1186年 竪琴の節
クロードくんはグロンダーズで敗戦を喫したらしい。
お義父さまからそれを教えていただいたとき、あまりの現実味のなさにこっそり舌を噛んでみたけれど、その痛みはしっかりと夢ではないことを私に伝えるだけだった。
前節、帝国軍、王国軍、同盟軍はグロンダーズ平原において激しくぶつかりあい、同盟軍は多くの被害を出し撤退。帝国軍はエーデルガルトさんが負傷し前線を退き、辛勝を収めた王国軍もまた兵を整えるためにガルグ=マクへと帰還した。上辺だけ見ればそれは痛み分けのようにも思えるけれど、最も多くの将兵を失ったのは同盟軍だったと言う。
元々同盟軍は王国軍と手を組むつもりでいた。けれど、いくらガルグ=マクに使者を送っても返事はなく、とうとうその日を迎える。グロンダーズの荒涼とした大地の上、三つ巴の乱戦である以上戦場で連携を組むのは最早味方同士であってすら難しい状況で、さらにそれを危惧した帝国軍の攪乱により戦場は敵も味方も分からなかったという。仲間を殺さないようにすることだけで精一杯だったと、どうにか生き残り、領地に戻ってきたグロスタール兵が話していた。その話を聞きながら、私はオーランドがアレキサンドルに残っていたことに安堵してしまう。たくさんの命が奪われ、そしてそこには私の知る人だっていたかもしれないのに。それでもそういうことに縋っていなければ、立っていられる気がしなかった。
「グロンダーズでの敗戦を受けて、数日後にリーガンで円卓会議が開かれることになったよ」
お義父さまが私にそう仰られたとき、私はほとんど目を丸くしていたと思う。
「……盟主殿が一体何を考えておられるのかは知らぬが、良い話ではないだろうな」
それは、例えば。ほとんど口をついて出かけた問いの言葉を飲み込んだ。最悪の事態は、この同盟領に住まう誰もが考えていることだと知っているから。
いくら王国軍が日の出の勢いを見せているからと言え、帝国軍との兵力差は圧倒的だ。ひたに敵国への進軍を繰り返す一方で、未だ王都フェルディアは公国軍に占領されたまま、王都の民は日々喘ぎながら生きていると言う。民を思いやることをしない彼らは最早ここまでの戦いで兵糧も兵も尽きかけていると見て良いし、ならばグロンダーズより南に侵攻することは現実的とは言い難い。そもそも帝都の手前には頑固な老将軍の異名を持つメリセウス要塞がある。あの巨大な要塞を突破するには相応の戦力がなければまず難しいだろう。もしも同盟と手を組んでいたら、それはひょっとしたら、可能だったのかもしれないけれど。
そうしたら王国軍だってグロンダーズにおいてそこまで損耗することはなかっただろう。勿論私自身は複雑な思いにはなっただろうけれど。それでもこうして同盟軍が敗戦の憂き目に遭い、あまりにも手痛い損害を被ることになるのなら、例え私がそれを素直に飲み下せなかったとしても、共に手を取り、戦うべきだったのだと思う。「お義父さま」膝の上で握りしめた手の平は、下衣に皺を作る。
「リーガンへ向かうのならば、私も連れて行ってはくださいませんか」
ローレンツくんの死の報せを受けて私がグロスタールにやって来てから、既に一節が経っていた。
彼の遺体は王国軍によって、ミルディン大橋の北部、アミッド大河に臨む小高い丘の上に手厚く葬られたらしく、グロスタールに戻ってくることはなかったけれど、それでも葬儀は執り行われた。
グロスタール家の人間の葬儀とは思えぬほどの簡素な式だったのは、戦時中であるせいだ。弔問客よりも飾られた花の方が多かった。空の棺を前に、私たちは手を合わせた。
私は短くはない日々をここで過ごして、彼の話してくれた朝露に濡れる薔薇の美しさをもう知っている。ローレンツくんの字が整っていることも、詩の才能があることも。私が彼を愛していたことも。
彼の眠らぬ墓に手を合わせる日々から、しかし、私はもう離れなければならない。
同盟が変わろうとしているならば、私はいつまでも蹲ってはいられない。
前へ進まねばならなかった。
水の都と称されるデアドラは、リーガン領の北部に位置する大きな都市だ。港があり、船も多く行き交うそこは普段ならばもっと活気があるはずなのに、以前訪れたときと比べれば商人の数も疎らであるように思えた。グロンダーズの敗戦の影響が濃いためであることは疑いようがない。恐らく商人たちは同盟領の最北であるエドマンド領付近に移動したのだろう。万一のために。
円卓会議が行われるリーガンのお屋敷に馬車をつけてもらう直前、皮の手袋をはめ直す。向かいに座られているお義父さまは、私の手元を言葉もなく見つめていらっしゃった。
お義父さまは私の意思を汲んで、こうして同行を許してくださったけれど、本当は私に屋敷に残るか、或いはいっそアレキサンドルへ戻ってほしかったのだと思う。お義父さまは、円卓会議の結果如何によって、私がこのままリーガンに残る気でいることを察している。
馬車が完全に止まり、外から扉が開けられる。海の近いリーガンは潮の匂いがする。お義父さまの後に続いて馬車から降りたとき、髪を強く靡かせるほどの風が吹いた。海に近いせいで海風を遮るものがあまりないから、時折こうして風を思い切り受けてしまうのだ。ほとんど切ることもないままに伸ばし続けていた長い髪は私の視界をあっという間に覆うから、慌てて手で押さえる。そうして顔をあげたその時「?」と、聞き覚えのある声を耳にした。
いや、本当は私が馬車を降りた時から、その声は聞こえていた。お義父さまへの挨拶が、この状況にそぐわないようにすら思える談笑の声が、風の音に紛れるように届いていたのだ。
よく考えたら円卓会議のための来客をリーガンの当主が出迎えないはずがない。私はそれに全く思い当たっていなくて、だからその人が私を驚愕の瞳で見つめているのを、一瞬理解が出来なかった。
五年間、彼とは一度も会っていなかった。ローレンツくんとの会話の中で彼の名前が出ても、届けられた手紙の筆跡を眺めていても、私の脳裏に鮮やかに浮かぶのはいつだってガルグ=マクで笑っていた彼の姿だった。だから、びっくりしてしまったのだ。背丈は変わっていなかった。彼を纏う人好きのする空気も、浅黒い肌も、宝石のような色をした瞳も、ほとんどそのままだった。
私達を導いてくれた人。
「クロードくん」
髭を伸ばしているのだろう。見慣れないそれが、何だか不思議だった。そこには確かに私達が穴を開けた日々が横たわっていたのだった。呼びかけた私に、彼は破顔した。
「久しぶりじゃないか、お前が来てくれるなんて思ってもなかった」
差し出された手に慌てながら革手袋で包まれた両手を出せば、クロードくんはかつての彼の面影を濃く残した目尻を下げて、硬く握手を交わしてくれる。皮の厚い、大きな手だった。
「積もる話もあるが、とりあえず今日の会議が済んでからだな。あとで部屋に行くよ」
かつての級友に向ける親しみの籠った声音に、私は「うん、わかった」と頷く。昔、あれだけどきどきしていたのが信じられないくらいに、心が凪いでいた。私は上手く笑えていた。
円卓会議では、リーガン、グロスタール、ゴネリル、コーデリア、エドマンドの当主、或いはその代理が顔を合わせる。そこに本来なら議決権のないダフネル家のジュディットさんも参加していたことに口を挟む人は、誰も居なかった。
長い会議だった。普段の円卓会議がどれほどの時間を要するのかを実際には知らないけれど、お義父さまは恐らく何日かは続くだろうと予想していらっしゃった。これを何日も。そう思うと何だか気が遠くなるような心地になるけれど、今後の同盟に関わる話なのだから時間をかけて然るべきだ。
私は案内された客室で、何をするでもなく暇を持て余している。
部屋の調度品を眺めることにも、天蓋の装飾の美しさに唸ることにもとうに飽きてしまって、今は絨毯の複雑な模様を迷路になぞらえて、目で追っている。
リーガンには何度かやって来たことがあるけれど、盟主様のおられる屋敷内に関しては明るくはないし、この状況下で勝手に出歩くのは気が引けた。ぐ、と伸びをする。お茶を淹れ、用意されていたお菓子を食べる。グロスタールで食べていたものに比べれば分かりやすく甘いそれを咀嚼しながら、窓の外に目を向ける。遠くに見える港から、商船が出て行ったのが見える。その白い帆が風を受けて形を変えているのを漫然と眺めながら、ゴネリル、コーデリア、エドマンドから来賓があるわけだから、ヒルダちゃんやリシテアちゃん、マリアンヌちゃんがこのお屋敷にいたりしないかな、なんて考えてしまう。
リシテアちゃんとは三年前の丁度今頃、親帝国派の会議の時に会っているけれど、反帝国派に属していたヒルダちゃんやマリアンヌちゃんとは、ガルグ=マクを落ち延びて以来一度も顔を見ていなかった。きっと二人とも、きれいになっているんだろうな。あんまり代わり映えしていない自分が恥ずかしいようにも思えるけれど、それでも三人に会えるかもしれないという期待に、縮こまってばかりいた胸が膨らんでいくのを感じる。
結局私はきちんと現状を理解できてはいなかったのだ。グロンダーズにおける敗戦を、私は耳で聞いただけだったから。学生の頃のように笑ってくれたクロードくんの像がこびり付いたせいだろうか。私は確かにあの時ほっとした。
ローレンツくんの他にも、もう二度と会えない仲間達がいるなんて、知らなかった。想像力を働かせるべきだったのかもしれない。この円卓会議の終着点については、いくらでも枝分かれした先の可能性について考えを巡らせていたくせに。
部屋の外に誰かの気配を感じるよりも先に扉を叩かれて、びくりと肩を震わせる。返事をしてほとんど飛び出すように扉を開ければ、そこにいたクロードくんは、やっぱり懐かしげに目を細めてくれたのだった。