ベレト先生が生きていたとローレンツくんの口から聞いたとき、私は嬉しいとか、そういう、本来ならば人として浮かんで当たり前の感情が、動揺に塗りつぶされてしまったのを感じていた。
先生が姿を消してからもうすぐ五年、生きていたにも関わらずその間全く彼の話を耳にすることがなかったのは、誰かが匿っていたということなのだろうか。こんな状況になるまで表舞台に現れなかった先生は、もしかしたらすぐには動けないような怪我を負っていたのかもしれない。そして、五年が経って武器を持てるまでに回復した。そう考えるのが自然だ。
「……ベレト先生」
呟きながら薄暗い部屋の天井を見上げる。私が士官学校に通っていた一年を除けば、ずっとこんな風にして眺めていたものだ。枕元に小さな灯りをつけていたせいか、私はそこにうっすらとできた染みの形が、なぜだかベレト先生の後ろ姿のように思えてしまう。
勿論先生のことは心配していた分、生きていたと聞いて安堵もしたし、嬉しい気持ちだって当然ある。だって私は学生時代、学級の違うベレト先生に剣の稽古をつけてもらったり、ちょっとしたことを相談に乗ってもらったりと、良くしてもらっていたから。
だけど、この状況において、手放しに喜んで良いのだろうかと我に返ってしまうのだ。
ローレンツくんが何か考え込むような顔を見せているのは、その生存が同盟にとって吉と出るか凶と出るかは分からないということを示しているのだろう。それを私は察してしまった。
それはなんだか、寂しいことだけど。
実際、ベレト先生は私達レスター諸侯同盟の完全な味方というわけではない。彼は五年前に受け持っていた生徒を見捨てることはしないだろうし、事実、ベレト先生のいるガルグ=マクにはセイロス騎士団だけでなくかつてのルーヴェンクラッセの生徒たちも集結しているという。
同盟は王国と直接敵対しているわけではないけれど、彼らと協力関係には至っていない以上、ここに来て突然その生存が明らかになったベレト先生の存在を素直に心強く感じて良いようにも思えなかった。そもそも私達は、表向きは親帝国派だ。同盟領北部の反帝国派に対してなら兎も角、私達が彼らに敵と見なされる可能性は充分に高い。
王国軍がどう動くかは、現状では分からない。かつての彼らならば、きっと占領された王都の奪還に向かうだろうけれど、生きていたらしいディミトリくんは人が変わってしまったようだと言う。この五年、一度は処刑される寸前であったディミトリくんがどういう手段でか逃げ延び、泥水を啜って生きていただろうことは想像に難くなかったけれど、あの穏やかな彼がどれほどの変貌を遂げたのかは、私には想像もつかなかった。
帝国側も直接領内に攻め込まれる可能性を視野に入れているらしい。そうなった場合、親帝国派の筆頭であるグロスタール家のローレンツくんは戦場に赴かなければならなくなる。いや、それならばまだマシな方かもしれない。
ガルグ=マクから帝国領に入るのに、険峻なオグマ山脈を降りていくのは現実的ではない。西の王国領か、東の同盟領を迂回するのが自然であるけれど、わざわざ完全に制圧された王国領西部を通過するなんて危険な手段を取るはずがない。彼らは消去法で東を選ぶはずだ。その場合王国軍が通過せざるを得ないのは、グロスタールとアケロンさんの治めるミルディン地方北部ということになる。つまり、親帝国派を掲げる同盟領が戦場になる可能性すらあるのだ。
万が一そうなった時、クロードくんたちに挟撃される、なんて可能性はクロードくんの思惑を考えればありえないだろうけれど、表面上で敵対関係を演じている以上は彼らからの救援は望めない。
こんなことを考えてしまう自分を嫌悪してしまうけれど、最悪の可能性を考えるとどうしても落ち着かなくて、やっぱり私もいざというときは戦場に立ちたいという結論に行き着くのに、そういうとき、どうしたってローレンツくんの険しい顔が脳裏に浮かんでしまうのだ。
「もしも最悪の事態になれば、僕が何とかする」
ローレンツくんはそう言ってくれたけれど、胸がざわつく。停滞していたはずのフォドラが動き始めているのを肌で感じる。「僕がいなくなって本当にどうにもならなくなったら、君は自分でどうするのが最善かを考えて欲しい」だなんて、ローレンツくんはなんて酷いことを言うのだろう。
ローレンツくんは、明日の朝アレキサンドルを発つ。次にやって来るのはいつになるか分からない、彼がそう言うのはいつものことだったけれど、それをこんなに不安に思うことがあるだなんて思わなかった。
「……う〜……」
毛布にくるまって呻けど眠気はやって来ない。守護の節である今、普段ならば寝台の中でも寒さに震えるくらいなのに、じっとりと身体が汗ばんで気持ち悪かった。
何度も何度も寝返りを打って、それでも全く時間の流れは変わらないし、いろんなことが忙しなく頭を巡る悪循環に陥る。この守護の節の間には、ランドルフさん、という帝国の将軍が兵を率いて直接ガルグ=マクへ向かうことになっているらしい。
なんとなくその名前には聞き覚えがあるような気がしたけれど、どれだけ記憶を探ってもぴんとこなかった。もしも知っている人であったとしてもこのまま忘れていた方が良いのかもしれない、と思う。だって、ディミトリ君や先生達と戦うということは、そのランドルフさんという人と彼らのどちらかが間もなく斃れるということだ。
私は、どういう心構えでいればいいのか分からなかった。
先生たちに死なれるのは嫌だ。ルーヴェンクラッセの、イングリットちゃんやアッシュくん、シルヴァンさん、私と仲良くしてくれた彼らが、こんなところで死んでしまったらと思うとぞっとする。でも、彼らがガルグ=マクでの防衛戦において帝国軍に打ち勝ったとき、もしかしたらその矛先は、次はローレンツくんに向くかもしれない。そういうことを考え出すと頭がぐるぐるして、吐き気がする。
いや、違う、白状させてほしい、喘ぐように思うのだ。これらが全て綺麗事だと私は既に知っている、と。
私はとうとう起き上がった。寝間着の上に着るための羽織を取って、そのまま扉を開ける。
ローレンツくんがアレキサンドルの屋敷にやって来たときに使うお部屋は執務室の正面にあった。しんと静まりかえった階段へ向かう。窓の外で、冬の、冷たく鋭い風が吹いていた。階段を一段一段確かめるように上りながら、手にしていた羽織を肩にかけて、自分の身体の正面あたりで、手探りで留める。
こんな夜中にお部屋に行くなんて、ローレンツくんに怒られてしまうだろうか。足下を照らすほどの照明はぽつぽつとつけられているけれど、それ以外の灯りと言えば窓の外に浮かぶ星くらいだ。従者も、侍女の姿もどこにもない深夜の屋敷は、ひっそりと静まって、私の足音だけが響いている。
眠っているようだったら、何も言わずに帰ろう、心の中でそう決める。そうしたら明日の朝、もう少しお話する時間をもらえばいい。それが叶うかどうかは別として。
だけど、そういうのって結局逃げなのだと思う。私はこの五年、そうやってローレンツくんと向き合うのを避けてばかりいた。今は聞けない、動くのは怖い、そう言って、ソフィーやノエル、オーランドを盾にして、まるで平和な仲良しこよしを演じてきた。
ローレンツくんが触らないのは私の中にずっと置いてあった心臓の形をした何かだ。私はそれを知っていて、自分でも手の届かないところに置いていた。私にもこれがなんなのかはわかりません、そう言っていれば、許されると思ったのだ。彼がいつか正しい答えを出してくれると思った。その答えがなんであっても、私は受け入れようと思った。他力本願もいいところだ。
ローレンツくんの使っているお部屋が視界に入る頃、私はふと、向かいの執務室から灯りが漏れていることに気がつく。どく、と胸が鳴る。彼もまた起きているのだ。こんな夜半であるというのに。
私は思えば、いつもローレンツくんを頼ってばかりいた気がする。自分の感情を隠すことなく、臆さずぶつけられる相手は彼だった。無視をしても、馬鹿なんて言ってしまっても、最後に歩み寄ってくれるのはいつもローレンツくんの方で、だから私は甘えてばかりいた。だけどもう、そういうのもおしまいにした方が良いんだろう。隣に立ちたいと思うなら。
抱きかかえられた十七の春、あれから五年が経つ。
「……ローレンツくん」
深呼吸してから扉を叩けば、ややあってその奥から人が動く気配がした。
私は目の前の扉が開けられるのを待ちながら、自分の胸に二つある首飾りに触れる。魔除けの石を加工した飾りが模されているそれは、一つが士官学校に入学する折にお父様からいただいたもので、一つがお兄様の形見だ。そのうちの一つを首から外した丁度その時、「?」と名前が呼ばれた。薄闇に目が慣れていた私の虹彩が光を取り込みすぎたせいで、目が眩む。そういうことにしてほしくて、細めた目を伏せた。
落とした視線はローレンツくんの足下に向かう。こんな時間でも、何かお仕事を片付けていたのだろう。申し訳なさと緊張と、彼に対する憧憬とが恐ろしいくらいに混ざり合って、鼻の奥が痛くなる。
「こんな時間にどうした。……眠れないのか?」
甘えられたら良かった。五年前のように言いたいことを言えたら良かった。こうして向かい合っても、昔には戻れない。
「……ううん、あ、いや、眠れないは眠れないんだけど。その、渡したい物があって」
私達はそうするにはもう色んなものを背負いすぎていたのだろう。「これを」と、不思議そうに首を傾げる彼に、手渡した。私がずっと肌身離さずつけていた首飾り。魔を撥ねのけますように、そういう祈りがこめられたそれは、戦場に向かう人に渡すには願掛けにもならないのかもしれないけれど。
こんな時に、私は五年前を思い出す。孤月の節、ガルグ=マクに迫っていた帝国の大軍を前に、ヒルダちゃんがおまじないのように呟いてくれたあの瞬間を。あの時ヒルダちゃんがくれた腕輪は、もうほとんど私の一部だ。私にはこれと、お兄様の形見があるから、大丈夫。だからどうかお父様、お兄様、この人をどうか、どうかお守りくださいと。
「ローレンツくんを、守ってくれますように」
身体の脇にあった彼の手を取って、首飾りと一緒に両手で包み込んだ。
そうしながら泣きそうになっていることに気がついた。ここで泣いたらだめだ。彼が戦場に出ると決まったわけではない。これが永遠の別れになるわけがない。そうならないための祈りじゃないのか。泣くな、泣くな。
泣くな。
その時、ぐ、と腕を掴まれた。そう思った。だけど、瞬きの後、私は自分の身体が抱きしめられていることに気がついた。他でもないローレンツくんによって。
呼吸が止まったのは、身体を締め付けられているせいだ。何の力加減もなされていないそれは、ほとんど突発的で、感情によるものが大きかったのかもしれない。ローレンツくんが背中を丸めても、背の高い彼の顔はどうしたって私の頭の上だった。それなのに、身体中が熱を持ったように思えた。
ローレンツくんの身体越しに視界に入った、見慣れた執務室が、まるで自分とは無関係の場所であるように思える。燭台の灯りに目が眩んだ。点滅する視界はほとんど貧血の感覚に似ていた。抱きしめられながら、私は驚きのあまり、ついさっきまで確かにこみ上げていたはずの涙がすっかり止まっていることに気がつく。
は、と、頭上でローレンツくんが吐息を零したような気がした。どれくらい時間が経ったか、徐々に彼の腕の力が抜けていくさなかも、私はどうしたらいいか分からなかった。
彼は掠れる声で呟いた。彼の腕の中は、温かかった。
「…………すまない」
でも、少なくとも、私は彼に謝らないで欲しかったのだ。
首を振って何とか顔をあげれば、泣き出す寸前のような顔でローレンツくんは私を見下ろしている。私は自分もまた彼と似たような表情をしているということを、知らない。
1185年守護の節、末日。ガルグ=マクを再び陥落させるべく進軍したランドルフ将軍率いる帝国軍を、王国軍は奇跡的に打ち破る。さらに天馬の節に入ると、公国勢との戦いに明け暮れていたフラルダリウス家の援軍を受け、王国軍は勢力を伸長。そして孤月の節、彼らは兵を再編し、進軍を開始した。
不当に奪われ苛政のさなかにある王都フェルディアではなく、帝国本土へ向けて。