グロンダーズでの敗戦を受けて、ヒルダちゃんは一度ゴネリル領に戻っていたらしい。
ヒルダちゃん自身はグロンダーズにおいて怪我を負うことはなかったのだけれど、この戦いに身を投じ続けるにはお兄様であるホルスト将軍を説得する必要があったのだと言う。王国軍との共闘がならず予想を裏切る形での敗戦だったから、彼女を溺愛するホルスト将軍の心配も理解できる。果たして竪琴の節の終わり、同盟領最後の円卓会議が終わってそれぞれの諸侯が領地へ戻るのと入れ違いで、彼女はリーガンにやって来ることになっていた。
その日、ホルスト将軍の説得に成功したヒルダちゃんがリーガンに到着することは予めクロードくんから聞かされていた。そのため朝からどうしても落ち着かず、お屋敷の中を行ったり来たり彷徨ってしまう。そんな状態で朝から何度も廊下ですれ違うものだから、四回目か五回目に出くわした時、とうとうクロードくんは笑った。
「そんなにそわそわしたって、ヒルダの馬車に羽が生えるわけじゃないぞ」
「わ、わかってるよ。でも会えると思ったら落ち着かないの、どうしよう」
「ま、五年ぶりだもんなあ」
浮つくのもわかるよ、と笑いを噛み殺しながら呟いたクロードくんは、私を手招くと、私が使わせてもらっていた客間とは別の部屋に案内してくれた。建物の正面に面したその部屋の窓から顔を出せば、丁度やって来た来客の姿を確認することが出来るらしい。「ここで待ってれば良いさ」と悪戯っぽく微笑んだクロードくんのその表情が、何だか昔と全く変わっていないように思えて、私も笑ってしまった。
そうしていると、一緒に行くかと言われたときのことがまるで夢であるかのように思えてしまう。
クロードくんは、あの件に関して改めて口にすることをしなかった。リーガンのお屋敷ですれ違っても、ガルグ=マクに居たときのように飄々とした雰囲気で私に声をかけるだけだ。彼はそうしていると、レスター諸侯同盟領の盟主というよりは、ヒルシュクラッセの級長のクロードくんであるように思えるのだった。少なくとも私には。
「じゃ、またあとでな。」
そう笑って手をひらりと振る彼は、私の足を気遣って、教室までの道のりを他愛もない話をしながら歩いていたあの日々の彼とそう変わらないように思えるのに、ひとたび私から離れると、酷く大人びた顔をする。私はそれを、私の知らないクロードくんだと思う。五年の月日がそう思わせるのだろうかと考えるけれど、そもそも私が知っているクロードくんは、彼の人生の中の一年という、あまりにも短い期間だけだった。
私はクロードくんのことをほとんど何も知らない。日焼けをしたというよりも、生来のもののように思える浅黒い肌と、彫りの深い顔立ちをした人。睫毛が長くて、宝石のように美しい瞳をしていること。リーガンの紋章を持つ彼がその血を継いでいることは確かであるはずだけど、それまで存在が秘匿されていたのか、全く別のどこかにいた落胤なのかも聞かされていない。彼には秘密ごとばかりだ。
節ごとの課題が終わる度に宴会を提案するくらいに、皆で騒ぐことが好きな人だった。だけど、自分が中心になって騒ぐことと同じくらい、皆が笑っている顔を輪っかの外側から見ていることも好きだったんだと思う。その日の課題の内容を振り返って議論したり、褒め合ったりしている皆の顔を見ているクロードくんの、楽しげな横顔を見ることが、私は好きだった。その頬に添えられた、ごつごつとした指の形が好きだった。私の目線に気づかないふりをする人だと知っていた。分かっていたけれど、一方的に恋をしていた。あれは信奉が変形しただけだった。今ならそう言える。
窓際の椅子に座って紅茶を飲む。この五年の間で、お茶を美味しく淹れることは私の数少ない特技の一つになってしまっていた。リーガンのそれがグロスタールのお屋敷にあるものよりはずっと凡庸な茶器であるのは、当主の趣味や価値観、熱意の差でもあるのだろう。それが悪いことだとは言わないけれど、こうしてその差が露わになると、私はどうしてもグロスタールのことを思い出してしまう。
円卓会議を終えてグロスタールに帰るお義父さまにリーガンに残ると告げたとき、お義父さまはその理由を問いただすようなことはしなかった。
「そうか」
お義父さまはローレンツくんに良く似た切れ長の目を細めて、ローレンツくんよりも低く掠れたその声で、深く頷かれたのだった。
私は、自分がずっとお義父さまに良く思われていないのだと思っていた。大勢につくアレキサンドルの娘で、紋章も持たない私は、かつてローレンツくんが言っていた通りグロスタールには釣り合わない。領主であった兄が亡くなり、私がその領地や領民を背負うことになってようやく婚姻を認めてくれたのだと思っていたし、それだって、同盟領の危機という事情がなければ受け入れがたいことだったと思う。ご挨拶に向かえどほとんど目を見てもらったこともなく、こうしてローレンツくんを失って、ようやくその懐に入れてもらえた。少なくとも私はそう思っていた。
だけど、違ったのかもしれない。お義父さまはもうずっと前から私を認めてくださっていたのかもしれない。ローレンツくんと同じで、気難しい人だったから、それを表に出さなかっただけで。
お義父さまは私の両肩に手を置くと、数拍の間を置いて、それから「どうか」と言ったのだった。
「どうか、死なないで欲しい。君はもう、幸せになるべきだ」
泣いたら、お義父さまを困らせてしまう。
限界まで目を見開いて、拳を握りしめて耐えた。円卓会議での決議を終えた以上、お義父さまはこのリーガンに私が残ることがどういう意味であるかを知っている。
「……お義父さまも」
息災をお祈りします、そう続けた私に、お義父さまははっきりと唇を噛みしめたのだった。「ひとときでも義父と呼んでもらえて、嬉しかったよ」って、掠れる声で口にして。
グロスタールは、コーデリアと共に親帝国派であった領民の避難を進めなくてはならない。迫り来る帝国軍に巻き込まれることがないように、その進行方向に重なることが予測される地に住まう民たちを遠ざけるのだ。
アレキサンドルにはグロスタールの兵が今も、僅かながらも駐在している。オーランドのような若い騎士が中心であるけれど、リーガンへの直線上からは外れているためそちらに侵攻が及ぶ可能性は少ないようだ。
とは言え土地の狭さを考慮すれば、疎開する民の全てをアレキサンドルで受け入れるわけにはいかない。移動距離はあるが、リーガンの北東部にあるエドマンド家が受け入れを快諾してくれたのは心強かった。兵力をほとんど持たない新興貴族のエドマンドはしかし財力はあるから、縁の下の力持ちとして問題事を引き受けてくれる。お義父さまも、エドマンド辺境伯のことは信頼しているらしい。
エドマンド家と言えばその養女のマリアンヌちゃんが思い起こされるけれど、彼女はグロンダーズにおいて戦場に出ることをしなかった。心優しい女の子だったから、人が傷つく姿を見るのを嫌ったのかもしれない。今回のリーガンでの防衛作戦に加わることもないようだけど、かつて親帝国派であった同盟領の南部に住まう避難民を受け入れるには準備も必要で、エドマンド辺境伯は細やかな気遣いの出来る彼女の力を必要としているらしい。
「マリアンヌがそういう方面で力を貸してくれるのは、心強いよ」
会議の内容を話して聞かせてくれたクロードくんの、伏し目がちの瞳を思い出す。
どんな手段を使っても、最後くらい勝ってやらないと。
クロードくんは、あの日確かにそう言った。
クロードくんは、円卓会議での決議が全て済んだ後、王国軍に使いをやった。ガルグ=マクではなく、彼らが今まさに攻め入ろうとしている王都へと向けて。
「ここまで兵力を失った今、王都を奪取したあいつらの兵を借りるしかない」
「借りることができなかったら……?」
「その前に王都を落とせるかどうかが問題だな。つまり、これは二重の賭けなんだよ、」
言葉に詰まった私に、クロードくんはその双眸を細める。
「ディミトリ達が王都を落とすこと。それから俺の策に乗ってくれること。この二つが叶わなければ、同盟は終わりだな」
「お、おわりって」
そんな簡単に言うのかと、初めて非難めいた口調になってしまったことを自覚する。クロードくんはその時、楽しげに声を出して笑った。
「まあ、そう簡単に終わらせやしないさ」
根拠もないはずなのに、彼の言葉はどうしてこんなに力強く響くのだろう。私はいつも、その声に慰められている。もうずっと前から。
二階から部屋の外を眺めながら、やって来る馬車に一喜一憂してどれほどの時間が経ったか、お昼を過ぎた頃、ゴネリルの家紋の入った馬車は果たしてリーガンのお屋敷の前に止まる。今日彼女と会えることは分かっていたのに、私はそれでもその瞬間、身体の奥から熱がこみ上げてくるのを実感していた。
来客を出迎えるため、クロードくんが姿を現した。従者によって馬車の扉が開かれる。その靴の爪先に見覚えなんかあるはずないのに、私はそれがヒルダちゃんのものだと瞬時に察する。
春に咲く花の色をした長い髪を、彼女は頭のてっぺんでまとめていた。大人っぽくなったけれど、面影ははっきりとあった。
「ヒルダちゃん」
部屋の中で呟いた声が、じんわりと滲んでいることを察する。彼女と談笑していたクロードくんが、そこから私のいる部屋の窓を指さした。ヒルダちゃんと目が合ったように思う。
「ちゃんを守ってくれますようにー」
ガルグ=マクの最後の日に、彼女が私に向けて呟いていてくれた言葉が蘇って、私は自分が今、どうにもならないくらいに泣いてしまっているのだと知った。
直接会う前で良かった。ヒルダちゃんがやって来る前に、どうにか涙を止めなければ。だけど思いとは裏腹に、私はそのまま部屋を飛び出していた。
階段を駆け下りて、正面玄関へと向かう。私がヒルダちゃんに抱きついて、大きな声をあげて泣くまで、きっともうそんなに時間はかからない。