グロスタール伯の馬車からが降りてきたときは、正直言うと驚いた。まさかここで会えるとは思ってもみなかったのだ。ローレンツを失ったとは言え曲がりなりにもあいつの婚約者だったが、義父であるグロスタール伯と行動を共にしていてもそこまでおかしいことではないはずなのに。
 今のは、難しい立場にいるとは思う。アレキサンドルは五年前の当主の暗殺事件を機に、婚約という形を経てグロスタールに吸収されていたものの、結局は結婚に至ることのないままローレンツが死んでしまった。本来ならばは領地や領民はそのままに放り出されてもおかしくない状況だが、グロスタール伯にも情はあるのだろう。
 子息を失ってそれまでの勢いは急に萎み、先の会議においてもこれまでのように俺に突っかかることは一切なかった。意見を求めても「君に従おう」としか言わないグロスタール伯に何だか肩すかしを食っちまったような気分になったが、おかげで数日はかかると思っていた話し合いがあっという間に片付いたことは助かった。
 あの雰囲気ならば、が望むのであればアレキサンドルをあっさり元の形に戻すことに同意してくれるようにも思うが。
 机に肘をつき、向かいに座るを見れば、彼女は黒い革手袋に覆われた両手を膝の上で握りしめて分かりやすく緊張している。浮かんでしまった笑いは手の甲を押し当てて誤魔化した。は昔から、俺の前でだけがちがちに硬くなる。馬車から降りたときのように、他に大勢人間がいるところだったりする分には構わないらしいが、こうして二人きりになるとあからさまにその表情が強ばるのだ。取って食うつもりなんかないのに。
 には後で部屋に行くとは伝えていたが、まさか俺がそのまま入り込むとは思わなかったのだろう。俺だってできることならその辺をぶらぶら歩きながら再会を喜びたいところだが、今はどこに間者がいるかも分からない。
 人を払ったせいか、の震える手が茶器を置くその音すらも、殊更に大きく響いた。萎縮したように目を泳がせるに、小さく笑う。



「……いや、しかし元気そうで何よりだよ。もう会えないもんだとばかり思っていたからな」

「えっ、そ、そんなこと……ああそうだ、この前のお手紙、お返事できないままでごめんなさい、ヒルダちゃんにも」

「俺もヒルダも気にしちゃいないさ」



 じ、との目を見つめる。丸く、大きな瞳だ。睫毛で縁取られたそれは落ち着かないように瞬きを繰り返すが、それでも俺を見つめ返してくれる。
 リシテアのように背が伸びたわけでもなければ、イグナーツのように大人びたわけでもなく、髪が伸びたと言ってもレオニーのやつほど雰囲気が変わったわけではない。まだ少女の面影を残したを見ていると、本当にそれだけの時間が過ぎ去ったのか首を傾げたくなってしまう。
 それでも間違いなくの周辺ではいろんなことが起きた。ガルグ=マクから落ち延びた数節後に兄を失い、領地や領民はグロスタールに吸収され、自身は感情の折り合いをつける前にローレンツとの婚約を果たさねばならなかった。兄の命を帝国軍に奪われながらも親帝国派の一員として俺達と対立し、挙げ句ローレンツを王国軍に殺されてしまえば、もう立ち上がれなくなったとしてもおかしくない。
 けれど、は俺の前に現れた。恐らく自分の意思で。閉じこもることも放り投げることも、諦めることもせず。







 呼びかけた名前にその首が小さく傾げられる。お前が大変なとき何もしてはやれなかった俺に言われたところで、お前が救われることはないだろうけれど、それでも今は労ってやりたかった。



「……大変だったな」



 の丸い目が、益々大きく見開かれる。
 彼女のこの五年間が、「大変だったな」のそんな一言で収まって良いはずがない。俺はそれを知っているし、同情もしている。何か一つでも間違えていたらを取り巻いていたものは何一つ彼女の手からこぼれ落ちることはなかっただろうし、それによってが傷つくこともなかった。だがそんな仮定の話をしても、何の意味もない。
 はどれくらい黙っていたか、けれど最後には小さく首を振った。



「――ローレンツくんがいてくれたから」



 目線を机の上に落として薄く微笑んだの眉尻は、微かに下がっている。
 ローレンツの名を口に出すその瞬間、その声音は酷く丸く、柔らかいものに形を変えた。こんな風に人の名を呼ぶ人間を、俺は生まれて初めて見た。
 どうしてか頬を張られたような気になった。そうしてまじまじと眺めてみると、やはりその顔つきというよりも、表情に、明らかな差異があるように思えるのだった。俺達が離れていた年月分、は大人にならざるを得なかったのだろう。本人の意思を置き去りにして。



「…………ローレンツのことは、本当に」



 思わず口にしてしまったが、どう続けるべきだったのだろうか。弔いの言葉は、既に幾度となく吐き出した。言葉に詰まった俺に気がついたは、僅かに眦を細める。
 俺は、ローレンツの死の間接的な原因は自分にあると思っている。もっと上手くやれたはずだった。最後の最後に読み切れなかった。ローレンツが俺のやり方を好ましくは思わないだろうことは分かっていたのに。はそれでも首を振る。



「立派な最期だった、と思うよ」



 ローレンツくんのことだから、きっと。そう続けたは俺を責めたりはしなかった。淡々と事実を飲み込んで、恐らく、もうローレンツの死について何かを感じること自体をやめようとしている。その瞳は乾いていた。もう俺のために顔をあげることを、彼女はしない。
 俺の読みが甘かったのは、ローレンツに対してだけではない。
 王国軍は、グロンダーズで崩れると思っていた。ディミトリたちがミルディン大橋を制圧したその後、グロンダーズで王国と同盟が手を組み帝国軍を倒すという未来を俺は描いていたが、王都を奪われ補給の難しくなっている王国軍にはそこまでが限界だろうと踏んでいた。
 王都を取り戻す気のない王国軍は、どのみちいずれ瓦解する。グロンダーズにおいて帝国軍、王国軍の双方が戦力を削り合い崩れたところを、これまで内戦を演じながら蓄えた兵力をもって、俺達同盟がかっ攫う。そういうつもりでいたから、王国との共闘が叶わないことを察したとき、もっと早くに王国軍の士気の異様なまでの高さを感じ取って前線から離れるべきだった。ディミトリの妄執を、それが引き起こすであろう可能性を策に組み込むべきだった。帝国軍の動きにもっと慎重になるべきだった。王国軍の勢いと帝国軍の策に飲まれた俺達は、一番手酷い打撃を受けてしまったのだ。何もかも、俺の判断が甘かったせいだ。
 もしもローレンツがあの戦場にいたのなら、あいつはきっと俺に躊躇なく助言したはずだ。あいつは全体を俯瞰するのは下手だったし、直情的に動くことはあったが、なんだかんだ言って、俺の気づかないところを指摘する細やかさは備わっていたから。
 生きていて欲しかった。今でもそう思う。いや、今だからこその間違いかもしれないが。
 口を噤んだ俺に、は労るように言葉を紡ぐ。



「クロードくんたちも、グロンダーズでは大変だったみたいだね。……でも、同盟も内戦状態から脱することはできたし、これからまた……」



 具体的にどれだけの損害が出たか、俺の采配でどれだけの仲間が死んでいったか、きっとはまだ知らない。
 俺はお前達が思うほどできた人間じゃないんだよ。そんなことを言いかけて、だが、飲み込む。
 野望があったんだ、世界の壁を取っ払うっていう、夢が。
 俺はそのために動いていただけだ。だけどどうしても肩が凝るときがある。同盟、フォドラ、野望を見据えるならばこんなところで躓いているわけにはいかないってのに、上手くいかないものだ。
 先の戦いで、リシテアが最期の力を振り絞って薄皮だけを再生させてくれた傷は未だにじくじくとした痛みを持って、俺を責めている。時折、それが煩わしくてたまらない。
 こんな俺の本心を知ったら、きっとお前は幻滅するさ。



「……は、アレキサンドルをどうするんだ?」

「へっ?」



 思いもよらない質問だったのだろう。は上擦った声をあげて俺を見つめる。一瞬視線を天井の方に彷徨わせ、それから思考を整理するように下唇を軽く噛みしめたは、やがて「アレキサンドルはこのままグロスタールに従属する、つもりです」と、はっきりと口にしたのだった。無責任さとは対岸にあるように思える、強い瞳で。



「……だが今のグロスタール伯だったら、きっとアレキサンドルを支配から解放してくれるぞ。なんなら俺が口添えをしてやっても良い」

「気持ちは有り難いけど……支配とか解放とか、そういうんじゃないの。私が統治したところで、民に今以上の暮らしは保証してあげられないし。アレキサンドルの領民にとっては、今の形が良いんだよ。私達は自分の身を守ることもできないから、グロスタールに統合してもらうことで身の安全を保証してもらえることが大きかった。実際、内戦中だって兵を置いてもらえたことで皆が安心して作物を作り続けられたの。グロスタールも安定した食糧供給を得られるから、お互いに利点しかなくて」

「じゃあお前はどうするんだ、



 遮るように言葉を重ねたその瞬間、は驚いたように目を見開いて、言葉に詰まった。



「領民はそれでいいだろうさ。グロスタールだって土地も民も税も増えて言うことはない。だが、お前はどうするんだ? ローレンツを失ったお前に居場所はあるのか?」



 先程グロスタール伯から、はローレンツの死を受けて以降グロスタールに留まっていると聞いた。もしもこの会議での決定事項を聞けば、彼女はリーガンに残ると言い出すかもしれないとも。
 に統治能力の一切がないことは知っている。元々第二子である彼女は相応の教育を受けていなかったし、むしろ他家に嫁いで夫を支えることでの能力は発揮されると思う。だから、ローレンツとの婚約は理に適っていたはずだった。あいつが死にさえしなければ、グロスタールもアレキサンドルも安泰だっただろう。例え同盟領が消えてなくなったとしても。



「グロンダーズでどれほどの兵が死んでいったか分かるか、



 その時の目がはっきりと揺らいだ。俺の言わんとすることを察したのかもしれない。覚悟を決める時間をやることは、それでも出来なかった。



「……イグナーツ、ラファエル、レオニー。それからリシテア。俺はあいつらを救ってやれなかった」



 見開かれた瞳は瞬きもせずに俺を見つめている。ほとんど射貫くような鋭さをもって。いや、この鋭さは、感情の発露によるものだ。は今、絶望している。半開きになった唇から「え」と喘ぐような呼吸が漏れた。やがてそれが悲鳴になりかけた瞬間、はその手で自分の口を押さえる。言葉はなくとも、その目が嘘だと言っている。



「リシテアは、コーデリアに連れて帰って、埋葬してやれた。だがイグナーツ達の遺体は……グロンダーズだろうな。王国軍が埋葬してくれていると信じるほかない」



 勿論死んだのはあいつらだけじゃない。俺が選択を誤った結果、失われた命の数は計り知れない。例え王国軍との共闘が実現できずとも、勝算がないわけではないと思った。人生最大の失策だったよ。そう笑い飛ばせるはずもない。
 あの戦を機に、王国軍内部でも大きな動きがあったらしい。改めて潜り込ませた密偵からの情報によると、ディミトリ達は方針を変え、王都フェルディアへ向けて進軍する準備を始めていると聞く。恐らく今節の終わりにはフェルディア奪還のための作戦が実行されるだろう。その間ミルディン大橋はセイロス騎士団が任されていると聞くが、帝国軍がこれに乗じて同盟内に軍を寄越すことは想像に難くない。
 言葉もなく、その瞳を歪ませるに、これ以上は手詰まりだなどと言うべきではないのかもしれない。
 ディミトリが王都に兵を向けたなら、俺は、それがあいつが目を覚ましたことの証左であるように思うのだ。あいつの傍には仲間が居る、先生がいる、ならばきっと王都は奪還されるだろう。あいつが己の復讐心で焼き切れるその前に、先生たちはきっとディミトリを正気に戻した。彼は王都で歓迎される。苛政に喘いでいた民はディミトリの凱旋を出迎える。ならば、俺はもう、それでいいと思うんだ。
 だって俺はここでいろんなもんをなくしてしまった。あの頃教室にいた仲間達を失い、この背の傷は、未だ癒えない。力が足りなかった。そしてもう、巻き返すには何もかも遅すぎる。



「俺はディミトリ達にフォドラを託す」



 はその両目を涙で滲ませながら、俺の目をそれでもじっと見た。
 無責任だと責めてくれりゃあいいものを、は顔を歪めたまま、何も言わない。彼女の右足には、今も消えない傷痕があって、けれど、あれが出会ったばかりの俺達を繋いだんだと俺は思っている。
 あの頃お前が俺を好きでいてくれたのは知っていた。
 分かりやすいお前のことを、俺は嫌いではなかった。
 だけど俺は、お前のことをそういう意味では好きだとは言えないんだろうな。ただそれでも、そこから離れたところでもお前が幸せになりゃあいいなとは思うんだ。
 それが、あいつが、ローレンツが一番望んだことだと思う。俺は、あいつにそれを託されたと勝手に思っているんだ。だから、この言葉を吐くのだ。



「――責任を取るにはどうすべきか考えたんだ」



 俺の言葉にが息を飲む。
 俺はフォドラを出るよ、。行き先はまだ告げられないが。



も俺と一緒に来るか?」



 少なくとも、その時はもう少しお前もまともに息ができるだろうさ。
 充分苦しんだお前がもっと広い空の下で生きたって、もう誰も文句を言いやしないだろ。
 は呼吸も忘れて俺を見つめている。彼女のはめた革手袋に刻まれた皺は、深い。


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