「いやー、息災なようで何よりですよ、ハンネマン先生」
教師人生が長いとは言え、我輩はこの学生のことを忘れはしまいだろうと思う。
なに、あの戦争が起きて、突然それまでの生活に終止符を打たれたことだけが原因ではない。勿論、何の心構えもないままに閉ざされた教師人生、思い返すことがあるのはやはり最後の一年であることが多かったが、そうでなくともあれはなかなか刺激的な日々だったと今でも思う。格別な研究対象であるベレト先生がやって来た。それもあるが、それ以前にあの年は異質だったからね。帝国、王国、同盟の次代を背負って立つ若者たちが揃うことなど、そうそうない。
我輩が受け持つことになったヒルシュクラッセは、とりわけ生徒たちの仲が良好だった。それも級長であるクロード=フォン=リーガンの手腕によるものか。彼は聡い子だった。他人との距離の取り方が適切で、人心掌握が上手く、そうと気取られないだけの能力もある。彼ならば未来の同盟領は明るいだろう。そう思っていたのだが、まさかこんな風に戦争が引き起こされる事態になろうとは。
同盟はつい最近まで真っ二つに割れていた。ガルグ=マクの陥落後、かつての教え子であったアレキサンドル家のヴァイル君が帝国の兵に殺されたというのは耳にしていたし、我輩はそれに胸を痛めていた。その後残された妹の君は婚姻という手段をもってアレキサンドルを帝国の手から守ったが、いくらローレンツ君が彼女の傍にいたとは言え、それにだって苦難は付きまとっただろう。
同盟領は外から見ても、混迷を極めているように思えた。無論、帝国に直接侵攻されていないという点で言えば、彼らは上手くやっていたとは思うが。
教え子たちの苦難を知りながら、我輩は遙か南のアンヴァルにいた。帝国貴族としての身分は既に捨てている身である以上、ガルグ=マクに骨を埋める気ではいたのだが、帝国に攻め落とされ廃墟同然となったあの地に、いくら我輩の研究室が残されていようと留まることはできなかった。そうなったとき結局頼るのは帝国なのだから、嫌になるよ。
古い友人の家をもらい受け、そこで未だ縋るように紋章の研究を進める我輩が過ごす日々は、最早傍から見れば余生と呼ぶに相応しいのかもしれない。無論、こんな状況であろうと我輩のこの研究が実を結ぶのが一番理想ではあるが、紋章が秘める数々の可能性と自分の寿命とを考えれば、それもどうだか。いっそ後継者の育成に執心すべきだろうか。
そういうことを考えていたある日だった。リンハルト君が我輩の住む家を訪れたのは。
例え我輩自身がアドラステア帝国の出であったといえども、あの年においてアドラークラッセの生徒と特別な親交があったわけではない。唯一話をすることがあったのが、紋章学に造詣の深かった彼だった。
「ハンネマン先生がここにお住まいだということは聞いていたんですけどね。ご挨拶に行くべきかなあとは思っていたんですが、先延ばしにしていたら五年が経ってましたよ」
伸びた髪の邪魔になる部分だけを適当に括っただけの彼は、やはりどこか浮世離れしていた。彼は昔から、興味の範囲外のことに関しては端からそこにないものとして扱う節がある。こぢんまりとした家の中で彼は実に窮屈そうに見えたが、彼から見た我輩もそうだったのだろう。
帝国貴族はアドラステアの各地にその領地を持ちながらも、帝都アンヴァルに居を構える。我輩がアンヴァルで暮らす以上、帝国貴族の彼らと会おうと思えばいくらでも会えた。だが、我輩はそれを避けたのだ。エーデルガルト君にも何度か協力の打診は受けていたが、断り続けているうちに月日は過ぎ去り、今に至っている。
まだ紋章学の研究はしているのかね、そう聞くべきだったのかもしれない。「茶でも飲むか」などという、あまりにも平凡な言葉をかけるのではなく。
リンハルト君は我輩の言葉にゆるゆると首を振ると「実はそんなに時間もないんですよ。陛下も人使いが荒くて。この後メリセウスに行かなくちゃならないんです」と煩わしそうな声を出す。こういう所も、五年前と変わらないらしい。
帝国が同盟と王国へ宣戦をしてから五年、最近の戦況は膠着状態にあったとは言え、まさかここに来てそれが一変するとは誰も想像していなかっただろう。
行方不明であったベレト先生の生存の報、処刑されたと言われていたディミトリ君がガルグ=マクにて挙兵をし、ミルディン大橋を攻め落としたのは前節の話だ。彼らはそこを足掛かりに、次は帝国領内へ進軍しようとしている。一方、それを受けて同盟も内乱を終結させた。これに乗じて彼らもまた攻勢に転じる可能性は大きい。
無論、兵力で言えばアドラステア帝国に敵うことはないだろう。だが同盟と王国が共闘という道を選んだ場合はその限りではない。二国がどう出るかは読めないが、今回はエーデルガルト君が兵を率いると聞き及んでいる。ミルディン大橋で戦死したというフェルディナント君の弔いの意味もあるのだろうか。リンハルト君がその戦地へ赴くのかどうかは分からないが、どのみち無関係ではいられないだろう。彼はそれで、メリセウスへと発つ前に顔を出してくれたに違いない。
この時世において、帝国貴族の一人である君に我輩の後継者となってほしいと願うのは、些か自分本位であるかもしれないな。そうは思うが、我輩はやはり君の頭脳に一目置いていたから、この戦争が終わった後にでも、もう一度ゆっくり話をしたいところだ。
「そうか。気をつけて行ってきたまえよ」
そう口にした我輩に、リンハルト君は僅かにその眦を細め、眉を下げた。「一応駄目元で言いますけど」続けられたそれは、吐き出した彼本人すらも、全くその気のないような色をしていた。
「一緒に来てくれたりしませんよね?」
戦地に。
彼ははっきりとは言わなかったが、そういう意味で間違いないだろう。ひょっとしたら、エーデルガルト君にでも頼まれたのだろうか。いや、それもどうだろうか、いずれにせよ自分はそれに頷く気はない。面食らってしまったが、我輩の答えなど決まっているのだから。
「……それは遠慮しておこう」
ミルディン大橋ではフェルディナント君だけでなく、ローレンツ君も亡くなったそうじゃないか。我輩は、これ以上彼らに傷ついてほしくない。かつての教え子を敵に回せるほど、我輩は割り切れているわけではないのだ。例えその先にフォドラの安寧が約束されていたとしても。
「――教え子を手にかけてまで生き延びたくないよ」
我輩の返事に、リンハルトくんは声だけで笑い、「ですよね」と抑揚なく言葉にした。
「まあ、また来ますよ。いろいろ片付いた後にでも」
「ああ。次は紋章学の話でもしようではないか」
その時、初めてリンハルト君は苦々しい目をして見せた。「できたらいいですけどね」彼の言葉は、空気に溶ける。
彼らが背負っているものの一端でも我輩が知ることがあれば、或いはエーデルガルト君の誘いを受けていれば、もしかしたらその目の奥にあったものも分かったのかもしれないな。そして、そうであった時、我輩は彼の言葉に頷いて、戦場に立ったのかもしれない。何もかも、今は意味のない仮定の話だ。
リンハルト君の背がアンヴァルの整然とした街の中に溶け込んでいくのを見送る。
アンヴァルは春だ。花の香りに、妹の命日が近いことを思い出す。