平原を覆っていた霧が晴れたその時、既にエーデルガルト率いる帝国軍は布陣を終えていた。
 帝都アンヴァルへと続く街道を塞ぐように広げられた帝国軍の数は、想定以上だ。一方で東の地には同盟の、鹿の旗を掲げた軍勢が隊列を成している。
 ミルディン大橋を南下した先にある、ベルグリーズ領グロンダーズ平原。彼らが学生だった時も、こうして自分たちはここで睨み合っていた。あのときと違うのはこれが鷲獅子戦という名の伝統行事ではなく、命を奪い合う本物の戦だということだ。
 中央の弓砲台には、当時の鷲獅子戦をなぞらえるようにベルナデッタの姿があった。あの子は昔から外に出ることを酷く嫌がっていたのに、命を賭して今戦場に立っている。どんな表情をしているのかはここからでは見えないが、彼女のことを見知っている皆の空気がひりついたのが分かった。
 あれはミルディン大橋へ向かう前だった。学生の頃「顔見知りと戦うのが辛いならば、顔を見る前に背後から斬りかかれ」と口にしたのはフェリクスだったが、それと全く同じ言葉を、五年越しに、揶揄すると言うには抑揚のない声で言ってのけたのはディミトリだった。
 アネットが、進軍を躊躇するようにその足を止めているのが視界の隅に映る。このグロンダーズに、かつての学友達は立っている。他にも顔馴染みは大勢いるだろうが、エーデルガルトのことだ。今後のことも考えて、全兵力をここに投入してはいないだろう。
 一方で、同様にほとんどの兵力を持って来ざるを得なかったのが東に布陣する同盟軍だ。



も……いますかね……」



 彼女の名を呟くアッシュに、シルヴァンが「さあねえ」と掠れる声で呟いているのを後頭部で聞く。
 どうだろうか。婚約者を失ったばかりの人間が戦場に立てるのかどうかを、自分は知らない。
 ミルディン大橋の戦いの前に、ローレンツはを戦場に出すことはしないだろうとほとんど独りごちるように呟いていたシルヴァンも、ローレンツというその抑止力を失った場合に関しては想像力が働かないらしかった。五年の日々で、がどのような感情を抱いて生きていたかを知ることがあれば、多少はその思惑や動きを推測することもできたのかもしれないが。
 同盟軍と共闘することができればこの戦いにも勝機はある、そう考えて送った使者は、しかし帰ってこなかった。クロード側からの使者がないのも不思議だ。彼ほどの男ならば、この戦いが帝国軍の圧倒的優位のもとに進むだろうことなど想定できるはずなのに。
 ローレンツを殺されたことへの報復をこの機に果たすつもりなのかとも考えかけたが、クロードはそういうところから遠く離れたところにいるように思う。弔い合戦のために今ある命を危険に晒すような男ではないと、彼と過ごした一年が自分に告げている。そう考えれば、彼は恐らくこのフォドラの治政者として相応しい。
 その道を血で彩るエーデルガルトと、泥の中から足首を掴まれて尚も進もうとするディミトリ。そんな二人を俯瞰するように見つめているクロードは、冷静なのか、或いは。
 憶測を並べたところで彼の底は見えない。首を振りながら雑念を払う。クロードの考えは読めないが、帝国の打倒と言う同じ目的を持っている以上、彼が共闘を拒否するとは思えなかった。
 そんな折、レスターに派遣した兵士の一人が殺されているのが見つかった。
 これまでに送った騎士たちも、恐らく無事ではないのだろう。もしかしたら、リーガンからの共闘要請すらもこうして我々の与り知らぬところで葬られていたのではないか。何者が軍に潜り込んでその思惑を渦巻かせているらしいということに気がつくのが、遅すぎた。これは自分たちの失態だ。戦が始まってから連携を取ることがいかに難しいかを考えれば、同盟との共闘はもうほぼ実現が不可能になっている。



「先生」



 不意に背後から声をかけられ振り向くと、ドゥドゥーが神妙な面持ちでこちらを見ていた。
 ディミトリが処刑される直前、彼を救い出し身代わりになったとされていたドゥドゥーはダスカー人の同胞によりその命を救い出されていた。その際負った怪我の治療のために、彼はこの数年間身を隠していたらしい。
 ディミトリの挙兵の報を受けて、ドゥドゥーは前節のミルディン大橋の戦いのさなかに駆けつけたのだった。以来彼は、以前のようにディミトリに寄り添っている。その存在がディミトリの頑なだった心を僅かながらも解したのは今更言葉にするまでもないだろう。
 ディミトリは、多くのものを背負いすぎている。実の父親を、友を殺され、継母を失い、国を追われた。その上自分を逃がすためにドゥドゥーを失ったと思い込んでいたならば、その時の彼を想像すればあまりにもいたたまれない。だからこそドゥドゥーが生きて目の前に現れた事実に一番心を動かされたのはディミトリだったのだ。それでもまだ彼の足首を掴む腕の全てが剥がれ落ちたわけではないけれど。
 ドゥドゥーの目線の先には、ディミトリの姿がある。



「おれは、殿下をお守りする。……恐らく単身で帝国軍に突撃するつもりであろうから」

「……そうだな。だが、混戦は必至だろう。同盟軍の動きにも気をつけるんだ」

「わかった」



 鷲獅子戦でもそうだったな。あの時も、ディミトリは猪と称されるままに敵陣へと突撃していったし、ドゥドゥーは彼を守るためにその傍にいた。言いかけた言葉はこの場にはどうも相応しくないように思えて飲み込んだ。
 あの頃とは既に、何もかもが違う。この地が己の信念のために命を奪い合う場であること。エーデルガルトを前にしたディミトリの執念が最早原形を留めずにいること。降参も戦線離脱もなく、敗北はそのまま死に直結すること。そして少なくとも、ここにはもうフェルディナントもローレンツもいないこと。
 ミルディン大橋での戦いを終えたとき、死んでいった者達を一瞥し、愚かだと言ったディミトリの横顔は、痛々しく歪んでいた。彼の足下には、彼が奪った命があった。埋葬をする兵たちを、彼は止めはしなかった。遺品を家族に送ることも。
 彼は否定するが、ひょっとしたら、その苛烈さを包んだ薄皮は剥がされかけているのかもしれない。エーデルガルトへの妄執はそのままに。自分たちを拒否し、背中を向け続けている現状で、それでも何かが彼の閉じかけていた心をこじ開けようとしているのかもしれない。
 なんて考えてしまうのは、都合が良すぎるか。
 丘に目をやれば、ベルナデッタが変わらずにそこに立っていた。まずはあの地を奪わなくては。
 戦が始まる。五年前のように、開戦を知らせる合図など、もうなかった。








 先生。
 ベルは先生に会いたかっただけなんですよ。
 勿論ベルがここにいるのはエーデルガルトさんにお願いされたからってのもあります。ベルの力が必要だって言ってくれたから、ペトラさんも一緒に来てくれるって言ってくれたから。だからベルはこうして、五年前みたいにここに立っているんです。先生。でも、ベル、あの時も本当はすごくいやだったんですよ。こんな目立つ丘に立たされて、弓砲台なんて使わされて、それもここ、ほとんど前線じゃないですか、おかしいですよこんな目立つ位置にベルを置くなんて、狙ってくれって言ってるようなもんです。
 あたしやっぱり、向いてなかったのかなあ。なにって、人生そのものに。貴族になんかうまれなきゃよかった。紋章もいらなかった。あの平民の男の子と仲良く遊んでいられるだけで良かった、あの子と一緒にいる間は外も怖くなかったんですよ。ベルが貴族じゃなかったら、あの子だってお父様に殺されなくて済んだのに。あれ? でも貴族だったからあの子に会えたのかな。何もかも今となってはもう遠い話です。
 ああ、こわい、こわいなあ。春だって言うのに、グロンダーズはどうしてこんなに寂しいんでしょう。だけど、鳥が飛んでいますよ、先生。お花も、この丘の下にだったら咲いているかもしれませんね。先生、ああ、ああ、こわい、先生、やっぱりあたし戦いたくなかったです、なんで敵なんですか、なんで敵なんですか先生、あの時もっと勇気を出して先生の隣にいたいって言っていたら、ベルは今こんなところにいなくても良かったですか?
 地鳴りのような怒号が響いて、丘の下から駆け上がってくる王国軍に、ベルはもう死ぬんだなって本気で思いました。切り伏せられていく帝国兵の中には、こんなベルに良くしてくれた人もいたんです。先生、ああ、あたしやっぱりまだ死にたくなかった。
 近づかれたら砲台は使えない。弓に持ち替えて、丘の上の兵たちに槍を振り下ろすその金の髪の男の人に矢を向けたとき、ベルは、初めてそれがディミトリさんだって気づいて息を飲んでしまったけれど、その一瞬の躊躇いが例えなかったとしても、きっとベルは何にもできなかったでしょう。



「ぐっ!」



 その槍に貫かれたお腹が、ただ熱かった。ベルの身体はあっという間に飛ばされて、階段を数段転げ落ちてしまう。とどめを刺していってくれれば良かったのに、中途半端に放っておくから、ベルは死にきれずにいた。ディミトリさんはそのままエーデルガルトさんのいる丘の南西を目指して駆け下りていく。お腹に当てた手を引き抜いたら、べっとりと血がついていた。
 悲鳴や、歓声、馬の嘶き、魔法の詠唱、そういうのが、どこから聞こえるのかももう分からない。目の前が霞んで、もう色がない。ああ、やっぱり、部屋にいるべきだった。先生。もう一回会いたいなんて思わなきゃ良かった。先生、先生、先生。



「せんせい……」



 目を閉じた。その時、誰かがベルの傍に膝をついたように思った。頬に何かが触れた気がした。
 それが先生だったらいいなって思いながら死ぬくらい、どうかゆるして。 








 なりふり構わないねえ。遠くに見える金の髪の男を見ながら、肩を竦める。
 グロンダーズ平原を南に突っ切る王国軍は、弓砲台を物ともせずに中央の丘を制圧した。あそこには鷲獅子戦の時と同じくベルナデッタがいたようだが、容赦なく切り伏せてしまったらしい。ベルナデッタとはそこまで親しくしていたわけではなかったが、あの大袈裟な悲鳴が二度と聞けないというのは何だか妙な気分だ。階段の途中で斃れた小柄な身体は、もうぴくりとも動かない。
 それでも王国軍は進軍を止めようとはしなかった。こちらの動きを窺うような様子すらもない。ディミトリは立ちはだかる相手に、悉く武器を向けているだけだ。それは恐らく、俺達同盟軍を前にしたとしても同じだろう。



「……王国軍にこちらと手を組む意思はないようですね」



 隣に立っていたリシテアが、押し殺したような声で呟いた。「もう少し様子を見ていたいところではあるが……」と答えれば、気色ばんだ目で睨まれる。



「そんな悠長なことを言っている場合ですか」



 その声音がリシテアらしくないように思うのは、この五年、彼女が俺達とは違う道を歩いていたからなのかもしれない。



「このままここで見守っていたところでどうにもなりませんよ。ただでさえヒルダやレオニーを伏兵として潜ませたままでしょう」

「伏兵っつーか、本当は増援のつもりだったんだがな」

「王国軍に共闘の意思があった場合の話ですよね? あんたにはあれがそう見えます? ……このままだと巻き込まれますよ。いえ。――もう遅いかもしれません」



 同じ親帝国派として、リシテアは俺達よりもよほどローレンツと近い関係を築いていた。勿論、とも。だからこそ王国軍に恨みがあって、それが故に否定的にあれを見ているのかもしれない。そう思っていたが、さすがに落ち着いて状況を分析しているようだ。
 リシテアの言う通り、俺達の布陣はどうも前線に近すぎる。と言うより、思った以上に王国軍の統率が取れていないのだ。ミルディン大橋に向かうためにグロスタール兵を引きつけておいてくれと要請が届いたときは、なるほどそれなりに状況を読めるやつがガルグ=マクにいるらしいと考えていたが、それは外交上の話で、戦になればそうともいかないのか。或いは単純に、ディミトリのせいか。後者であると瞬時に理解出来るのは、あの咆哮がここにまで届くからだあの男に、最早昔の王子然とした面影はない。
 時折昏い目を見せるやつだとは思っていた。厄介なもんを抱えているんだろうなとも。ディミトリの復讐の果て、それが今このグロンダーズで実を成そうと言うのならば、あの獰猛な獣のような姿にも納得はいく。このまま放っておけば、どうなるだろう。兵力としては全く釣り合ってはいないが、妄執は時に何もかもをひっくり返すから、ひょっとしたらと、そう思わないでもない。
 こちらとしても協力して事を進めたいのは山々だが、そう上手くはいかないもんだな。



「報告します!」



 その時、俺とリシテアの元に顔色を変えた兵が飛び込んでくる。緊迫したその様子に、リシテアは唇を引き結んだ。だから、俺も覚悟を決めたのだ。
 ディミトリの動きに気を取られすぎていて、エーデルガルトの思惑を測れなかった。あいつが俺達を連携させないために乱戦に持ち込もうとするくらい、読んでいなければならなかったのに。



「哨戒に当たっていた歩兵部隊が帝国軍と戦闘に入りました! そこに王国軍も衝突した模様です!」



 リシテアが分かりやすくその顔色を変える。哨戒していた歩兵部隊と言えば、イグナーツが率いていたもので間違いないだろう。「また救援のため、別部隊も戦闘に入りました! こちらも苦戦を強いられています!」続けられたそれにはっきり参ったなと思ったけれど、口にはしない。ここから兵を動かせば、もう後には引けない。三つの国が争いあえば、敵も味方も判別がつかなくなるだろう。それは勿論俺達にだけ言えることではないが。



「……見捨てるなんてしませんよね」



 リシテアの明るい花の色をした瞳が、探るように細められる。



「さすがにこの状況じゃあな」



 上手くいかないもんだ。非情になりきれない自分に自嘲の笑みを零す。



「仕方ない、全軍突撃だ。ヒルダやレオニーにも合図を」



 後に引けないならば、いかにこの中で最善を尽くすかだろう。だが、これは負け戦だろうな、エーデルガルトだけでなく、ディミトリも、そして先生をも相手にしなきゃならないんだから。そんな思いが頭を過ぎる。いかに被害を最小限にできるか、そんなことを考えている状況でもあるまいに。兵力も、ディミトリほどの勢いもない俺達に勝機は薄い。それでも殺す気でいなければ、生き残れはしまい。仕方ないか。もう一度呟いた言葉は、けれど明らかに熱を持っていた。



「味方以外は叩き潰せ!」



 腹から叫んだ言葉はグロンダーズの林の中に響いた。死ぬなよ、お前達。俺はもう、それなりにお前達には愛着があるんだ。五年前を思い出す。あの時に戻れるんだったらなんて考えるのは、俺らしくない。


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