ローレンツくんがアレキサンドルに来てくれるのはしばらくぶりだった。
元々脂肪の付きにくい、すらっとした体躯をした人だったけれど、何だか以前顔を見たときよりも痩せてしまっているような気がする。出迎えた私やソフィー達に、彼は何だか疲れたような目で笑った。
「大事はなかったか?」
「……うん、おかげさまで」
おかえりなさい、そう言いかけた時に丁度ローレンツくんが口を開いたから、その言葉は飲み込まざるを得なかった。だけど、丁度良かったのかもしれない。ローレンツくんがアレキサンドルに来るとき、彼が「ただいま」とは決して言わない時点で、私も軽率にそういう言葉を使ってはいけないような気がしていたから。
北はおじさまが始めた軍事衝突の後処理、南はミルディン地方の盗賊討伐に、帝国との会議。彼の予定が詰まっていることはその都度耳にしていたけれど、やっぱり大変だったのだろう。ソフィーが飛びついても、ノエルが話しかけても、ローレンツくんはきちんと受け答えはするもののどこか上の空であるように思えた。
お母様が気を利かせて、ローレンツくんに纏わり付く二人を連れて行ってくれると、彼ではなく私の方がほっとしたような気持ちになってしまう。彼の好きな茶葉を使ってお茶を淹れる。四年前は渋いばかりのお茶を出してばかりだった私も、さすがに上達した。温度も濃さも丁度良い塩梅だ。心を落ち着かせてくれる香りに、自分自身を褒め称えたくなってしまう。
「父君の命日には顔も出せずにすまなかった。今、屋敷に来る前に挨拶はしてきたのだが」
「どうもありがとう。今日は特に冷え込むし、墓地の方も寒かったでしょう。はい、お茶どうぞ」
「……頂こう」
布張りの長椅子に身を沈めるローレンツくんの前に、湯気の立つ茶器をそっと置くと、彼は柔らかくその眦を細める。それでもそこには拭いきれない翳りがあるように思えた。机を挟んで向かいの椅子に座ると、私は彼の顔をじっと見つめる。
切れ長の瞳も、通った鼻筋も、彼の顔を形作るそれぞれは、幼い頃からさほど変わっていないように思うけれど、それでもずっと大人びた。ふとした瞬間に彼が見せる憂いを帯びた表情は、まるで知らない誰かのように見える時がある。貴族として、領民を守るため、そういう責務を当然のように抱えて、決してその辛さを口に出すことはしない人だ。私は彼を尊敬しているし、そんな彼を支えていきたいと思っている。
じっと見つめていたらさすがに視線が煩わしかったのか、ローレンツくんは僅かにその眉根を寄せて私を見つめ返した。やっぱりその表情はどことなく疲れているようであったけれど、それ以上に、何かを言いあぐねているようにも見えた。この場合、彼が言葉を詰まらせているのは私に対してとしか考えられなくて、私はすっかり困惑してしまう。
ローレンツくんは誰に対しても思ったことをすぐ口に出す人だった。勿論それは五年前までの話で、今の彼がそうだというわけではない。少なくとも私はここ数年、ローレンツくんの本心が見えていないし、どうしたら前のように接してくれるかも分からない。私達は、そういう意味での距離はもしかしたら、制服を着ていた日々よりも離れてしまっているのかもしれなかった。
「ローレンツくん」
でも、さすがにもう、遠慮してばかりいる自分にも嫌気が差してしまったな。
私がローレンツくんの名前を呼んだとき、彼は一度だけ瞬きをしてから私を見つめた。彼の手元にある琥珀の液体は波打つこともしないまま、ただじっと息を潜めるようにそこにいる。
「なにかあった?」
もしもそうだと言うのなら、何でも打ち明けてほしいと思うのだ。
私は、だってローレンツくんの幼馴染みで、一緒に士官学校で学んだ同級生で、そして今はもう婚約者という間柄だ。グロスタールとアレキサンドルは今となっては運命を共にしているし、私はローレンツくんほど頭も良くなければ機転を働かせることもできない。けれど、それでもローレンツくんの背中を支えてあげることくらいはできる。もしも望んでいないっていうんだったら、そうだな、私は引っ込んでいた方が良いのかも知れないけれど、でも、やっぱり私がローレンツくんの隣にいたいと思っているのだ。あの時私を救ってくれた恩返しとして。
ローレンツくんは私の言葉に、その瞳を分かりやすく丸くしていた。こういう、表情に出やすいところが、私は好きだな、と思う。
「どうしてわかった?」
そのまま尋ねるローレンツくんに、私は思わず破顔してしまった。
「わかるよー」
何年一緒にいると思ってるの、そう続ければ神妙な顔でローレンツくんは空に目線をやる。計算しているのだと分かったのは、彼が「……十五年ほどか?」と指の付け根あたりを口に当てて呟いたからだ。
「まあ、士官学校に入学するまでの十年は疎遠だったけどねえ」
「君が舞踏会に出てこないせいでな」
「ああ〜、えへへ」
笑って誤魔化すと、ローレンツくんは何だか呆れたような顔で目を細めた。笑っているようにも見えたから、ほっとした。
その笑顔に、祈るように思うのだ。ねえローレンツくん、と。
私達の間に十年の空白はあれど、その後の五年は真っ新な白を埋めるにあまりあるくらいに色鮮やかだったよ。私達を埋め尽くしたその全ては、明るく輝くようなものばかりではなかったけれど。
私はだから、ローレンツくんがそんな顔で何もかもを背負い込んでしまうのは、嫌だな。
「だからね、なんでも話してよ」
もう少しこの机が小さければ、私はもしかしたらこの時、ほんの少しだけ勇気を出して彼の手の甲に触れるくらいはできたのかもしれない。だけど執務室の机は幅が広くて、立ち上がって、身を乗り出しでもしなければ互いに触れることはできなかった。もしも今そんなことをしたら、はしたないって叱られてしまう。それが分かったから、私は微笑むに留めたのだ。
「私達はもう一蓮托生だよ」
そういうふうになるのを覚悟で、私達を守ってくれたのはあなただ。
ローレンツくんが、一瞬息を飲んだように目を見開いた。そのままずっと凝視されてしまって、目を逸らすに逸らせず、私は少しだけ困ってしまう。だけどどれくらいそうしていたか、やがてローレンツくんが私から視線を落として、肩を震わせ始める。これには面食らってしまって、つい座っていた腰を浮かせてしまいかけたけれど、垂れた髪をかきあげて顔をあげたローレンツくんは、困ったみたいな顔で笑っていたから、私の唇の端から息が漏れる。
泣いているのかと思ってしまったのだ。
「……そうだな」
目を細めたまま口元だけを笑みの形に保たせて、だけど、彼が真に笑っていないのは私の目から見れば明らかだった。ローレンツくんが足を組む。このときになって初めて私は自分が緊張していることに気がつく。何を言われるかなんて、さっぱり思いつきもしなかったのに。その唇が、逡巡を失って動く様を、私はただ眺めている。「」と、彼は呼ぶ。
「先生が生きていたんだ」
ほとんど唐突に、ローレンツくんがそう言った。
に今回の件をどう切り出すべきか迷っていた。
話さないという選択肢がなかったわけではない。彼女を出来ればそういうことから遠ざけておきたいと僕が考えていても、自身がそれを望まない以上は、それは僕の独り善がりだ。だけどそれでも、僕は君に、ソフィーやノエル、オーランドや君の母君と、アレキサンドルのこの屋敷で安穏と暮らして欲しかった。こんなフォドラで、それがどれだけ贅沢な望みであるかは知っていたけれど。
一蓮托生とは言った。だが僕達の関係は最早一蓮托生と言うよりも、唇歯輔車だろう。口にはしなかったけれど。アレキサンドルにとってはグロスタールが、僕にとっては君が、唇であり歯であり、骨だ。なくなれば互いに駄目になる。君にとってはどうだか分からないから、僕はそういう重荷になるような言葉は、すべて飲み込んだ。
今伝えるべきは、現在のフォドラを覆う現状だ。
ガルグ=マクにセイロス騎士団が集結していること。どうやら彼らと共に、ルーヴェンクラッセの生徒達を含めた王国軍が、死んだとされていたディミトリ君をファーガスの正当な後継者として据え兵を挙げたらしいということ。その中には、ずっとその行方が分からなくなっていたベレト先生がいるらしいと。
「――先生って、ベレト先生?」
はベレト先生とは学生時代それなりに懇意にしていたようだったから、その驚きは僕よりも大きかったのだろう。僕が頷いたその瞬間、見開かれた瞳の奥に、一瞬だけ喜びが滲んだのを僕は見逃さなかった。
ベレト先生が彼女に課題協力を申し出たあの翠雨の節を、僕は今でもはっきりと覚えている。あの時、ベレト先生は結局のところ手伝ってくれるならば誰でも構わなかったようだったが、あれがきっかけでとはそれなりに長い冷戦状態に陥ってしまったのだった。そういえば、学級移動の申し出も彼女は受けていたはずだ。直接相談されたわけではなかったけれど、後でその話をクロードから聞いたときは驚いた。
それほどまでにベレト先生はに何か思うところがあったのだろうか。リシテア君のように特別努力家でも才があるわけでもない彼女を、あんな半端な時期に勧誘するその意図が読めなかった。
いずれにせよ、そこには多少なりともベレト先生から彼女への情、或いはそれに類似する何かがあったのだろうと思う。何も十把一絡げに恋だなどと言うわけではない。物事に特別な執着を見せる性格ではない彼は、に断られたことでその情を包んで片付けてしまったのだろうけれど。
の方も似たようなものだ。彼女が四方八方に分け隔てなく振りまく親愛の情、その一つに繋がっていたのがベレト先生で、だからこそ、その生存情報を彼女は顔に出して喜ぶ。難しいことを考えずに、そのまま口に出してしまえば良かったのだ。「先生が生きていることが嬉しい」と口にしたって、罰なんか当たらない。たとえここが親帝国派を掲げる地であったとしても、それを密告するような人間などどこにもいないのだから。
けれどはぐっと感情を飲み込んで、頬を押さえてみせた。
「じゃあ先生達はガルグ=マクを拠点にしてるってこと? え、それだと、でもなんか、大変じゃない?」
「彼らがどう動くかは分からないが、間違いなく情勢は変わるだろうな。普通に考えれば公国軍に制圧されている王都の奪還を目指すのだろうとは思うが……僕はディミトリ王子ではないからね。どうやら人が変わったようになっているらしいし、今後の彼らの動きは読めない」
帝国にとって一番影響がないのは、彼らが動き出す前にベルグリーズ家のランドルフ将軍がガルグ=マクを制圧することだろうが、そのためにどれほどの軍を用意できるのかは定かではない。帝国にとっての前線はここではなく、遙か王国国内だ。
一方でラディスラヴァという勇猛な将が天馬の節の中頃にはミルディン大橋の防衛につくらしいとは聞いているが、彼女が今節、ガルグ=マクを攻める軍に合流することは難しいと聞いた。こちらの兵を貸せと言われぬだけましか。
「いずれにせよ、万が一彼らが帝国領内に進軍しようとしたとき、こちらも武器を持たねばならぬだろうな。それも、反帝国派との小競り合いとは違う、大規模な戦になるだろう」
「い、戦……」
「もしかしたらその時、グロスタールが戦場になる可能性もある。その時は」
「その時は私も戦場に出る」
そう言うと思ったから、全てを飲み込んだままでいるべきかもしれないと思ったのだ。
「だめだ」
低く、諫めるような声音で吐き出せば、は僕の言葉に怯んだように唇を噛みしめた。
「君はアレキサンドルにいるんだ。もしも最悪の事態になれば、僕が何とかする」
「……何とか、できなかったら?」
「……君はこれから戦に出るかもしれない人間相手に縁起の悪いことを言うのだな」
「ご、ごめんなさい、でも、だって」
執務室の机は、どうしてこんなに幅が広いのだろう。
いつもそうだ。僕達は向かい合って座るから、大事なときに手を伸ばすことも出来ない。俯いたの頬を撫でてやることも。だけど、そんなことをして拒まれたら僕はきっと立ち直れないから、それで良かったのかもしれないな。
僕は君が安穏と暮らせれば良いと思っている。僕がいなくとも、君達はここで守られていれば良いと。だけどそれは現実的ではなくて、もしも僕が王国軍に敗れることがあったとき、その先がどうなるかを僕は読めない。クロードが上手くひっくり返してくれるのか、それとも全ては帝国に飲み込まれることになるのか。或いはそれ以外にも選択肢があるのか。
君を縛るようなことは言えなかった。だからこれは、君を困らせる言葉だと僕は知っていたのだ。
「――僕がいなくなって本当にどうにもならなくなったら、君は自分でどうするのが最善かを考えて欲しい」
だけど君は「最善」が読めないほど、愚かではないだろう。
僕はその時、意識的に俯いていたから、僕の言葉に君がどんな顔をしたのかを、今も知らないままだ。