自分一人でグロスタールへ向かうのは、そういえば初めてのことかもしれない。
 一人だと移動の間手持ち無沙汰で、どうにもよくない。小さいときはお父様もいらっしゃったし、三年前にリシテアちゃんに会うために出向いたときはローレンツくんも一緒だった。その時も、何だか二人でいる密室空間というのが落ち着かなくて、大半は眠ったふりをして過ごしていたけれど。
 アレキサンドルからグロスタールへは、馬車でも半日程度はかかる。昨日は上手く寝付けなかったし、少し目を閉じていれば眠れるだろうかなんて甘いことを考えていたけれど、実際はそう上手くもいかなかった。前輪が小石に乗り上げる感覚を私の身体は妙に過敏に感じ取ってしまって、余計に目が冴えてしまったのだ。
 色んな事が上手くいかない。オーランドはなぜか怒っていたみたいだったし、ソフィーやノエルを上手く慰めることもできなかった。こんな状態で、おじさまと上手にお話することができるのだろうか。そんなことを不安に思っていたけれど、結局それは杞憂に終わることになる。








 予定通りの時刻にグロスタールに馬車が着いたときには、昨日から降り続いていた雨はすっかりあがっていた。
 雨の残り香を含んだ土の匂いを吸い込みながら、出迎えてくれたグロスタールの従者の皆さんに頭を下げる。その中におじさまの姿をお見かけした時、まさかわざわざいらっしゃるとは思ってもみなかったから、ぎょっとしてしまった。慌てて深々と頭を垂れながら「ご無沙汰しております」と口にすれば、ローレンツくんよりも鋭い眼光をしているとばかり思っていたおじさまはその眉尻を下げられて「長旅、ご苦労だったね」と、ほとんど初めて、私を思いやるような言葉を紡いでくださったのだった。



「中へ。昼食は未だだろう。それからで良い。君に頼みたいことがある」



 落ち着いた声音だったけれど、気落ちされた様子はその背からも滲み出ていた。
 お屋敷中が喪に服しているように思えた。従者も侍女も沈痛な面持ちで、屋敷内にも配備されていた兵は帝国を攻めるために既に送られたのか、その数を極端に減らしている。足音以外はしんと静まりかえったお屋敷の廊下から、手入れされた庭園が見えた。この位置からでは、彼が手紙で愛らしいと言っていたスミレの花を見つけることはできない。








 ローレンツくんは、クロードくんの策に乗らなかったらしい。
 恐らく彼にはリーガンの動きが陽動だと読めていたはずだ。それが卓上の鬼神と呼ばれるクロードくんの作り上げた計画図の一端を成すものであることだって、彼は分かっていただろうに。
 彼は、王国軍がミルディン大橋に攻め込むことを察知して南下した。ほとんどのグロスタール兵がリーガンへの作戦に回されていたため、彼が連れて行ったのは数人の騎士だけだと言う。そして、その全員が帰らぬ人となった。王国軍勝利の報と、ミルディン大橋から届けられた遺品が、彼らの死を物語る。



「これを」



 食事の後、おじさまから手渡されたのは小さな箱だった。躊躇ったけれど、開けるよう促されたため、その蓋に手をかける。見た目よりも随分と重い造りをしていた。蓋をずらした私は、「……あ」と声を漏らしてしまう。見覚えのある首飾りが、そこにあったから。



「息子がつけていたものらしい」



 おじさまは、ぽつりぽつりと何かを語っていらっしゃる。その声が震えているのを私は知っている。魔除けの石がついた首飾り。お父様もお兄様も同じ物をつけていたけれど、彼らのことを首飾りは守ってくれなかった。だから、未だしぶとく生き続ける私のものをローレンツくんにあげれば、私はそれが彼の命を守ってくれると信じていた。
 傷一つついていない光沢のある石は、箱の中、柔らかな布に包まれてじっと息を殺しているようにも見える。紐の部分が千切れているのは、作為的なものだろう。短剣で切られたのか、やけにその切り口が美しかった。
 紐を変えれば、まだつけられるだろうか。そんなことを考えている。自分の心がどこにあるのかを、私は昨日から、よく分からないでいる。
 微動だにすらできない私を、おじさまはどう思ったのだろうか。私は、どうも薄情に見えるらしい。沈痛な面持ちで、時折耐えられないとばかりに侍女が泣き崩れる場面を、屋敷の中で数回見た。その姿になんと声をかけたらいいのか分からず、ただじっと座っていることしか出来なかった私は、本当にローレンツくんの幼馴染みで、婚約者だったのか怪しい。
 お腹の底からじわじわとこみ上げてくるのは、熱というよりも異物感だった。それを振り切るように顔をあげて、ローレンツくんに良く似たその人の瞳を、私はじっと見る。



「……私は、お片付けに呼ばれたんですよね」



 おじさまの顔をこうして真っ直ぐ見つめることが出来る日が来るなんて、この間までの私は知らなかっただろう。こんな風に、逃げるようにしてお話を切り上げようとすること自体が失礼であることは重々承知していたけれど、息苦しくてたまらなかった。呼吸をしたかった。
 ああ、と頷かれたおじさまを、私はただ、見つめている。



「息子の部屋を片付けたい」



 おじさまは、先程よりは随分と落ち着かれた声音でそう続けた。
 探してほしいものがあるらしいけれど、具体的にそれが何であるかは教えていただけなくて、だから私は途方に暮れてしまう。見たら分かる、それにアレキサンドルのためになるものだと、そう口にされて拒否できるはずもなく、私はそして、彼の部屋を訪れることになる。








 ローレンツくんのお部屋は、三階にある書庫を目印にして斜向かいだ。
 侍女の方に案内されたけれど、本当は一人でも辿り着けた。私の前を歩く女性は、私よりも年が一回り近くは上であるように思えたけれど、ローレンツくんのお部屋の前で立ち止まった時、はっきりとその瞳が赤くなっていた。



「ローレンツ様のお部屋はこちらになります」



 それでも凛とした声音に、私は何だか取り残されたような気持ちになってしまう。
 重厚な木製の扉を前に立ち尽くす私を、彼女はそのまま置いていった。探し物は私が一人でするらしい。見れば分かるもので、同時にアレキサンドルのためになるもの、それが彼の部屋の中にあるとおじさまは仰っていたけれど、どうなのだろう。ぴんとこなかった。
 おじさまは、時間はどれだけかかってもいいと仰った。何日でも滞在してくれて構わないと。けれど、そういうわけにもいかない。私はアレキサンドルをお母様に任せているし、フォドラの現状は刻一刻と変化している。身の振り方を決めねばならないのだ。自分がどうするかを、私は考えなくてはいけない。こうなってしまった以上、私だって武器を取らねばならないとほとんど決断してはいるけれど。
 この扉を開けて良いのだろうか。手を伸ばしかけたその瞬間、躊躇うような思いが過ぎる。
 ローレンツくんの戦死の報せがあってから、まだ数日。彼はほんの十日前まではこの部屋で寝起きしていたことになる。
 入っても良いのだろうか、本当に。だってローレンツくんは私に、部屋には入れないと言った。朝も、昼も夜も、時間帯に関係なく、勝手に入ったら叱るって。それもこっぴどく。耳の奥がきんと音をたてて、脂汗が身体中から湧き出るのを感じる。
 だけど、いつまでもここでこうしているわけにはいかなくて、どれくらいそうして突っ立っていたかを私はもう自分では知る由もないのだけれど、とうとう観念して、ごめんなさい、と心の中で謝ってからそっとその扉を開けた。三年前、隙間から少し覗き見ただけの室内は、なんだかローレンツくんのにおいが充満しているようで、本当は、息がしにくかった。
 そろそろと足を踏み入れて、見回す。一人で寝るには少し余裕があるだろう寝台、毛布はきちんと畳まれていて、敷布にだって髪の毛の一本たりとも落ちていなかった。彼がグロスタールを出て以来、誰も部屋には入っていないというから、ローレンツくん本人がきちんと片付けていたのだろう。机の上には余計な物もなく、椅子はきちんとあるべき場所に収まっている。花瓶の中にささっていた花だけが、時の流れを如実に表すかのように萎びかけていた。窓の鍵を開けて、空気を入れ換える。部屋に入り込む春の柔らかな風は、雨のにおいを既に消している。
 士官学校の彼の部屋のように、部屋はきちんと整頓されていた。私の部屋のようにごちゃごちゃとした置物もなく、必要な物だけが並んだ本棚。背表紙を眺めていると、知っているものも、知らないものもたくさんあった。きちんとその高さが揃うように並んでいるから、部屋の主の神経質さが垣間見える。
 おじさまから許可を得ているとは言え、人の部屋をひっくり返すのは気が引けた。そもそも私は何を探さなければいけないのだろうか。途方に暮れて、引いた椅子に座る。柔らかな布張りの座面が、私の体重分だけ沈む。窓のすぐ傍だから、そうしてぼんやりしていると、ぬるい風が頬を撫でた。学生時代よりかは随分伸びた髪が抵抗なく靡くから、なんだか鬱陶しかった。
 どうして私はここにいるのだろう。そんなことを考えてしまう。
 雨の降り続いていた昨日とは打って変わって、午睡には丁度良い陽光だった。もしもここが六年前の、あの士官学校だったら、私はきっと睡魔に抗えずにうたた寝をしてしまっただろう。
 机に突っ伏して眠る私を、ローレンツくんは後ろから「こら」と呼ぶ。「同盟貴族ともあろうものがどういうつもりだ。そういう所作は君の品位を落とすぞ」私の品位が落ちたってローレンツくんには何の関係もないのに。そう思うのだろうな、六年前の私なら。
 だけど私はあれから年を重ねて、本当なら子供を産んでいてもおかしくない年齢に至り、今こうしてローレンツくんの婚約者としてここにいる。ガルグ=マクにいた頃の私は、きっとそう言われたってぽかんとするだろう。どうしてローレンツくんと? って。だってあの頃の私はクロードくんが好きだったし、ローレンツくんのことはちょっと感じの悪い幼馴染みだと思っていた。家のことばかり考えて、アレキサンドルを貶めて、だけど、あれだって彼は私に自分の意見を述べてくれていただけに過ぎない。大勢につくアレキサンドル。あなたはだけど、こうして私を引き留めた。手を伸ばして、グロスタールの中に入れてくれた。
 嬉しかったんだよ。
 違う、嬉しいなんて言葉であの時の感情を括ってはいけない。守ってもらえたこと、救ってもらえたこと、私の地獄に伸ばされた手の平、私は何も、五年前の、お兄様が亡くなられたときの話をしているのではない。もう少し前、お父様の墓石を前に立っていた私が、簡単な聖句に詰まったその横に、あなたが立ってくれたあの瞬間、お父様のために、さして信心深くもないあなたはそれでも一緒に言葉を紡いでくれた。今でも私は夢に見る。花が綻ぶ庭園で、初夏の木漏れ日の中で、川のせせらぎの中で、牡丹雪の下で、あなたは私の隣にいる。私は自分の頭よりずっと高い位置にある、あなたの猫のような目を見つめている。あなたを守ってほしくて渡した首飾りがあった。けれど、紐の切れたままのそれは、今、私の服の内側にある。あなたがいない。
 もういないなんて嘘だ。
 私を置いて死ぬはずがない。私を置いていくはずがない。いつも隣に立ってくれていた人、見守るように傍にいてくれた。喧嘩もしたし、呆れられもした。馬鹿って言ってしまったこともある、子供みたいに、無視もしてしまった。折れてくれるのはローレンツくんの方だった。私の足の怪我、ねえ、今も残ってるんだよ、きっと冗談だっただろうから覚えてないかもしれないけれど、誰ももらい手がなかったら、お嫁さんにしてくれるって言ったんだよ、ローレンツくん。
 私の思い出の中にはいつもローレンツくんの存在が色濃くあって、だから、おかしいんだよ、いなくなっていいわけがない。
 でも、いないんだ、どこをさがしたってもう、きっと。だって私は、ローレンツくんのお部屋にいるんだもん。絶対に入れないって言ったローレンツくんがどこかに隠れてるって言うんだったら、今頃飛び出してきて、叱るはずだ、こっぴどく。私は、さっき、部屋に入るのを躊躇っていたんじゃなくて、待っていたのだ。ローレンツくんに「だめだ」って言われるのを。でも、もう私はこうしてローレンツくんのお部屋に入ってしまった。誰も叱ってなんかくれなかった。
 震える手で、机の引き出しに手をかける。



「怒ってよ」



 縋るように呟いた声が惨めに掠れる。
 早く、この腕を後ろから掴んで止めて。人の部屋を物色して、何をしているんだ、君は、って、呆れたみたいに私を見下ろして、名前を呼んで、って。
 だけどこの部屋に、私はいつまでも一人だ。
 引き出しを、私は開けてしまう。いつまでもそうしていたら泣きそうだったから。
 そこに詰めこまれていた紙の束には、たくさんの字が書き込まれていた。見慣れたローレンツくんの筆跡だ。書類とかそういうものでなくて、個人的な手紙か何かのように思えた。
 一度それを取り出して、机の隅に置く。他の引き出しを開けても似たようなものだ。四つある引き出しのうち、三つは彼の書きとめた文書だったから、それを全て並べた。膨大な量だった。机の上を埋め尽くし、ともすればこぼれ落ちそうですらあるそれらに何が書いてあるのかを、私はそれでも、見てはいけないものだと思っている。
 最後の引き出しも、そうだと思ったのに。
 そこには小さな箱があった。胸がどくりと音をたてて、殴られたようにすら思う。嘘だと思う。絹天の貼られた小さな箱、お母様のお部屋にもあった。小さなときに、見たことがあった。この中には、大切なものが入っているのよ、。私の宝物なの。鮮やかに蘇る、母の声。
 椅子から降りて、床に膝をつく。そうして私がそれに手を伸ばしかけたその瞬間、開け放っていた窓から強い風が吹いた。
 机の上に置いていた紙が、音をたてて宙に舞う。白い花びらのようだった。靡く髪の隙間から確かに見えた、視界に入れないようにしてきた彼の文字。へ。目が彼の残した字を追いかける。へ。ほとんどが手紙だった。或いは、詩。どうってことない日常が、今後の同盟領について彼が見ていた未来が、贖罪の言葉が。そこには確かにある。
 床に座り込んだまま、私はその紙の一枚一枚がはらはらと落ちてくる様を、じっと見ていた。花吹雪と呼ぶには、それは少し一つ一つが大きすぎたけれど、私は自分がまるで、白い花の咲き誇る庭園にいるように思えた。最後の一枚が落ちるころ、私は、一番上の引き出しに入っていた箱を膝に乗せたまま、彼の書いた文字に埋もれている。
 へ。
 へ。
 
 書き殴られた言葉が、塗りつぶされた文字が、一度は握りつぶしたのだろう紙が、私の頬を殴っていく。
 すまない。すまない。君の未来を奪ってしまった。君は僕の隣にいるべきではない。
 一体、いつどこであなたが私の未来を壊したの。瞬きをした瞬間、目に入ったその文字が。
 君を好きだった。
 ぼとりと何かが落ちる。私の周囲を埋め尽くす紙の一枚に、それは音を立てて吸い込まれて、丸い痕を残す。
 泣きたくなかった。泣いたら私は知ってしまう。もう背中を丸めて泣いたって傍にいてくれる人は居ないと。私の頭蓋を撫でる手はもうどこにもない。いつだって傍にいてくれたのに、離れていても、だから、寂しくなかった。



「ローレンツくん」



 吐き出した声は、酷く滲んで、掠れていた。
 愛している。その文字を見つけたとき、私はとうとう嗚咽を漏らして泣いた。ローレンツくん、ローレンツくん、どれだけ縋り付いても、返事はない。
 形式張った書類がその中に一枚だけあって、私はそれを見た瞬間、躊躇うことなく破り捨てて、宙に放った。今後のアレキサンドルのために必要だとおじさまが言っていたものが、恐らくそれだと知りながら。はらはらと落ちていく紙片の中、絹天の生地に包まれた箱を開ける。
 婚約破棄の意思を示す書類と一緒に置いておくなんて、ほんとに、どういうつもりだったんだろう、聞きたくても、答えてくれる人はもういないみたいだ。
 私の目と同じ色をした宝石のついた指輪を、私は震える手ではめた。左手の薬指に輝くそれは、緩くもきつくもなかった。
 それを頭の高さまで掲げて、見上げる。私の頭の後ろから、太陽の光が差し込んでいる。
 アレキサンドルに広がる麦畑を、私はその宝石に見る。



「きれい」



 私はローレンツくんが好きだった。父の墓石の前、私を迎えに来てくれたあの冬からずっと。 


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