1185年 孤月の節


 五年前の約束を果たすためにとガルグ=マクに再び集結したルーヴェンクラッセの生徒たちと、ディミトリを捜していたというギルベルト殿、大司教を捜し出し、帝国を打倒するという目的を持つセイロス騎士団の面々の助力を得て、ガルグ=マクの奪還のために攻め込んできた帝国の将を打ち倒した守護の節。あれから丸一節を経ても尚、ディミトリの瞳は昏いままだった。
 見るに堪えないと初めてはっきりと思ったのは、ディミトリが帝国兵を指揮していた若き将を拷問の上に殺すと口走ったときだ。あの時自分はほとんど考えもせずにあの将にとどめを刺してしまった。頽れた死体の奥で自分を見下ろしたディミトリの左目は、そんな風に一人の人間の命を終わらせた自分を馬鹿にしているようにも見えたし、一方で、泣き出す寸前であるようにも見えた。
 ディミトリは誰の言葉にも関心を示さず、ただ帝国への、エーデルガルトへの恨みを口にする。
 あの女の首だけは必ず自分が取る、と。
 最早彼を生者たらしめているのはその一念のみだったのかもしれない。ディミトリは、王都に住む人々がコルネリアの苛政に耐えかねている状況にあることを知りながらも、決して軍をフェルディアへ向けようとはしなかった。兵を向けるべきは帝都で、エーデルガルトを殺すことにより戦いは終わり、死者の無念は晴らされると彼は信じている。それはほとんど妄執だった。
 イングリットやアネットはそれについて疑問を口にした。フェリクスもまたその頑なな態度に舌打ちをし、面と向かって非難するが、ディミトリはその全てにおいて聞く耳を持たない。一方シルヴァンは俯瞰するように目を細めると「ま、余計なことは考えず、俺達は殿下の判断に従いましょうや」と口にする。敬虔な信者であるが故、大司教の捜索を第一の目的とするメルセデスは、セイロス教団と同じく帝国に大司教がいると考えているらしく、むしろディミトリの判断を好意的に受け止めていた。学生でなくなった彼らは、もうあの頃のように一枚岩にはなれない。



「僕は難しいことを考えるのは苦手なので……」



 そう言いながらもどちらが最善であるかについて思案を巡らせるのはアッシュだった。小柄だった背丈はこの五年で伸び、目線はもうほとんど自分と変わらない。勿論アッシュだけでなく、他の皆もそれぞれ変わった。風貌に限った話ではなく、中身も。アッシュはあのガルグ=マクでの戦いの後ローベ家に臣従していたが、当時の主君が帝国に降ったことを受けて下野している。特に顔つきが変わったように思うのは、アッシュが流されることなく、自分の意思を持ってこの五年を生き抜いたがためなのだろう。
 そんな彼が不意に「もしもドゥドゥーが生きていたら、殿下もまた少しは違ったのでしょうか」と、ほとんど独り言のように呟くのを、自分は返す言葉もないままに聞いている。
 ディミトリは亡者に囚われているらしい。そう言葉にしてしまうことは簡単で、けれど、その実彼の心情に寄り添うには遠すぎる。彼は四年前、コルネリアにフェルディアで政を担っていた伯父を殺した暗殺犯として仕立て上げられ、そして、処刑の執行が宣布されていた。
 元々王国の騎士であったギルベルト殿はそれを疑い、独自にディミトリの足取りを追っていたらしい。処刑の様子や遺体が秘匿されていたためというのもあったが、彼がディミトリの生存を強く確信したのは、処刑の報せがあった一年後に、とある事件が相次いだのがきっかけだと言う。
 帝国軍小隊への前触れのない襲撃、王国内での帝国将官の惨殺事件。その手口は凄惨で、人の手によるものとは思えないものだったらしい。
 槍で貫かれた腹、千切れた四肢に折れた首、人を人とも思わぬその所業と彼とを結びつけることは本来ならば困難であったはずだが、それを可能とするのはブレーダッドの紋章を持つディミトリの他にいないのではないかとギルベルト殿は直感で思った。ディミトリは心優しい人物だった。彼は深い憎悪と孤独の中に、身を置きすぎたのだろう。そうギルベルト殿は語る。
 そして実際ギルベルト殿の予感は的中する。ディミトリは生き延びていた。コルネリアによる処刑の前日、ドゥドゥーによってその身を救われたのだ。そして、ドゥドゥーはディミトリの身代わりとなって命を落とした。
 それから四年もの間、ディミトリは一人渦巻く絶望と憎しみに喘ぎながら、槍を振るい続けている。地面から生える無数の腕にその足首を掴まれたまま、彼は今も孤独の直中に居る。
 彼から何もかもを奪った相手がエーデルガルトであるというのならば、彼女を討つことで彼は救われるのだろうか。名を呼べど、言葉を降らせど、ディミトリの心には何一つ響かないなら、自分は彼に何をしてやれるのだろう。
 共に頭を悩ませ、答えを与えてくれるソティスはもういない。








 四年前、帝国が王国に攻め込んだのは、同盟の内乱によるものも大きかったが、コルネリアによって政変が起こされたためでもあった。彼女は実権を握るや否や、帝国軍をすぐさま王国内に受け入れた。その結果帝国の侵攻が早まったのは否定できない。
 彼女は軍を再編して、抵抗を続けるフラルダリウス地方に兵を向ける。



「後手を踏んだおかげで防戦一方でしたよ。正直、今でも厳しい戦いを強いられています」



 そう自分に向かって苦笑を浮かべて見せたのは、フラルダリウス家の当主であるロドリグ殿だ。
 いくら今回ガルグ=マクの防衛に成功し、帝国軍を撃退したとは言え、このまま帝国に進軍するのは現実的ではない。こちらが勝利を収めたのはほとんど奇跡と言っても良く、これから先も帝国軍の襲撃が続けば、間違いなくガルグ=マクは落とされると見て良いだろうという話は、守護の節、第一波の軍勢をどうにか撥ねのけた直後にギルベルト殿が口にしていた。
 援助の要請先として白羽の矢が当たったのが、この数年間コルネリアの率いる公国軍を相手取り戦い続けているフラルダリウス家だった。
 フラルダリウスも公国勢の侵攻を受けて手一杯ではあるだろうが、それでも当主であるロドリグ殿はこちらの援助要請を快諾してくれた。さらに、前節の終わり、アリルにて食糧を供出してくれた彼は、ディミトリの父親との約束を果たすためにと隊列に加わったのだった。これにはロドリグ殿の息子であるフェリクスが「自領を放っておくとは何事だ」と苦い顔をしていたが、実弟に領地を預けてきたらしい。「実の弟ながら、頼りになるやつですよ」と笑っていたが、ロドリグ殿は恐らく、ディミトリを、彼の行く先を案じているのだろう。
 実際ロドリグ殿はディミトリに向かってはっきりと、帝国ではなくまずは王都に兵を進めるべきだと進言してみせた。今やフェルディアは酷い有様だと彼は言う。税は重く、言論も統制され、暴動を起こせばそれが女子供であろうが容赦なく殺される。耐えかねて逃げ出した民は野垂れ死に、都に残る彼らは最早死ぬのを待つだけと未来を諦めていると。
 それでもディミトリは帝国へ向かうとの言葉を翻すことをしなかった。ロドリグ殿も、それ以上は暖簾に手押しと判断したのだろう。呆気なく引き下がると、「ただ、忘れないでください」と、その口調とは裏腹に、まるで父親が子供に言い諭すように、彼は続けたのだった。



「世の中には復讐のために剣を取る、その力も余裕もない者たちがいるのです」



 ロドリグ殿の言葉は、多少なりともディミトリの心に何かを残したのだろうか。
 ディミトリは何も答えはしなかったけれど、眼帯のなされていない方の瞳が僅かに揺らいだのを、自分はその時確かに見た。








 ロドリグ殿には、ディミトリの復讐心を否定し続けて欲しいと頼まれたが、具体的にどうしてやるのが相応しいのかを自分は分からないまま、今に至る。
 ディミトリの方針が変わることはない。彼の目的はあくまでエーデルガルトを殺すため、帝都アンヴァルを狙うことだ。ここから直接帝都を目指すには、まずガルグ=マクの南部に広がるオグマ山脈を迂回する必要がある。その時に選ぶ経路として最も現実的なのは、既に帝国により制圧された王国領土ではなく、ここより東の同盟領を経由する路だ。
 聞いたところによると、同盟は今内戦状態にあるという。リーガン家のクロード率いる反帝国派と、帝国を支持するグロスタール以下、同盟領の南部に位置するいくつかの家が睨み合っている状態らしい。
 ロドリグ殿曰く、帝国は当初、王国ではなく同盟を侵攻するつもりでいたようだ。ガルグ=マクでの戦いから数節後、帝国への臣従をすぐには表明しなかったアレキサンドルがその標的になって当主が殺されたという事件は、同盟領内に留まらず当時のフォドラを騒然とさせたと言う。



「アレキサンドル……」



 五年もの間眠りについていたらしいとは言え、体感としてはほとんど一瞬であったと言っても良かったが、それでも記憶の底からその名を探らねばすぐにのことに思い当たらなかったのは、彼女の朗らかさとその物々しい出来事がなかなか結びつかなかったせいでもある。同盟領の話は内乱が起こっているということの他にこれまで詳しくは聞いてこなかったが、あちらもなかなか厄介そうだ。
 ロドリグ殿が立ち去った後、室内に残って広げられた地図を見つめていた自分の向かいにある椅子を引いたのはシルヴァンだった。大方、先程のロドリグ殿と自分の会話を聞いていたのだろう。



「いやー、アレキサンドルでしょう? 四年前、その話を聞いたときは俺も驚きましたよ。まさかあんな場所が狙われるなんてねえ」



 イングリットとアッシュの二人も足を止めたのは、恐らくその内容のせいだろう。



「ええ……。見せしめとしての兄君が殺されたことで、後の王国領内にも間違いなく影響が出ました。特に、西側はそうよね、アッシュ」

「……そうですね。ローベ伯が大した抵抗もせずに帝国へ降ったのも、その事件が根底にあったからだと思います」



 苦々しげに表情を歪ませるアッシュは、学生の時分からと懇意にしていた。恐らくその当時は心配していたことだろう。アッシュのことだ。駆けつけられる距離にあればきっと彼はそうしたはずだった。



「それで、アレキサンドルは帝国に降ったということか」



 以前ギルベルト殿に現在のフォドラの情勢について教えてもらった時、アレキサンドルが親帝国派に名を連ねていたのを思い出す。自分の言葉にさっと顔色を変えたのはアッシュとイングリットで、二人は言い淀むように一瞬目線を落とすが、彼らが再び口を開くよりも先に、シルヴァンが「ああ、それなんですけどね」と、ほとんど何てことのないように切り出した。



「そう単純な話ではないんですよ。帝国は当主不在となったアレキサンドルを傀儡として、そこを足がかりに同盟内を蹂躙するつもりでいた。当時の当主は代替りしたばかりのの兄上。確かヴァイル殿って名前でしたっけね。彼を失ったアレキサンドルは、力を失ったも同然でした」



 或いは体制を立て直す時間があれば、が当主として後を継ぐことももしかしたらあり得たのかもしれませんが。シルヴァンはほとんど抑揚のない声で続ける。



「ただ、帝国はその時間を与えなかった」



 降伏勧告を受けたアレキサンドルは、成す術もなくそれを受け入れることになったと言う。自分はそれに首を傾げる。



「帝国がアレキサンドルをその支配下に直接置いたならば、もう同盟自体が消滅していて然るべきだろう。……だが、現在同盟は未だフォドラに存在している」

「そう、そこなんですよ先生。同盟は侵攻されるに至っていない。それどころか、今実際に帝国の攻撃を受けているのは御覧の通り、ファーガスです。つまり、アレキサンドルが帝国の傀儡となるのを防いだやつがいるんです」



 随分回りくどい話し方をするものだ。ややうんざりしたような気持ちになるが、その場にいるイングリットもアッシュも、神妙な顔でシルヴァンの言葉を聞いている。



「それが誰だかわかります? 窮地に陥ったアレキサンドル家のご令嬢、を救ったのが、一体誰か」



 会議室の大きな長机、そこに広げられたフォドラの地図を漫然と眺めた。
 アレキサンドルは、リーガンとダフネル、それからグロスタールを結んで三角形にしたとき、丁度その中心線の先に存在する、あまりにも小さな領土を持つ家だった。その気候と肥沃な土地が幸いして、その領土の大きさにらしからぬ穀物の収穫量を誇るアレキサンドルは、同盟領内の台所とも呼ばれていると言う。
 地図だけで見れば帝国領からは遠く離れた地にあるアレキサンドルだが、一度これが帝国軍に占領されてしまえば、隣接するリーガンは一溜まりもないだろう。同盟全体が窮地に追い込まれるのは明らかで、ならばアレキサンドルを奪われるわけにはいくまいと策を練るのはクロード=フォン=リーガンただ一人であるように思う。
 しかしクロードの名前を口にしかけたその時、向かいに座っていたシルヴァンの口角が僅かに上がっていたことに気がついた。こんな時に不意に思い出されるのは、学生時代のシルヴァンの言葉だ。



「あの子がクロードに洗脳されちまうんじゃないかって心配なんですよ」



 鷲獅子戦が終わったばかりの赤狼の節、二人で薄い色の空を見上げていたあの日。シルヴァンは物わかりの悪い自分に「心配だどうだっていうのは、俺じゃなくって、ローレンツの話ですって」と続けたのだ。
 アレキサンドルの南に大きく広がるグロスタールの文字に、目をやる。



「…………ローレンツか」



 自分がその名を口にした瞬間、どうしてか、アッシュの頬が僅かに引きつったような気がした。



「そう。ローレンツは、アレキサンドルを自分ちに併合しちまったんです」



 併合。
 この机に広がるフォドラの地図を見て「ああ、これ、古いな」と、少し前にそう言ったのは誰だったか。徐ろに筆を取ったシルヴァンは、そこに描かれたアレキサンドルの文字の真上で一呼吸置くと、その名を呆気なく塗りつぶしてしまう。「……併合」上手く理解できなくて、口の中で呟いた。その領土も、領民も、全てを吸収したということだろう。考え得る方法としてはいくつかあるが、時間のない中で手っ取り早く行うとすれば、それは。



「……婚約をしたのです、二人は」



 自分の脳内の言葉を引き継ぐように、静かな声音でイングリットが告げた。



「――そうしてグロスタールがアレキサンドルを統治下に置くことで、あいつはアレキサンドルごと同盟を守ったんですよ」



 結果、帝国は同盟に侵攻するための足掛かりを失うことになった。ローレンツの機転と咄嗟の判断力が同盟を救ったことになったのは言うまでもなく、そして同盟はそれを機に内乱に突入したという。



「だからもしもローレンツがいなければ、如何なクロードと言えど、もう同盟はとっくに潰れちまってたでしょうね」



 そうしたら、王国の今も多少は変わっていたのかもしれない。だが、それはもう今ここで空想したところで何の意味も成しはしないだろう。
 反帝国派と親帝国派の内乱は、この半年で激化しているらしい。その内輪もめに乗じて、自分たちの次なる目的地であるミルディン大橋まで東進するのだ。
 いくらフラルダリウスの援軍を得たとは言え、余分な兵力がない以上無駄な争いは避けたい。リーガンに協力を要請し、グロスタールの兵を引きつけておいてもらう、そういう手筈は既に打っていたし、先日クロードから返ってきた書簡にはそれを了解する旨が記されていた。その間にミルディン大橋を陥落させてしまえば、帝国の支援を受けづらくなるグロスタールは身動きが取れなくなるだろう。
 そんな中、低い声で呟いたのはアッシュだ。



「……次の戦い、もしもクロードが親帝国派の兵を引きつけるのに失敗してグロスタールに挟撃されたら、同盟の……ローレンツや、と戦わなきゃいけないんですよね」



 かつてガルグ=マクで共に過ごした人間を相手に武器を持つ。それは彼らにとっては耐えがたいことだろう。特にアッシュもイングリットもとは親しくしていたからこそ。その顔色は暗い。



「……まあ、をローレンツのやつが戦場に出すとは思えないけどな」



 その時、呟かれたシルヴァンの言葉は、きっと自分の耳しか拾い上げなかった。
 顔をあげて彼の顔を見据えれば、シルヴァンは僅かに、困ったように眉尻を下げて、そうと思わねば分からぬほど薄く微笑んでいた。それはどこか、見ようによっては、苦しげにすら見える微笑だった。


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