いろんなものを大切に抱えていたはずだったのに、それらは私の知らないうちに少しずつ指の隙間からこぼれ落ちていたから、私は今この手の平にあるものだけでも抱え続けていたかった。



「ヒルダちゃん!」



 私が正面玄関へと向かったときには、クロードくんとヒルダちゃんは既にお屋敷の玄関ホールにいた。階段を駆け下りて、ぱっと目を見開いて私を見つめたヒルダちゃんが、「ちゃん」と言い終わる前にその身体に飛びつく。首筋に腕を回して、ほとんど体当たりのような形になってしまった私を、それでもヒルダちゃんはしっかりと受け止めてくれた。



「熱烈だな、良かったじゃないか。ヒルダ」

「愛されてるからねー。ねー、ちゃん」



 からかうように口にするクロードくんに、ヒルダちゃんがくすくすと笑っているのが分かるけれど、顔をあげただけでも涙が零れてしまいそうな気がして、どうにもならない。何とか頷けば、ヒルダちゃんは私の身体をぎゅうと抱きしめ返してくれた。



「久しぶりー、会いたかったよー」



 ヒルダちゃんからは甘くて、懐かしい匂いがする。彼女が学生時代の頃から使っている香水の香りだ。匂いの記憶っていうのは頭の中にあるものときちんと結びついているらしくて、私は彼女の温度を感じながら、ガルグ=マクでの日々のことを思い出していた。
 大樹の節、足の怪我から始まった一年だった。クロードくんと歩いた教室までの道、教室ではヒルダちゃんと並んで座った、食堂にはいつもラファエルくんの笑い声が響いていて、釣り池ではアロイスさんが難しい顔をして糸を垂らしている。厩舎で馬を撫でるマリアンヌちゃんの横顔、書庫で声をひそめながら女神様のお話を聞かせてくれたイグナーツくんの穏やかな笑顔、いつも夜に出会う、名前も教えてくれなかった、綺麗な顔をした男の子もいた。そういうものがぱちぱちと音をたてて、私の中に蘇っていく。目を閉じれば、ガルグ=マクはかつての美しさのままそこにある。
 レオニーちゃんが訓練場に引っ張っていってくれなければ、私はもっと弱いままだった。あそこにはフェリクスくんがいて、私は彼の獲物を見るような鋭い目つきがちょっとだけ怖かった。イングリットちゃんと話しているときの彼を見たとき、その恐怖はすっかり形を変えてしまったけれど。ハンネマン先生の授業が面白かった。仲良くなっても、ドロテアさんの醸し出す雰囲気に圧倒されていた。大聖堂でお祈りするメルセデスさんの後ろ姿が美しかった。上空警備にあたる騎士が乗った天馬の羽が、大聖堂の周囲に落ちているのを見るのが好きだった。
 そうして色んなことを思い返すとき、いつも私の周りにはローレンツくんの気配がある。
 四六時中一緒にいたわけではないし、むしろ避けたり、避けられていたときだってあったのに。彼はどんなときも不思議なほどに目を引いた。背が高いから。幼馴染みだから。声が良く通るから。噂の的だから。そういう風に私は思っていたけれど、実際はどうだったのか分からない。
 だけど、一年もの間一緒に居ることが許されていたならば、もっと彼の隣に居たら良かった。
 あんなにきらきらしていた日々は、これから先、もうきっとない。
 ヒルダちゃんが私の名前を呼んで、抱きしめ返してくれる、それだけで鼻の奥が痛んだ。



ちゃんにまた会えて嬉しいよー」

「私も、ヒルダちゃんに会いたかった、良かった。会えて良かった」



 ヒルダちゃんの首筋に顔を埋めると、彼女はくすぐったそうに身を捩った。



「こんなところで感動の再会も良いが、そろそろ移動しないか? 部屋を準備してあるんだ」

「えー、ありがとー。気が利くね、クロードくん」

「ま、俺のことは気にせず、二人でいくらでも喋っていろよ。積もる話もあるだろうしさ」



 あの頃あの教室に居たはずの私達は、もうこんなに頭の数を減らしている。私が今リーガンにいるのはほとんど奇跡で、だけど、その奇跡を起こしてくれた人は私を置いて死んでしまった。
 私は皆が傷ついている間もずっとグロスタールのお屋敷で膝を抱えていた。再会してもなおクロードくんに吐き出せなかった言葉は、私が抱え込んでいた後悔だ。
 ヒルダちゃん。言いかけた言葉は喉に詰まる。
 ローレンツくんが死んじゃった。
 今ここで言ったら、それはあまりにも独り善がりで、彼女を困らせてしまうのはわかりきっていたから、私は口を噤む。








「兄さんを説得するのに時間がかかっちゃってねー。本当は、グロンダーズの戦いが終わった後もリーガンに残るつもりだったんだけど、早馬を寄越されちゃってー」

「ホルスト将軍もヒルダちゃんが心配だったんだよ」

「それはわかるけどさー」



 向かい合って座るヒルダちゃんは本当に大人っぽくなった。頭から指先までお洒落なのはあの頃と変わらないけれど、記憶の中のヒルダちゃんよりも益々綺麗になっているから、こうして目を合わせているだけでどきどきしてしまう。そんな私を見透かすようにヒルダちゃんがじっとこちらを見つめるから、照れくさくてはにかんでしまった。だけど、何だか頬が引きつってしまったのだ。
 クロードくんは宣言通り、私達を客間の一室に案内するとすぐに部屋を出て行った。別に気を遣わなくていいのにとその時は思ったけれど、やっぱり、彼がいなくて良かったのかもしれない。クロードくんがいると、私は緊張してしまうみたいなのだ。自分の中の、彼に対する感情に名前をつけた後だったとしても。
 私が自分の気持ちに上手く整理をつけられていないことを、ヒルダちゃんは見抜いていたのだろうか。彼女は不意に手を伸ばし、机の上に乗せていた私のそれに指を絡める。薄い皮の手袋越しに伝わるその感触に、私は息が止まりそうになった。



「これ、まだしてくれてるんだー。あたしが作ったやつだよねー?」



 手首まである革手袋の下のそれは、普段は服の袖で隠れているけれど、彼女の位置からは見えたらしい。ヒルダちゃんが、私に作ってくれた腕輪だ。たくさんの色の小さな石がついていて、光に反射させるときらきらして可愛いから、ずっとつけていた。



「うん、ヒルダちゃんがくれたお守り、あれからずっとつけてるよ。へへ、本当に守られちゃった。今も生きてるもん」



 何の他意もない言葉だったのに、その時ヒルダちゃんが、僅かに息を飲んだのが分かった。
 彼女の方に目線をやれば、ヒルダちゃんはその形の良い眉を下げている。こんな顔を、彼女はガルグ=マクでも良く見せていた。他人を気遣うときに見せる表情だ。浮かべていた微笑の行き場がなくて、頬の筋肉が変に引きつる。だから、どうしようと思う。これ以上私は、醜態を晒したくなかった。誰かに本音を吐き出せば止まらなくなると知っていたから。



ちゃん」



 ヒルダちゃんが私の手の甲を撫でた。



「……大変なときに傍にいてあげられなくて、ごめんね」



 大変なときって、でも、どれのことを言うんだろう。
 お兄様が帝国兵に殺されたときだろうか。アレキサンドルが帝国に接収されかけたときだろうか。私とローレンツくんがほとんど政略上での結婚に至ったときか。或いは。
 ローレンツくんを失った孤月の節か。それを認めた大樹の節か。
 言葉になんかしてないのに、ヒルダちゃんは「ずっと、ずっとだよー」と答えるように言うから、どうしようもなく喉の奥が痛くなる。



「飛んで行けたら良かった、何にも力になれなくて、ごめん。一番大変だったの、ちゃんだと思う」

「……そんなことない」

「もしもお隣の領地だったら、内戦なんかしてなかったら、絶対あたしが守ったのに。悲しいときも大変なときも、あたしが傍にいたのに」



 ぎゅうと、握られた手に力がこめられる。
 でも、ヒルダちゃん、大変なことばかりじゃなかったんだよ。お兄様の傍にいられた数節、私は夢を見ていられた。お兄様と一緒にアレキサンドルを守り、盛り立てるという夢を。
 それがアレキサンドルごと全部奪われそうになったとき、それでも助けに来てくれた人がいた。ローレンツくんが救ってくれた。王子様みたいだったんだよ、信じてくれる?
 戦争が何もかもを奪っていったけれど、ドロテアさんが連れてきたオーランドやノエル、ソフィーたちとは、そうでなければきっと一生会えなかった。ソフィーはもうぬいぐるみに自分で洋服を作ってあげられるくらい器用になったし、読書家のノエルはびっくりするくらい難しい話を聞かせてくれる。オーランドなんか、もう槍の扱いだったら私よりも上手になって、グロスタールの兵隊さんになったの。ほんとに、子供の成長ってすごくて、あの子達に寄り添えたことが、私にとっては救いだった。あの子達がいなかったら、私はきっと、もっと帝国を恨んで、ローレンツくんの言うことなんか聞かずに戦場に赴いたと思う。そうして多分、呆気なく命を落としていた。私が今の私でいられるのは、こうしてヒルダちゃんとまた会えているのは、本当に奇跡みたいで、だから。
 全部ローレンツくんがあのときの私を、アレキサンドルを守ってくれたから。
 ぼろりと涙が零れた。それを自覚した瞬間、決壊したように両の目から熱いものが止めどなく溢れる。拭おうにも、私の手は今ヒルダちゃんに包み込まれて、動かせない。
 ヒルダちゃんに聞いてほしいことがたくさんあった。ずっとずっと会いたかった。いっぱい話を聞いてほしかった。私の一番のお友達。心細くてたまらなかった。今でもそうだ。
 ヒルダちゃん、私、ローレンツくんが、本当は私のことを好きじゃないのに、婚約してくれたんだと思っていたの。同盟を守るための苦渋の選択だって。だからずっと、遠慮していた。もっと我儘を言ったら良かった。不安だと口にしていたら良かった。もうちょっとアレキサンドルに来てほしいって。それか、私がグロスタールに行っても良いかって聞いてみたら良かった。断られるのが怖かった。いつか解消される婚約だと思っていたから、その日が来て、ローレンツくんが誰か別の女の人と歩いているところを想像するだけで泣きそうだった。自分の領地の一つも守れなかった私は貴族に相応しくなくて、ローレンツくんには釣り合わない。そう思っていたのに、私はローレンツくんがいなくなってしまった今になって、彼の真意を知らされた。
 ぼろぼろに泣いていたから、視界が歪んで、ほとんどなにも見えなかった。なのに、ヒルダちゃんの影が私に近づいたことは分かる。身を乗り出したヒルダちゃんは、机越しに私を抱きしめた。子供にするように、胸に抱き寄せてくれた。
 こんなことヒルダちゃんに言ったって仕方ないのに、私はそれでも、泣きじゃくりながら口にしてしまう。誰にも言えなかった。言ったら自分がだめになるってわかっていた。でも、黙っていても、だめになるみたいだ。ヒルダちゃん、私。私ね。吸った息が、喉に張り付く。



「……ローレンツくんに会いたい」



 後を追えば会えるだろうかなんて、そんなことを考えなかったわけじゃない。
 だけど多分、そういうことをしたらきっとお星様になったローレンツくんは私を怒って、今度こそ縁を切るって言い出しそうだから。だから私はせめてクロードくんと、ヒルダちゃんと、最後まで戦うという選択をしたのだ。
 私の言葉に、ヒルダちゃんは、うん、うんと頷いてくれた。背中を撫でてくれた。私が泣き止むのを、いつまでも待っていてくれた。
 今はただ、ヒルダちゃんの温度だけが優しかった。








 帝国の摂政であるアランデル公フォルクハルトが率いた軍勢が同盟領内への進軍を始めたのは、春の終わりのことだった。


prev list next