グロンダーズでの戦いは、辛勝を収めた。
 本来ならば手を組むべき同盟軍を撤退に追い込んでしまったのは本意ではなかったが、帝国の軍勢を押し返せたのは、ディミトリの勢いが凄まじく、それに他の兵士が鼓舞されたからだろう。乱戦の中の奇跡的な勝利だったと思う。一歩間違えれば誰が命を落としても不思議ではなかった。
 平原に転がる死体の中にはかつてガルグ=マクで共に過ごした生徒達の姿が見受けられた。ベルナデッタ、イグナーツ、ラファエル、レオニー。ヒューベルトとペトラは深手を負いつつも撤退、ヒルダはほとんど無傷のまま、生き残った同盟軍を逃がしていた。自分もクロードがリシテアを連れて退いた姿を見かけている。こちらは学級に居た仲間を誰一人失うことはなかったが、勝利を収めたとは言え素直には喜べないのだろう。彼らを弔うメルセデスやアネット、イングリット、それからアッシュの姿を視界に入れながら、多かれ少なかれこの戦いが彼らの傷になってしまっただろうことを苦々しく思う。
 戦場には、の姿は見当たらなかった。もしかしたら自分が見逃していただけなのかもしれないが、撤退する兵の中にも、死体の中にも彼女を見つけられなかったことは、それがほとんどグロンダーズにおけるの存在自体を否定しているように思えたのだった。
 ディミトリは、退こうとするエーデルガルトを尚も追いかけようとした。だが三つ巴の戦いに勝利したと言え、こちらの損害も大きい。帝国軍の後詰めが迫っているとの情報も入っていた以上、このまま帝国領内を進むことは勿論、グロンダーズに留まることも避けるべきなのは自明の理だった。
 復讐心を色濃く瞳に宿すディミトリにロドリグ殿がミルディン大橋への退避を進言する。この兵力で帝都に向け南下することは難しいと。そうでなくとも、その手前には帝都を守るためのメリセウス要塞がそびえ立っているのだ。それでもディミトリは激しく首を振った。槍から手を離すことをせず、返り血なのか、自分のものなのかも分からぬ赤を頭から被り、咆哮するようにエーデルガルトの名を叫び続けるのだった。
 そんな彼の背中を一人の少女の凶刃が貫こうとしたのを、自分は見た。
 あれは最近この軍に同行することを申し出た少女だ。帰る家も家族もなく、殺された兄の復讐のために連れて行ってほしいと切実な思いを訴えた彼女の瞳は、今、血走り、爛々と光っていた。
 彼女の兄が誰だったのかを、自分たちは知らない。だが、ディミトリが、或いは自分たちの中の誰かが奪った無数の命の中に、彼女の大切な存在はいたのだろう。少女の悲痛な声が響く。



「……許さない。絶対に……許さない!」

「……ッ」



 ディミトリの背を突き刺した短剣が、まるで何かの冗談のように呆気なく、その肉を抉る。
 復讐心のみがディミトリの命を繋げてきた。だからこそ、ディミトリは他人の復讐心を否定しない。
 自分が切り開き進んできた道を振り返れば、そこには無数の屍が積み上げられていることを彼は自覚しているし、いつだってその報いを受ける覚悟をもしていたのだろう。自分の復讐を果たすのが先か、或いは罰を受けるのが先か。いずれにせよ、彼はそれを運命として受け入れるつもりでいたのだ。
 だからディミトリは、その背を刃で貫かれても、一度引き抜かれたそれが再び頭蓋目掛けて振り下ろされんとしても、動こうとしなかった。
 だが、今我々としても彼を失うわけにはいかない。天帝の剣を握り、振りかざす。それでも彼女の動きには間に合わない。その短剣が強い憎悪をもって振り下ろされる中、ほとんど死を受け入れようとしていたディミトリを庇ったのは、ロドリグ殿だった。
 一瞬の逡巡を見せた少女を切り伏せる。その身体が頽れた先で、ロドリグ殿を抱きかかえたディミトリの、血の気を失った顔が見えた。こんな時なのに、自分はあんな風に感情を露わにするディミトリを見たのが、随分と久しぶりであるように思えてしまうのだ。
 感情を失った獣、彼をそう揶揄したのは一人二人ではない。だが今彼は、自分を庇ったロドリグ殿を、驚愕と絶望とが混ざり合ったような瞳で見つめている。








 ロドリグ殿は亡くなられた。
 その死が、そして彼が語ったことが、ディミトリの薄皮を破いたのは確かだ。それまで余すところなく薄い膜に包まれていた彼自身はそうして僅かにその実を露出させている。彼は揺らいでいる。
 ミルディン大橋を教団の兵士に任せ、軍を整えるためにガルグ=マクに戻ったその日の深夜、ディミトリは厩舎に現れた。小雨が降った、まだ肌寒い夜だった。ここを張っていて正解だった。単身帝都に向かうには馬がいる。
 ロドリグ殿の死への動揺が落ち着けば、未だ消えぬ復讐の炎はまた息を吹き返すだろう、その時彼は一人でここを発つだろうと、そう考えていたのだ。



「……どこへ?」



 そう尋ねれば、眼帯のなされていない方の瞳が煩わしげに歪む。
 アンヴァルへ向かい、エーデルガルトの首を取るつもりなのだろう。現実的に可能かどうかは別として。彼はそれが死者の望みだと信じて疑わない。生き残った彼自身が、彼らの意思も無念も憎悪も何もかもを背負わねばならぬと考えている。自分が生きているのはそのためで、それ以外には何もないと。
 彼らのためにも前に進め。それは綺麗事で、生ある者の論理だとディミトリは言う。自分を残して死んでいった者達はそんな綺麗事を望まない。だが。と。



「……なあ、教えてくれ、先生」



 初めて出会ったルミール村、お前の目が他の二人よりも淀んでいたことが気にかかった。おかしな話だ。さして他人に興味など持ったことなどなかったくせに、あの瞳が脳裏から離れてくれなかった。
 自分よりも年若く、少年と青年のあわいにいたディミトリは、自分が張った膜の中で窒息しそうに見えたから。
 学級をまとめる立場にいながら、どこか一歩引いたように皆を見ていた。無辜の民の命が踏みにじられた時は、人が変わったように纏う空気を変える男だった。
 自分と出会うよりも四年も前に、既に彼は死んでいた。だけど、フレンを助け出したあの角弓の節、自分の表情が出会った頃よりも柔らかくなったとどこか嬉しそうに微笑んだお前は、紛れもなく、年相応の子供だったよ。
 教えてくれと、彼は言った。そんなことは、初めてだった。



「どうしたら彼らの嘆きは止む? どうしたら、俺は彼らを救ってやれる?」



 初めて、彼は本当の意味で、自分に教えを請うたのだ。
 彼はエーデルガルトほどには心が強くなく、クロードほど器用でもなかった。自分に降りかかった悪夢の全てを受け止め、失われていった命を、その腕からも、手の平からも指からも、何一つ取りこぼしはしないと、両の足でぬかるみの中立っていた。生者から手を差し出されても、受け取る腕が彼にはない。泥の中に沈んでいくその姿を、だけど、どうしてただ見送ることができようか。
 ぬるい雨が降っていた。それはディミトリの髪を濡らして、頬にその毛先をはりつけさせていた。
 眠り続けた五年間、もしもお前の傍に居てやれたら何か変わっただろうか。少なくともお前をここまで孤独にはさせなかったか。そんなことを考えてしまうのは、自分がお前の「先生」だからだ。今でも。



「……もう十分だろう」



 そう口にした瞬間、ディミトリの瞳が大きく見開かれた。



「十分、お前は苦しんだ。もう自分を許してやれ」



 喘ぐような呼吸が、ディミトリの口の端から漏れる。ディミトリは、もしかしたら誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。「もう良い」と、この言葉を待っていたのかもしれない。この九年の間、ずっと。少なくとも自分は今、そう思うのだ。
 死の間際、ロドリグ殿が口にしていたように、お前の命はお前のものだ。死者の喘ぎから耳を塞げとは言わない。絡みつく腕を切り落とせとは言わない。それでも死者の存在に苛まれ、お前が封じ込め続けてきたお前の信念に、お前はもう従って良いのだ。目を覆う必要はない。
 お前の背負った彼らも、お前が救われねば救われまい。



「……自分のために生きても良いのか、人殺しの化け物に成り下がった俺も」



 震える声で吐き出すディミトリの言葉に頷けば、彼はようやく、その双眸を自分にはっきりと向けた。
 泥の中に沈み行くお前がこの腕を取れぬと言うのなら、自分はお前の抱えた無数の命ごとお前を抱えて引き上げよう。そんなのもう、ずっと前から心に決めていたけれど。








 ディミトリはその後、軍を帝国ではなく王都フェルディアに向けることを宣言する。逆賊コルネリアにより不当に奪われた王都の奪還は、彼が頑なに否定し、目を背け続けていたことだった。
 過ちは正しい行いで償うしかないと彼は言う。かつて自分が見捨てて逃げた民を救いたいと。
 王都の奪還が叶えば、苛政に耐えかねている民達を救えるだけでなく、ミルディン大橋やグロンダーズにおいて損耗した兵力や物資も補給できる。絶望的に思えた今後の帝国侵攻も、これで現実味が増すだろう。ディミトリの目にかつての光が戻ったことに、皆も気づかぬはずがなかった。
 我々は進路を、ガルグ=マクより遙か北に位置する王都フェルディアへと変える。
 それを見逃す帝国軍ではないだろうと声をあげる者がいなかったのは、一時の高揚がその事実を忘れさせたせいだったのかもしれなかった。


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