ミルディン大橋は、五年前と比べれば遙かに充実した軍備を持つようになっている。
 新設された砦は増援の呼び込みを易くし、弓砲台も新たに設置された。何もかも、帝国の国境の守備を固めるためだ。とは言え、橋の先にある同盟領の内乱が終結しない以上は現実にこのミルディン大橋が戦場となることはほとんど予想されていなかっただろう。
 グロスタールというのは私達帝国にとっては二重の意味での盾だった。敵の戦力を削ぐため、そして、万が一グロスタールが反帝国派に敗北を喫した場合、我々が戦の準備を整える時間を稼ぐための。
 だから、見回りの兵が発した「敵襲」の言葉に、誰もが耳を疑ったのだ。グロスタールが敵軍との戦闘に入ったという情報は、一切入っていなかったからこそ。
 掲げられた軍旗を見て、それが王国のものであったと知ったとき、軍に動揺が走ったのは言うまでもない。合流していたラディスラヴァがフレゲトン領のアケロンへ急使を送るように指示する。彼女がグロスタールの名を口にしなかったのは、そこまでは間に合わないと踏んだのか、或いは、グロスタールの背信の可能性を見ていたためか。
 王国軍がこのミルディン大橋に到達するには、どうしたってグロスタールとミルディン地方の北部を通る必要がある。ローレンツがみすみす王国軍の通過を見過ごしたというのだろうか。それともラディスラヴァが勘ぐっている通り、裏切りか。憶測が憶測を呼び、冷静でいられなくなるのを自覚する。先日の会議で見せたローレンツの憂いた目が脳裏にこびり付いている。緊張感のないカスパルと向かい合って座った彼は、この五年で随分顔つきが変わった。



「万が一彼らの軍勢がガルグ=マクを出て帝国領土に向かってきた場合、親帝国派である君達同盟軍にも戦いに出てもらうことになるが、異存はないだろうか?」



 私はあのとき、本当に王国がこちらに向かってくる可能性は低いと見ていた。
 例えあの会議の直後、ランドルフがガルグ=マクにおいて彼らを仕留め損じることがあったとしても、彼らの兵力で帝国に侵攻するなど自殺行為だ。恐らくディミトリ達は王都へ向かう。そう考えていながらも、低い可能性の方をわざわざ言葉にして尋ねたのは、君の反応が見たかったからだ、ローレンツ。
 ローレンツは私の言葉に目線を落とすことも考える素振りを見せることもないまま「勿論」と頷いた。



「グロスタールは君達に従うよ」



 静かな声だった。その双眸に嘘はない、そう受け取ったのは、私自身が君を信じていたかったからかもしれない。
 その実心の底では穿った見方をする。随分と感情を隠すのが上手くなったな、と、腹の中で私は考えている。
 この五年、彼の周囲で起きたことの大半を私は知っていた。当事者だったのだから、当たり前だ。
 五年前のガルグ=マクの陥落を経て、我が帝国は王国と同盟に向けて宣戦布告をした。それは双方に対し同時に宣布されたものであったが、しかしエーデルガルトは先に同盟を潰すつもりでいたのだ。
 なるほど次期盟主であるクロードは厄介な男だから、彼が盟主の座についていないうちに一気に攻勢に出たかったのだろう。そのために彼女はまず、帝国との国境に程近い幾つかの領地に降伏勧告を出した。フリュムの件で内政干渉を受けるに至り力を失ったコーデリアや、アケロンの治めるミルディン地方北部は早々にこれを受け入れ、残るグロスタールとアレキサンドルの返答を待つばかりかと思えば、しかしエーデルガルトは私に特命を下したのだった。



「アレキサンドルの領主を始末してほしいの」



 腹心であるヒューベルトはその場に居なかった。帝都アンヴァルの宮城、玉座に座るエーデルガルトは、学生時代には下ろしていた髪を結い上げ、静かに私を見下ろしていた。



「アレキサンドルがどう動くかは、正直どちらでも良い。どちらかと言えば、帝国に降ると宣言されるよりも早くに動いておきたいくらい。……一番都合が良いのは、リーガンについてもらうことでしょうけれど」



 エーデルガルトの言葉を理解出来ぬほど、私は愚かではなかった。
 エーデルガルトは、アレキサンドルを見せしめにするつもりなのだ。降伏勧告を無視している状況下、或いはリーガンにつくと表明した後、アレキサンドルを潰すことでフォドラ全土にその末路を知らしめる。それは今後の王国への侵攻にも少なからず影響を与えることとなるだろう。
 実に合理的な判断だと思う。血が通っていないとも。それでも私は貴方に忠誠を誓った。貴方の行く道を、切り開いてみせると決めたのだ。貴方のためでもあり、フォドラのためでもあった。
 なのに、その命令をすぐには飲み下せない自分がいた。ヒューベルトが居たら、あの男はこんな私を鼻で笑ったことだろう。
 あの日ガルグ=マクで共に戦った彼女の姿が脳裏を過ぎる。初めて彼女と、と話をしたのは、もっと前、初夏、いや、春の終わりだっただろうか。マヌエラ先生に言伝を頼まれたのだ。元々話をしたことはなかった。入学直後の野営訓練で盗賊に襲われた際、酷い怪我を負った少女。以来なかなか授業や課題に出ることができず、合同訓練の時も退屈そうに膝を抱えて座っていた彼女を、私は詳しくは知らなかったのだ。
 決してあの一年で、私と彼女の間に大きな信頼関係が築けたわけではない。それでも彼女は、あの孤月の節、私のために剣を振るってくれた。彼女に命を救われた。帝国兵の返り血を浴びたの、どこか呆然とした瞳を、私は今でも鮮明にこの網膜に焼き付かせたままだ。



「…………フェルディナント?」



 訝しげに名前を呼ばれて我に返る。は、と目を見開けば、私を見下ろす温度の低い双眸があった。
 進言すべきか、どうするか、喘ぐように口が動くも、言葉にならない。だけど、このまま飲み込むこともできなかった。「アレキサンドルの」口にしたそれに、エーデルガルトはすっと目を細める。



「アレキサンドルの領主は……の兄だ」

「……?」



 いくら他学級の生徒で関わりは薄かったとは言え、知らぬわけでもあるまい。なのに、エーデルガルトは不思議そうにその眉を寄せるのだ。
 かつての級友の身内を殺すのは忍びない。目だけで訴えた私に、彼女は深いため息を吐く。



「それがどうしたと言うの? 未来のために必要な犠牲よ」

「しかし……」

「それとも屍の山を築き上げることの覚悟を、貴方はまだできていなかったのかしら。フェルディナント」

「…………」



 そう尋ねられれば、もう私は何も反論できなかった。 
 エーデルガルトの、私よりも薄い色彩をした瞳を見据える。彼女が戦うのは、未来のためだ。私はそれを聞かされたはずだ。ならば、私は彼女のために報いねばならない。行く道が腐臭のするものであれど、せめてその先は光が差すように。
 膝をつき、頭を垂れる。



「……陛下の御心のままに」



 そして私はあの雨の中、彼を討ったのだ。、君の兄を、この手で。
 私の命を救った貴方と同じ瞳をしていた。私は今も、あの色に囚われ続けている。








 王国軍の軍勢は、死に急ぐかのような猛攻をしかけてきた。
 恐らく先頭に立って戦う金の髪の男の怒号に煽られているのだろう。あの鬼気迫る戦いに、我が軍が押されているのは曲げようのない事実だ。王国軍を挟撃する形で援軍にやって来たアケロンも苦戦しているらしい。後方で指揮を執る王国軍の男が有能なのだ。見覚えがある。あれはセイロス聖騎士団にいた男だった。確か名は、ギルベルト。ならばアケロンが崩れるのも時間の問題か。
 ミルディン大橋を守るために帝都から送られたラディスラヴァは才がある。兵を上手く使い、借り受けた魔獣を盾にする形で王国軍の攻撃を掻い潜る。それでもその勢いは削がれることがない。
 黒い眼帯のなされていないディミトリの目は憎悪に染まり、幾人もの兵を切り伏せていく。戦意を失った兵に馬乗りになり躊躇なくその腹を貫く男の怒号と、響く断末魔の悲鳴、それはさながら地獄のような光景だった。赤黒い大量の血を頭から被りながら、さらに男は進む。獣のような咆哮をあげ、全てを殺せと叫んでいる。
 あの男、ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドがそうして無理な突撃の仕方を見せるのは、何も今に始まったことではないと私は思っている。
 彼は鷲獅子戦の折からあのような苛烈さを垣間見せていた。隊列を縦に伸ばし、横腹を突かれようと構わない。鷲獅子戦の時は、確か一度彼は陣形を整えるために前線から退いたのではなかっただろうか。だが此度の戦では、彼は決して退くことを選ばなかった。彼を見守るように戦う影があることを、彼自身は気がついていないのかもしれないが。
 ベレト先生が、そこにいた。
 ああ、本当に生きていたのだな、そう思う。五年分の月日の経過を一切感じさせないその顔つきに、士官学校での日々を目の前に叩きつけられたように思った。
 あの頃は良かった。フォドラの未来が明るいことを、決して疑いはしなかった。私がエーデルガルトと共に国を盛り立てるのだと、自分にはその力があるのだと信じていた。愚かにも。
 ディミトリの猛攻から立て直そうとしたのだろうラディスラヴァが飛竜の高度を上げた瞬間、その首に突き刺さる矢を見た。ぐらりと崩れたその身体が宙を舞う。どん、と言う鈍い落下音と悲鳴が、前線から離れた持ち場にいても聞こえた。
 敗北の二文字が脳裏を過ぎる。それでも通させてはならない。帝国の地を一歩たりとも踏ませてはならない。



「……ここは守ってみせるぞ!」



 恐らくアケロンもその命を落としたのだろう。隊列を整えた王国軍の攻勢は衰えることを知らず、勝機が既に薄いことを私は知っている。けれど、引くわけにはいかなかったのだ。
 ラディスラヴァと魔獣を失った今戦力差は歴然で、もしもこれがこのような戦いでなければ、私は部下たちにはせめて降伏するようにと言い渡したことだろう。だが、今それはできなかった。



「……私と共に最後まで戦ってくれ」



 私は、そう告げることしかできない。
 四年前、共にアレキサンドルへ向かった部下達だ。私達が奪おうとしたものは、計り知れなかったな。真っ直ぐ私を見て頷く部下達に、どうしてか、謝りたくなった。やるせなかった。
 だが恐らく、私が本当に謝罪すべきは。
 馬の嘶きが聞こえた。私は、だから、もうやめてくれと叫びたかった。これ以上君達から奪いたくなかったのだ。
 ラディスラヴァを失い混乱する前線の指揮を執ろうと敵の元へ向かいかけた私は、背後を見る。同盟両側に位置する援軍を呼び入れるための砦、かねてよりここを訪れていた彼は、そういう内部の構造に一際詳しい。後背をつくよりも前線に合流すべきと判断したのだろう。深い紫の髪が戦場の風に揺れる。鋭い眼光は何を見つめていたのか。呼吸が止まる。



「ローレンツ=ヘルマン=グロスタール、父に代わり参上した!」



 私は、グロスタールが敢えて王国軍を行かせたのやもしれぬと思っていたのだ。



「……ローレンツ」



 その瞳が私に向けられる。どこか労うような双眸だった。その眉尻は人間らしい弧を描いていた。見開いた目に砂が入る。涙が滲んだのは、そのせいだ。
 君は、気づいては居ないだろう。
 私がアレキサンドルに引導を渡したことを。君達が婚姻を結ぶきっかけを作ったのは私だということ。の兄を殺した。逃げるため、馬に跨がろうとしたその外套を掴んだのは私だ。蒼白になった顔面を今でも覚えている。あの日私の命を救ってくれたと同じ色をした瞳を。私がこの手で奪った。
 ここで謝ったところで、報われる者など一人もいない。の兄は生き返りはしないし、君達も元には戻れない。この四年で婚姻状態から一向に進まない君との関係が政略結婚でしかないことなど明らかで、つまり私は君達二人から、数えきれぬものを奪ったのだ。未来も過去も何もかもを。命も時間も戻らぬならば、私の謝罪など一体何の役に立とう。
 ならばいっそ、私は君に殺されるべきだ。



「……既にラディスラヴァ将軍は討たれたのか? 随分旗色が悪いようだが」

「……ああ」



 掠れた声しか吐き出せぬ。獣は背後まで迫っている。汗で滑る剣を握り直した。
 私は帝国の将だ。五年前、そうして生きると誓った。エーデルガルトが赤い外套を身につけ、その斧を掲げたガルグ=マクのあの夕暮れに。
 ならば最期まで、そうと決めた道を生きるのだ。



「ローレンツ」



 ローレンツの瞳がこちらを向く。



「私は南下する。ここは任せたぞ」



 すまなかった。
 この言葉を君に吐き出す場所は、地獄だ。 
 ローレンツの返事を待たず、馬を操り駆け出す。土煙の先に見える金の髪を、あれが吐き出す憎悪を、私は我が主君のため、命を賭して、彼をここで止めよう。
 剣を振りかざす。陽の光に目が眩む。
 孤月の節の終わりにしては、その日はぬるく、死ぬには良い日だった。


prev list next