これから自分たちは帝国を打ち倒すために再び武器を持たねばならない。それでも、今このときだけはどうか、何の気兼ねもなく楽しんで欲しいと、そう思ったのだ。
城を出たとは言え、当てはなかった。
市街に行ったところでフェルディアに明るくない自分がディミトリを探し出せるはずもないと思っていたが、しかし春の夜風というには肌寒くすら感じられる空の下、ぼんやりと星々を見上げていた自分に「先生」と声をかけたのは、紛れもなくディミトリだった。
「まだ城では宴の最中だろう。もう飽きたのか?」
その瞳が穏やかに細められていることに、今でもほっとする瞬間がある。その安堵を悟られぬようにと思ったわけではないが、視線を夜空に戻した。もう春も終わるというのに、フェルディアの夜は随分と冷えるらしい。僅かに白んだ息が口から零れて夜に溶けていく。
「……そうだな。飽きたな」
「ふ、変わらないな。お前は」
ディミトリは、背が伸びた。元々小柄な部類ではなかったが、その身体についたのは筋肉だけではない。彼がまだ学生だった頃、そう変わらないとばかり思っていた目線が、今ではもう見上げなければ絡まないのが不思議だった。
「アネットたちが探していた」
そう呟けば、ディミトリが「ああ」と、息なのか、声なのか、その中間なのかほとんど判別がつかないような音をその口から漏らす。
「……墓参りに、行っていたんだ。長いこと、花も供えていなかったから」
誰の、とは、彼は言わない。それでもそれが理解出来ぬほど、自分は鈍くも愚かでもなかった。
「ずっと、怖くて行けなかった」
だがいつまでも彼らに背を向けたままではいられないと、ディミトリは言葉を重ねていく。
ディミトリの声は、そうして聞いていると、雪の降る夜のような静けさを持っているように思えた。彼が語る言葉達を、自分は、恐らく忘れてはいけないのだろう。
もしもあの日、先生と再会していなければ俺はきっと戦場で死んでいた、そう口にする彼の横顔をじっと眺める。妄執から解き放たれたその目は、どこまでも穏やかだ。
「――ありがとう、先生」
これから彼が選ぶ道は、どこへ続いているのだろう。そんなことを考える。
グロンダーズでの勝利はフォドラの情勢をはっきりと変えた。今回公国軍に勝利を収めたことで、これまで帝国に支配されかけていたファーガス国内も大きく動くだろう。諸侯の手を借りて、国内から帝国勢力を一掃することも可能になる。そうなった場合、帝国への戦いはさらに有利になるはずだ。
躊躇ってはいけない。帝国との共存が叶わないのならば、武器を持つほかないのだから。
勝利の余韻に浸るだけでなく、そろそろ帝国と戦うための準備をせねばと口にするディミトリは、やるべきことが山積みだと苦笑する。彼は既にエーデルガルトへの復讐の念を断ち切っていて、恐らく、もしも彼女に歩み寄れるならばそうすべきだと考え始めている。それはきっと、彼にとって既に捨てたものであった民衆が、彼を受け入れ出迎えてくれたからだ。
ディミトリは優しすぎる。そう言ったドゥドゥーの言葉が、こんな時にも脳裏を過ぎる。王としては、それは時に枷になる感情かもしれない。だが、自分はその清廉さが好きだ。敵であれど、全ての者に手を差し伸べようとするお前は、きっと王たるに相応しい。
「殿下、ここにおられましたか!」
だから、王国の兵士が血相を変えてディミトリを呼びに来たその時も、何かの予感を覚えながら思ったのだ。
「今し方、レスターの盟主から急使が。急ぎ王城にお戻りください!」
ディミトリはきっと、地獄の淵から這い上がり、目を覚ましても尚、己が抱えられるものは全てその腕に抱えてしまうだろう。これから先も、ずっと。
そして自分は、そんなお前を支えようと考えているのだ。
あの日グロンダーズで吠えた獣は死んだ。クロードは遠く離れたリーガンにいながら、それを察していたのだった。あれは末恐ろしい男だった、どこまでも。