リーガンから届けられた二通の手紙には、予想に反して私の心身を案じることばかりが書き連ねてあった。
 ヒルダちゃんと、クロードくん、この五年の間、あれだけ二人のことを恋しく思っていたのだから、二人の懐かしい筆跡を嬉しく思って当然だったはずなのに、それは何だか私の心の表面をつるりと滑り落ちていくのだった。
 クロードくんからの手紙には弔意に付け加えて、同盟領の現状と、今後の話が添えられていた。王国軍との共闘を望んでいるけれど、どうなるかは分からないと。クロードくんらしくない、はっきりしない書き方だった。王国軍と上手く連携が取れていないのかもしれない。それが現在もなお続いているのかどうかは分からないけれど。
 帝国の打倒を目的とする以上、同盟が王国軍と敵対する理由はない。理屈では分かっているのだ。ディミトリくんが率いる王国軍には、ベレト先生がいる。イングリットちゃんもアッシュくんも、シルヴァンさんだって。学生時代に仲良くしてくれていた彼らの顔を思い浮かべても、それでも私は胸にある蟠りを解せる気がしなかった。
 ローレンツくんの最期を、彼らは知っている。
 どんなことを言っていたのか。どんな顔をしていたのか。きっと正々堂々、逃げも隠れもせずに戦ったのだろう。目に浮かぶ。そう思ったら目の奥が痛いくらいに熱くなって、思わず天井を仰いだ。ローレンツくんのお部屋の天井は、染み一つない。
 ミルディン大橋には、フェルディナントくんも居たらしい。
 士官学校時代、彼とはそこまで親しくしていたわけではない。孤月の節、ガルグ=マクを襲撃したエーデルガルトさん率いる帝国軍との戦いにおいて、共に同じ作戦を遂行したくらいで。
 だけど、どんなときでも真摯な人だった。あの戦いの後アドラステアに戻ったのは、帝国宰相を罷免されたお父上の代わりにエーギル家を再興するためだったのかもしれない。だけど、そんな彼もまたミルディン大橋で命を落とした。王国軍に殺された。そう思うと、どうしたっていたたまれなかった。何を恨んだらいいのか分からず、途方に暮れてしまうのだった。
 ローレンツくんを失って身動きの取れなくなった私は、この後自分がどうすべきなのかが分からない。クロードくんからの手紙にも、ヒルダちゃんからの手紙にも、私に軍への参加を促すような文章はなく、この喪失を埋め尽くす柔らかな言葉が並べられるばかりだった。
 彼らの優しさに報いるためにも、本当だったら私はここから軍に合流すべきだったのかもしれない。それくらいの気概があれば、或いは気持ちの整理をつけるのが上手ければ、きっと私はグロスタールを発って帝国領へと進軍する彼らに身を寄せただろう。だけど、どうしても身体が動かなかった。王国軍に対する憎悪と情が混ざり合って、どろどろの半固体になって自分の中に澱のように沈殿していくのを感じる。そういう感覚になるとき私は、ローレンツくんが書いた手紙の中に身を沈めて、瞬きもせぬままじっと息を潜めている。
 クロードくん達を心配するならば、私は武器を取るべきだったのだ。
 ローレンツくんだったらそうしただろう。だけど、彼が私にそれを勧めたかどうかと考えると、きっとやめろと言ったのだと思う。私には戦場に出て欲しくないと。
 残された手紙の中にも、そういった文章は散見された。君にはもう怪我をしてほしくない。あの足の怪我を今でも覚えている。クロードは否定するかもしれないが、あれは名誉の勲章などではなく僕が君を守れなかったことの証明だ。散らばる彼の後悔にいくら首を振っても、もうそれは誰にも届かない。
 クロードくんたちは王国軍の動きに合わせるように帝国領内へと進軍した。帝国軍はこれを迎撃するために兵を出すだろう。かつての級友たちが今このとき、命を奪い合っているかもしれない。そういう想像は働くくせに、覚悟だけが追いつかないままだ。
 一人安全な場所で膝を抱えている私は、現実から目を背けてばかりいる。








 妄執の果てを見た。
 敵と味方の入り交じる戦場はそりゃあもう酷いもんだった。転がる夥しい死体の山。それらを踏みつけねば武器も振るえない。
 帝国軍と王国軍に挟撃されたイグナーツを助けられなかった。援軍に向かったラファエルは目の前で腹を貫かれた。レオニーは深手を負ったリシテアを身を呈して庇い、そのまま動かない。俺自身も、背中を深く切りつけられて、痛みで意識が飛びそうになっている。
 後手に回ってしまったのがまずかった。様子を見るなどと言っていないで、先に隊列を下げておくべきだった。ディミトリの動きに気を取られて、エーデルガルトの思惑に気がつくのが遅れた。あいつからしてみりゃあ、俺達が協力し合うことこそが最大の懸念材料であるのはわかりきっていたのに。ならば、あいつがどんな兵の動かし方をするかも読むべきだった。
 弓砲台のあるあの丘には、帝国軍のヒューベルトによって火が放たれた。容赦ないことをしやがる。あそこには、生者も、死者も大勢いたのだ。逃げ惑う兵たちは丘の麓に誘い出され、待ち受けていた帝国軍に殺される。それでもディミトリは、構わずに武器を振るい、進んだ。その影に付き従うように傍に居たあれはドゥドゥーで、あいつがあの無謀な突撃をどうにか形にさせているのは一目瞭然だった。
 レオニーに庇われどうにか即死は免れたリシテアは、それでも死体に埋もれるように地面に転がっていた。かろうじて息があるのを確認して、自分の飛竜に引きずり上げる。その瞬間、怪我を負った背中が引き裂かれるように強く痛んだ。思っていたよりも、傷は浅くないらしい。
 だからその時、そこに居合わせた王国兵がアッシュのやつでなければ、俺もどうなっていたかは分からない。アッシュは逃げる俺に矢を向けなかった。いや、厳密には、引いた弓から矢を放つことをしなかったのだ。その目がほとんど同情するように歪んでいたのを俺は見たが、情けないことに、ここで死んじまうわけにはいかないという思いの方が強かったのだ。死んだ仲間の無念を晴らすよりも、ずっと。俺はまだ野望の先を見たかった。
 空中に高く舞い、戦場を広く見渡す。
 音を立てて轟々と燃えさかる丘、そこに転がる無数の焼死体、鼻につく酷い臭いに喉の奥が痛む。王国軍はディミトリに引きずられるように捨て身の攻撃を帝国軍へと繰り出していた。策も何もあったもんじゃないな。本当に感情的で、読みにくい戦いをするよ、あの王子様は。理に適っているだけ、エーデルガルトの方がましだ。何も出来ずに死体を重ねただけの俺が言うべきことではないのかもしれないが。
 唇を噛みしめる。この言葉を吐かざるを得ない自分自身を、許せなかった。



「生きているやつは逃げろ! 撤退だ!」



 右往左往する同盟軍に声を張り上げれば、王国軍と戦闘していたヒルダが周囲の兵に指示を出すのが見えた。上手く立ち回ってくれていたらしく、大きな怪我もなさそうなその姿にほっとする。
 王国軍の強襲に、帝国軍が受け身になり始めたこともあって、同盟軍の撤退自体は比較的上手くいきそうだった。それでも、俺がこの戦いであまりにも多くの命を犠牲にしてしまったことは確かだ。高度を弓の届かないぎりぎりの位置まで下げたとき、この戦場に埋没しかねない髪の色をした男を、俺はその時初めて見つける。
 生きていたんだな。
 声をかけることはできないから、心の中で思うだけにしておいた。先生は、俺の視線に気づいたように顔を空へ向ける。相変わらず感情の読み取りにくい双眸が、静かに俺を見つめている。
 なんであんた、年取ってないんだよ、気のせいか? こんな時なのに笑ってしまいそうになるのだ。現実逃避がしたいわけでもないのに。
 もしもあの春、あの人が俺達を選んでくれていたら。俺は今でもそんなことを、時折考えてしまう。もしもあんたが俺達の「先生」だったら、今この戦場で戦況を優位に進められたのもまた俺達だったのかもしれない。ローレンツはミルディン大橋で命を賭すこともなく、イグナーツは死なず、ラファエルの腹に空いた穴もなかった、レオニーがリシテアを庇い絶命することも、俺の腕の中で、リシテアの体温が徐々に低くなっていくことも、全部、全部なかったんじゃないかって、馬鹿みたいだな今更、縋るように思っちまうんだ。縋るべき存在は俺にはないのに。
 同盟軍の兵士たちが林の中へ身を隠し、徐々に撤退していく様を見守りながら、手綱ごと拳を握りしめる。強く、強く、色がなくなるほどに。



「……畜生」



 知らず知らずのうちに漏れたその言葉は、俺らしからず、ほとんど絶望したような声音になってしまっていた。
 何が卓上の鬼神だ。仲間を殺した。負け戦だと言っている暇があるならば、最善を取るべきだった。どうして皆逃げないんだよ。命あってこそじゃないのかよ。そんなのは、俺の責任転嫁だ。ここまで何も出来なかった俺を、ローレンツはきっとあの世で責めている。



「……クロード」



 俺の腕の中で、リシテアが薄く目を開けていることに気がついた。



「リシテア」



 その唇はかさついて、ほとんど色を失っている。ひゅ、と漏れたか細い息も、ほとんど焦点の合っていない瞳も、その命が最早長くないことを俺に知らしめているのに、俺は、それでも信じられないことに、今ここでお前を生き永らえさせることができるなら何だってすると、あまりにも非現実的なことを思ってしまうのだ。
 おかしな話だ、俺は、この背にあるものを、本当は疎ましくすら思っていたはずなのに。



「撤退、ですか……ふふ、だから、言ったんですよ」

「喋るな。……目を閉じていろ」

「それは、できませんね、このまま死んだら、死んでも死にきれない……」



 か細い呼吸、耳を澄ましていなければ、風の音にすら飲み込まれてしまいかねない微かな声。



「悪かった、リシテア。俺のせいで」



 抱きしめる手に力を加えてしまえば、それがきっかけで動かなくなってしまいそうに思えた。早く休ませてやりたいのに、今はこの空しか安寧の地がない。
 リシテアは緩く首を振る。彼女は学生時代よりもずっと大人びたように思っていた。風貌もそうだが彼女が過ごした順風満帆とは言い難かった日々が、その横顔を達観した女性であるように見せていた。
 リシテアの指が力なく動く。震えているのかと思った。だけど、違った。治癒魔法を使ってくれたのだ。痛みだけが、僅かに背から消えたのが分かる。それでも普段のリシテアが使うそれに比べれば、それは随分と細やかなものだった。
 嘗て無尽蔵であるように思われたリシテアの魔力は、今、尽きかけようとしている。その意味が分からぬほど、俺は愚かではない。見開いた目が、空気に触れて痛い。



「約束、したんですけどね」



 ほとんど閉じかけたその目が、掠れた声が、彼女の後悔を形作る。
 誰に向けての懺悔なのかを、俺は知らない。リシテアが見ているものが何であるかを理解できなかった。命が終わろうとしている。腕の中で、リシテアが誰に聞かせるでもなく独りごちるように囁くのを、この世界で唯一、俺だけが聞いている。「ああ」それはため息のようにも、泣き声のようにも聞こえた。



「……結婚式……いきたかった……」



 彼女の身体から、そうしてとうとう力が抜けたとき、地上を包む歓声があった。
 小柄なリシテアでも、抜け殻になるとずしりと重い。その身体を腕に抱いたまま、撤退し始める帝国軍の姿を見る。撤退するエーデルガルトをそれでも追おうとするディミトリは、まだ救いようがあるのだろうか。俺には分からない。
 だけど、もしもディミトリの目が覚めるときがあるのなら。俺はもう。
 もう、何もかもを放り出して、お前に預けても良いか?
 それを尋ねることができる相手も、真剣に答えてくれるやつも、もうどこにもいない。








 大樹の節、後にグロンダーズの会戦と呼ばれるこの戦いは、同盟軍にとってあまりにも痛い敗戦だった。この戦いをもって、約三百年に渡って続いたレスター諸侯同盟は、消滅の道を辿ることになる。


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