僕の読み通り、王国軍は既にミルディン大橋に攻勢をかけていた。
ミルディン大橋の軍備は整っているし、ラディスラヴァ将軍が合流し、戦力も増強されたはずだ。奇襲される形にはなっているだろうが、帝国軍の優位は揺るぎないだろう、僕はそう思っていたのだ。
だが最前線と思しき地点にあたりをつけて砦の内部から加勢した僕は、フェルディナント君の隣に立ち、その惨状に息を飲む。自殺行為とばかり思っていた王国軍は破竹の勢いを見せ、このミルディン大橋に帝国軍の屍の山を築き上げていたのだった。先陣を切って戦うディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドの無謀とも思える切り込みに、帝国兵が飲まれているのだろう。王国の軍勢は突出する彼を死なせまいと決死の猛攻を続ける。
ディミトリ君の咆哮はここにいてすら届いた。人間のものとは思えない悲鳴と獣の唸り声の、ちょうどあわいにいるような音は、空気を振動させる。痛いほどに。
面影はあれど、四年前に処刑されたと言われていた、本来なら正当な王国の後継者の、あれは成れの果てだった。
僕は一度ルーヴェンクラッセの課題の協力をしたことはあったものの、五年前の学生時代において、彼と会話をしたことは数えるほどしかない。何度か共にした訓練では、紋章の影響も強いのだろうが、美しい顔からなかなか重い一撃を繰り出すものだと思った。弾かれた槍を握っていた手の平は、痺れるような痛みを残した。
「……見事な腕前だな」
そう苦笑した僕に、彼はその腕で汗を拭いながら目を細めたのだ。
それが今はどうだ。鬼気迫る表情に、落ち窪んだ眼窩。元は端正な顔立ちをしていた彼は、美しさを残したまま凄味を放っている。その口から発せられる声は呪詛と怒号だ。
周囲がほとんど見えていないのだろう。或いは、見えていて全てを屠っているのか。ラディスラヴァ将軍のものと思われる絶命した飛竜に槍を振り下ろし、その血を浴びる。ぎらぎらと光る瞳が、次の帝国兵を見据えて濁る。
話には聞いていたが、あれほどまでに人は変貌するものだろうか。
飲まれてしまいそうになるのを自覚しつつ、ほとんど誤魔化すように 「……既にラディスラヴァ将軍は討たれたのか? 随分旗色が悪いようだが」と尋ねれば、今まさに前線へ向かうところだったらしいフェルディナント君は苦々しい声でそれを肯定した。
その時僕に彼が向けた瞳は、なんと形容すべきだったのだろう。花の色をした瞳は揺らいでいた。如何な時も端然としていた彼には似合わぬ双眸だった。
何か言いたげに開かれたその唇は、一度色がなくなるまで噛みしめられる。腹の底が冷えるような感覚がしたのは、彼の背後にベレト先生の五年前と変わらぬ姿を見たせいか。かつて共に、同じ学び舎にいた、覚えのある人物たちの姿を戦場でみとめてしまったせいか。
こんな時に、どうして、自分の敵が一体誰か分からなくなってしまうのだろう。「ローレンツ」名を呼ばれ、フェルディナント君に焦点を合わせる。
「私は南下する。ここは任せたぞ」
「――おい、フェルディナント君!」
僕の呼びかけは、彼に届いていたのだろうか。身を翻した彼は、数名の部下と共に前線へと向かった。
僕は、彼が率いたその兵の中に見知った顔があったことを、本当はその時既に気がついていたのだ。
五年前の雨の日、ヴァイル殿の死した現場にて蹲るの腕を掴み上げた男の顔を、僕は忘れはしなかった。僕の口にしたアレキサンドルの併合という奇手にその目論見を阻まれ、苦々しい目をしていた。フェルディナント君の傍にいるのは、あの時の兵達だと。
その時一瞬で蘇った憎悪の感情は、しかし、君の背を見た途端恐ろしいほどに萎びてしまったのだ。
僕は苦しげな目をしてみせる君を、覚悟を決めた背を見せる君を、ヴァイル殿の敵だと声を大にして非難することはできなかった。その首を落としてやろうとも、どうしたって思えなかったのだ。
だから、僕は、本当は君にそんな顔をせずとも良いと言うべきだったのかもしれない。真面目な君は、きっと責任を感じているのだろう。だが君が苛まれる必要などないのだ、フェルディナント君。少なくとも、の未来を縛る選択をしたのは僕なのだから。
僕に背を向けたフェルディナント君は、帝国兵を薙ぎ払うディミトリ君に果敢に向かっていく。僕は彼に待機を指示されたとは言え、今からでも彼を追ってその援護をすべきなのだろう。動けなかったのは、何も彼への恨みがあったためではない。
「……は」
口の端が上がったのはなぜか。零れた自嘲の笑いは、まるで体積がなかった。
そもそも「ここは任せた」とのフェルディナント君の言葉は、本来ならばこの状況においては不可思議なものだったはずだ。僕の背後にあるこの砦は同盟領側に繋がるものであって、帝国を目指す王国軍にとっては重要なものとは言い難い。守るべきは、彼が向かったその先にこそあるというのに。だから、つまりそれは、そういうことなのだ。
この期に及んで、僕を生かそうとするのか。君は。
握りしめた槍が、ずしりと重い。
王国軍は、僕が思っていた以上に力を蓄えていた。だがあれはディミトリ君の妄執によるものが大きい。彼が一体何に取り憑かれているのかを僕が知る術はないが、あれは長くは持たない炎だ。運良くこのミルディン大橋を落としたところで、恐らくその先はないだろう。
もしかしたらクロードはそれを読んでいたのかもしれない。彼は王国との共闘を諦めていたのだろう。王国軍にミルディン大橋を陥落させ、そこから先の道を切り開くだけ開いてもらった後は、彼らの屍を超えて帝国へと進軍する。王国と痛み分けをした帝国はすぐには体勢を立て直せまい。その隙を、無傷の同盟がついて潰す、そういう卑劣で合理的な策を、クロードだったら思いつきかねない。だがここで彼の思惑に気がついたところで、僕にできることなど何もなかった。遅すぎたのだ。
そうしてそれに気がついても尚、僕は王国という犠牲を経てもたらされた平和など仮初めのものではないかと、そう考える。綺麗事に過ぎないのかもしれないけれど。
僕の描いていた理想は所詮机上の空論だったのだろう。今からでも王都に向かうべきだとディミトリ君に訴えるつもりでいた僕は、しかしそれが無駄だと既に察している。あそこまで狂いかけたディミトリ君に、人の言葉はもう届かない。ルーヴェンクラッセの彼らは彼の信念に賛同したのではない。説得しきれずここまで来たのだ。あれは恐らくいずれ瓦解する。クロードはそこまで見抜いていた。それが、僕とクロードの間にある決定的な差異だ。
その時、視界の端に鈍く光るものが見えた。
馬を操り前足をあげさせれば、蛇腹の剣がその足下に突き刺さる。顔をあげると、砦と本橋を繋ぐ連絡橋の向こうで、フェルディナント君がディミトリ君を相手にその剣を重ねている姿が見えた。先程まで彼の傍に付き添うようにいたその人は、前線から離れたこの砦までわざわざ足を伸ばしたらしい。
貴方は一体、今、何を考えて彼の傍にいるのだろうか。
五年もの間、その姿を消していたその人物は、まるであの頃と変わらない面立ちをしていた。不思議な人だとは思っていたが、まさか年まで取らないとは。これは益々人間であるかどうかが怪しい。
「……久しぶりだな、先生」
僕の言葉に、ベレト先生はその目を瞬かせる。
「……ローレンツ」
覚えていてもらえたのは光栄だ。僕は、一度貴方に課題協力の時に世話になって以降は、あまり接点がなかったから。
先生はその剣を収めるつもりはないらしい。珍しい形をした剣の切っ先を僕に向けたまま、じり、とその重心を下げた。当然だ。今の僕は、彼ら王国軍から見れば帝国の狗に違いなく、今は道を違えた敵でしかない。それでも僕の前に立ったのが先生で良かった。僕はそんなことを考えている。
彼が構えた天帝の剣、あれの力をクロードは欲していた。そんなことを不意に思い出す。自分の野望のために必要なのだと。その野望が一体何なのかを、ついぞ彼は打ち明けてくれはしなかったけれど。
もしもこれから起きる出来事全てがクロードの手の平の上ならば、この後君達王国軍は間違いなく潰れる。それがこの先のグロンダーズ平原になるのか、堅牢なメリセウス要塞になるか、はたまた帝都になるかは僕には分からないが。君達が王都に戻る道を選べないというのならば、残念だが、僕はクロードの描く未来を信じるほかないのだ。同盟のために、フォドラのために、のために。
「……ここが戦場でなければ紅茶でもご馳走したいところだが……」
は、もうずっと前からクロードを好きだった。僕はそれを知っていたけれど、幼馴染みとして、得体の知れないあの男の傍に居て君が幸せになれるとはどうしても思えなかった。
才能はあれど、欺瞞の塊である男だ。僕は、いずれ君が傷つくと思った。君は、彼の隣に立つにはあまりにも脆く、弱かったから。
あの男はきっと君には報いないとも。
「当家は帝国に従う他、生き残る術がない」
だが、それはもしかしたら、ただの独善だったのかもしれない。
僕は、だって、君のことが好きだったのだ。
表情がころころと変わって、感情が豊かで、物分かりの悪い君が。時々狡くて、のびのびとして、年相応に我儘な君が。薔薇を見たいがために雨の中でも構わずに駆け出す無鉄砲な少女だった君が。舞踏会を嫌がって、部屋に閉じこもってしまうような我の強い君が。それでも一人の男のために、過去の苦い思い出を乗り越えてみせた君が。墓前に佇み、聖句の一つも諳んじられずにいた君が。不器用で、釦の一つも真っ直ぐ縫い付けられなかった君が。
自覚したのがいつだったかなんてもう覚えてはいないけれど。幼馴染みとしてではなく、一人の女性として、僕は君を見ていた。柔らかな髪が頬を撫でる、君のその横顔が好きだった。だからその目が誰を見ているかなんて、あまりにも呆気なく分かってしまった。
君の不幸を決めつけて、君があの男の隣に立つことを許さなかった僕は、狭量だったね。
だから、すまない、君の手首を掴み、未来を奪った僕を、けれど許してくれなくてもいい。
首から下げた石を、僕は、本当は今、握りしめたくてたまらないけれど。
「悪く思わないでくれたまえよ」
王都に戻る選択を彼らが選べぬと言うのならば、帝国に加担した貴族として、この場で僕にできることは一つだけだ。
無様に命乞いなどできるものか。同盟の、クロードの目論見を話すことなど、僕にはできない。
僕はこの橋に立った以上、ここで死ななくてはならぬのだ。槍を構え、馬の手綱を握る。
、僕は君に、まともな別れも告げられなかったな。せめて、きちんと伝えておくべきだった。君が僕の枷から逃れられるように。だけど、僕が死ねば君は自由だ。だからそのまま、僕から、どうか逃げてほしい。君の最善は君が選ぶべきだ。
祈るように閉じていた目を開けた瞬間、ベレト先生の頭の奥、視界の先で、フェルディナント君がその胸を槍で貫かれ落馬する姿を見た。叫び出したいのを堪える。唇を噛みしめる。
そうだな、共に行こう。口の中でそう呟いた。
ベレト先生は相変わらず感情の読めない表情で僕を見つめていたが、やがて僕が馬を走らせ距離を詰めると、その腕を振り上げる。天帝の剣が吐く無機質な音が、戦場に鳴る。
軌道の読みにくいその太刀は、それでも最後には僕の喉元に向かってはっきりと伸びていた。
その瞬間、脳裏に浮かんだは、どうしてか、花が咲いたように笑っていた。「ローレンツくん」と、その唇が動いた気がした。何て残酷な幻だ。
今はただこの手の中に、君を抱きしめた感触だけが残っている。