1186年 大樹の節


 昨日までの晴天が嘘のように、その日はどんよりと重たい不透明雲に覆われていた。光を全て飲み込む厚い雲は昼間でもアレキサンドルの大地を陰らせ、雄大な穀倉地帯も今はどことなく陰鬱に見える。
 私はその日、ローレンツくんの残していた仕事を片付けていた。お兄様が亡くなり、グロスタールに併合されてからもうすぐ四年、最初は難しかったお仕事のお手伝いも、今ではできるようになっている。
 古い書簡の整理や、印を押すだけのような単純作業はこうして暇を見つけては少しずつ片付けるようにしていた。勿論ローレンツくんの作業速度に比べれば私のそれはずっと遅いけれど、ローレンツくんが次に帰ってきてくれたときに、少しでも彼が楽をできるように。
 私が座る椅子の真後ろにある大きな窓に、ぽつぽつと雨の雫が当たり始める。執務室から見下ろせる麦畑にも、先程までは何人か農作業をする領民の姿が見えたけれど、雨の予感に家に戻ったようだ。朝から続けていた仕事もなんとなく終わりが見えてきて、誰も部屋にいないのをいいことに背中を大きく後ろに逸らして伸びをする。運動不足の身体はそれだけであちこちがぼきぼきと音を立てた。
 オーランドがグロスタールの兵になる前は毎日のように訓練に付き合っていたから、ここまではっきりと身体のなまりを実感することはなかったけれど、この半年はもうほとんど屋敷に籠りっぱなしだ。自ら剣の稽古をすることもなければ、遠出をすることもない。私の世界ははっきりと縮小されていて、それを繋ぎ留めてくれていたのがローレンツくんだった。
 そのローレンツくんも王国軍がガルグ=マクで挙兵したことを受けて、グロスタールに留まるようになっている。最後に話をしたのは、私が首飾りを渡した日が最後だった。
 一度、孤月の節の中頃には近況を知らせる手紙は届いたけれど、何だか他愛のないことが書いてあって拍子抜けしてしまった。グロスタールの庭園にスミレが咲いたとか、薔薇ほどの華やかさはないけれど、その小さな花弁は可憐で愛らしいとか。見慣れたローレンツくんの筆跡になんとなく安心感を覚えて、私はそれを毎晩寝る前に必ず読み返している。なんて、本人に伝えたら笑われてしまいそうだけれど。
 最後の書類に印を終えて、解放感で机に突っ伏したくなったけれど、それをどうにか耐えたのは、突然部屋の扉が叩かれたからだ。
 私はこの時、暇を持て余したソフィーが遊びに来たのかと思った。お仕事が終わったら一緒に遊ぼうね、なんて約束をしていたから、待ちきれなくて自らやって来てしまったのかもしれないと。
 ソフィーはもう九才になっていて、最近は私との舞踏会ごっこに夢中になっている。髪を結い上げて、私が昔着ていた衣装を着て、それから部屋でくるくると回るのだ。あまり良い思い出のない衣装だったけれど、ソフィーが着ているのを見た瞬間そういう濁ったような感情は全て霧散してしまった。あまりの可愛さにはしゃいでいると、お母様に「あなたもあれくらい可愛かったのに」と言われて閉口したけれど。



「ソフィー? ちょうど今終わったところだよ」



 だけど「ごめんね、お待たせ」と言いかけた私に被さるように、思いも寄らない声が響く。



「失礼致します、様。グロスタール伯より緊急のご連絡が」

「はいっ? おじさまが?」



 思わず上擦った声が出てしまった。扉を開けるために慌てて立ち上がって、机の脚に脛を打つ。どうぞ開けてくださいって言えば良かったのだ、そんなことをしなくても。だけど私はそういう当然のやりとりすらも出来なくなるほどに狼狽していた。だってグロスタール伯から直々のご連絡を頂くようなことって、私には、瞬時には思いつかなかったから。
 ローレンツくんのお父様、それが本当にそうなるかは兎も角として、今のところ、私にとって未来の義父となる方は、アレキサンドルの併合自体はお喜びになっているとは言え、一人息子のローレンツくんを私のような小さな家の貴族と結婚させたくはなかったのだと思う。学生時代にローレンツくんも常々口にしていたように、アレキサンドルは穀倉地帯というだけが取り柄の家だ。由緒正しかろうと、紋章はとうに消え失せ、外交力もない。長いものに巻かれる形でその立場を柔軟に変えてきたから、グロスタールからしてみたら信頼のおける相手ではないだろう。
 だから、私はこれまで、こういった立場となってもほとんどおじさまとお話をしてきたことはなかった。ローレンツくんも無理に取りなそうとはしなかったからこそ余計に、婚約者とはそういう、仮初めのものでしかないのだろうなと思っていた。クロードくんの立てた策が私達同盟をこの苦境から救い出したその時、この婚約は解消されるのだろう。その時アレキサンドルがグロスタールのものとなったままであっても、私達は何も言えない。グロスタールはどうしたって恩人で、アレキサンドルはこの五年間、ずっとその恩恵を受けてきたのだから。そういう覚悟を、私はもうずっとしてきたはずだった。



「はい、どうしましたか」



 扉を開けたとき、私は初めてその物々しさに気がつく。
 アレキサンドルに長く仕える従者は、グロスタールからの使者の方を連れていた。その表情は双方硬く、唇は強く引き結ばれて色を失っている。
 その空気に、無意識に呼吸が止まる。まさか、攻め込まれたのだろうか、王国軍に。身体中の毛が逆立つような感覚がした。
 王国軍がガルグ=マクから動いたと言う話は伝わってきていないけれど、そもそも今やグロスタールの辺境の地となったアレキサンドル地方に、そういった情報はすぐに届くことはない。使者の方は、だからこそこうしてやって来てくれたのだろう。



「…………戦が始まったのですか」



 尋ねるために吐き出した声は、掠れる。
 予てより危惧していた通り、グロスタールが戦場となり、ローレンツくんが苦境に立たされているのだろうか。ならばこれは、アレキサンドルに配備されたグロスタール兵を動員することの報告だろうか。一瞬年若いオーランドが戦場に立つ姿が脳裏に浮かんで、躊躇いを覚えたけれど、もしも本当に戦が始まったのならばそうも言っていられない。



「王国軍に攻め込まれましたか? 場所は? ガルグ=マクからと考えれば、グロスタール南西部でしょうか。ローレンツくんはもう向かっているのですか、戦場がグロスタールの中心でないならば、アレキサンドルから直接兵を送り出すべきでしょうか」



 ローレンツくんには叱られてしまうかもしれないけれど、救援に行くならば私も武器を持ってグロスタールへ向かわなくてはならない。ローレンツくんも、おじさまもこの場に居ない以上、最終的な決定権は私にある。どうするべきかはしかし現状を理解せねば始まらないと、情報を整理するために並べ立てた言葉には、何一つ答えをもらえはしなかった。
 様、そう私の名を呼ぶ従者は、五年前よりも随分老けた。白髪交じりの毛髪の下、その双眸は酷く揺らいでいる。グロスタールの使者の方が吐いた息が震えていることを、こんな時に気がつかなければ良かった。「申し上げます」何の心の準備もしていなかったせいだろうか。振り絞るように吐き出されたその言葉が、すぐには染みこんでくれない。



「――ローレンツ様が、ミルディン大橋にて戦死なさいました」



 私は、それがまるで作り話のようにしか思えなかったのだ。








 俺達三人のことを本当の弟妹のように扱ってくれた、ローレンツさんが戦死したと言う。
 王国軍は帝国に進軍するために反帝国派のリーガンに使者を送り、ミルディン大橋への進軍にあわせ、グロスタールの兵を引きつけるようにと約束を取り付けた。リーガンはこれを快諾。グロスタール伯が率いた軍がリーガンに釣られている間に王国軍は無血でグロスタール南西部を通過することになる。
 結果、ミルディン大橋にて急襲の形を取られた帝国軍は猛攻を見せる王国軍に苦戦を強いられ、その戦線を崩される。親帝国派のアケロンが救援のために挟撃するも、王国軍の優れた指揮に隙はなく、戦死。また、グロスタールよりの援兵も、ミルディン大橋の砦にて全滅した。
 ミルディン大橋の陥落を受けて、リーガン家は早々にグロスタール、コーデリアに講和を持ちかける。子息を失ったグロスタール伯はこれに応じ、ここに約五年に渡る同盟の内乱は終結した。
 同盟をまとめるのは盟主のクロードという男だ。俺は元々帝国の人間で、学もないから同盟の事情には疎いけれど、どうにも胡散臭い男であるように思うのは、これまで自分が対立しているとばかり思っていた相手だったからだろうか。



「クロードくんはね、多分、ずっとこの機会を待っていたんじゃないかなあ」



 は薄っぺらい声で、ぽつりぽつりと語って聞かせる。ソフィーやノエルは泣き疲れてもうの母さんと眠ってしまったけれど、は何だかほとんどいつもと変わらない様子だった。ローレンツさんが死んだと聞かされて、人目を気にして気丈に振る舞っているだけだろうと思っていたけれど、荷物をまとめるその横顔は生来の彼女のままだ。



「……士官学校の同級生なんだったか」

「うん、そうだよ。学級は違ったけど、ドロテアさんもね。クロードくん、昔から頭が良かったから、帝国への反撃の機会を探っていたんだろうね」

「……ローレンツさんも、それを知っていたのか?」

「ん、むしろローレンツくんがそうなんじゃないかって言ってたんだ。私のは、ただの受け売り」



 グロスタールの兵になった俺は、本来ならば仕えるべき相手であるにこんな口を利いてはいけない。実際に日中、兵として彼女と会うときは畏まるようにはしているけれど、陽が沈むと、彼女は俺を「オーランド」として見てくれるから、俺もそういう風にさせてもらっている。
 反帝国派と親帝国派が講和したことにより、同盟領は帝国へ向けて攻勢に転じることになるが、それは王国という名の盾を得たからだろうと俺は踏んでいる。王国がミルディン大橋を陥落させたことで、同盟が直接帝国に攻撃される心配は随分減った。このままグロンダーズ平原へ進軍せしめんとする王国軍に乗っかり、同盟もまた帝国内に進軍するつもりなのだ。



「ミルディン大橋を使うんじゃなくて、コーデリア側にある別の橋から帝国内に進軍するみたい。……リシテアちゃんも、クロードくんの軍に加わるんだろうな」



 の部屋は、殺風景とは言い難い。小さな置物や、装飾品の類が並ぶ机の上は、整頓されているとは言え男のものと比べると雑然とした印象を与えるし、ソフィーなんかは良くあそこから物を借りてくる。耳飾りだの、髪留めだの、香水だの、そういったものを。
 荷造りをするはけれどそういったものには目もくれず、大きな鞄に衣類を詰めていた。その手元をよく見ていると、無駄な動きは一切ない。



「オーランドはアレキサンドルに残るんだよね?」



 彼女の言葉尻はどこか重く、決めつけるというよりも、そうするようにと圧をかけるような物言いにも思えた。曖昧に頷くと、は初めてその瞳に安堵の色を見せる。
 アレキサンドルに駐在するグロスタール兵は同盟軍に再編されることになるが、いずれにせよ、まだ入隊から半年ほどしか経っていない俺はどのみち居残り組だ。故郷へ攻め入ることの苦悩も隊長は考慮してくれたようだが、その辺は正直ぴんとこなかった。帝国の生まれとはいえ親はもういないし、ドロテアに武器を向けることがないならば例え帝国の地が戦場になろうと構わないように思えたのだった。



「……は、明日発つのか?」

「うん、早朝に。だからオーランドとはもう一回会えるかな?」

「ソフィーやノエルとは」

「うーん、お見送りしてくれるって言ってたけれど、寝過ごしそうだよね、あの子たち」



 大分泣き疲れていたみたいだから。どこか人ごとのように苦笑してみせるに、俺は苛立ちのような、不信感のようなものが芽生えていることを、本当はとうに自覚していた。
 は明日、グロスタールへ向かって出発する。クロードとか言う盟主は軍を再編し、コーデリアを経由して帝国領内へ向かうらしいが、自身はそこに合流する気はないという。



「おじさまにお屋敷のお片付けに呼ばれてね。グロスタールからも兵を出しはすると言っても、おじさまも自ら戦場に立たれる気はもうないみたい」



 彼女の言葉はどこまでも抑揚に乏しい。



「おじさまも気落ちしていらっしゃるそうで。私なんかが行っても役には立たないかもしれないけど、呼ばれた以上はね。どれくらいの期間になるかは分からないけれど、留守の間はお母様に全てお任せしていくから、どうかお母様をお守りしてね、オーランド」



 は。
 思わず尋ねた言葉は掠れてしまったから、本当だったら、はそれに聞こえないふりをしたって良いはずだった。だけどは荷造りの手を止めて、扉の真横に立つ俺を見つめている。
 は、悲しくないのか。
 俺はそう問いかけたかったのだ。彼女は泣きはらした様子もない目をしていた。婚約者を失った悲壮感というものが彼女にはなく、それはまるでを心のない人間のように見せてしまう。
 政略結婚だったとは聞いていた。そうしなければ帝国に同盟が蹂躙されていたのだと。
 婚約者という関係のままでいる二人の間には愛はなく、ローレンツさんはいずれを捨てるだろうと笑う人間もいた。俺はそれを殴ってしまって、実は給金を減らされたことがある。には黙っていたけれど。
 お前に何がわかると叫んだのだ。我ながら、頭に血が上ってしまった。だってローレンツさんは、少なくともを愛していた。何かあったらを頼むと俺に言ってしまうくらいに、を思っていたのだ。優しい人だった。彼が最初は、帝国の出の俺を警戒していたのだって知っている。だけど彼は俺を信じてくれた。槍を教えてくれた。見所があると笑ってくれた。背が伸びたと手の平を額に当ててくれた。まるで兄のように。
 がローレンツさんを本当にはどう思っていたのかは知らない。取り乱して泣いたりしないことを思えば、もしかしたら本当に、彼の傍にいたのは致し方なくだったのかもしれない。もしそうだったとしても、俺はを責めたりはできないけれど。兄を帝国軍に殺され、領土を奪われかけたは、もうきっと色んな物が欠けていたって仕方がなかったから。
 俺はこの前の冬に十六の誕生日を迎えていて、兵として武器を持つようになっている。共に疎開してきたソフィーやノエルに比べれば、俺はもう大人だと思っていた。少なくとも、槍ならばにだって負けない。もしも帝国兵が襲ってきても身体を張って皆を守れる。今ここで、曇りのない瞳で俺を見つめているのことだって。
 だけど、どうして泣かないんだよ、あんたは。
 言うつもりはなかった。だから開いた唇は、喘ぐような呼吸音だけを吐き出す。視界の真ん中で、は椅子から立ち上がった。柔らかな、慈しむような目をしていると気づいたのは、至近距離で覗き込まれたからだ。柔らかな手の平が俺の背を撫でる。そうされて初めて、自分の方が泣きそうになっているのだと気がついた。
 が泣かないのに泣けるわけがない。唇を噛みしめて、感情を平らにするように強く目を閉じる。の呼吸音だけが、やけにはっきりと聞こえた。顔をあげる。の乾いた双眸が、形だけ、細められる。彼女の考えていることが、俺には尚も分からないままだ。
 風が木の葉を揺らす音がする。陽が沈んだ今も尚、窓の向こうで雨がやむ気配はない。


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