自分の中から確かに失われていたはずの少女の声で目を覚ました。
寂れた村の片隅で見た空は夜明けの寸前で、薄く白んだそこに一つ二つと消えゆこうとしている星があった。手を伸ばしかけて、身体が酷く重いことに気がつく。 大丈夫か、と声をかけられて目線をやると、見覚えのない男が自分を心配そうに見下ろしていた。
「あんた、川から流れてきたんだよ」
どうやら彼は自分を助けてくれたらしい。まるで幽霊でも見るかのようなその瞳は、怯えと心配とがきれいに半分ずつ混ぜ込まれているように思えた。
男曰く、ここはガルグ=マク大修道院の麓の村らしい。話しているうちに調子づいてきたのか、或いは自分の受け答えが思いのほかはっきりとしていることに安堵したのか、彼は何も知らない様子の自分に驚きながらも、べらべらと話して聞かせてくれる。
ガルグ=マクはすっかり寂れてしまったこと。根強く住んでいる人もいるにはいるが、あの頃の面影はとうに失われていること。セイロス教団は去り、陥落から五年が経った今は寂れて盗賊の住処となっていること。
「五年?」
呟いた言葉に、目の前の男ははっきりと不審を露わにした。
ガルグ=マクが帝国軍の強襲を受けたあの日、自分は先陣に立って剣を振るった。しかし帝国軍を率いていたエーデルガルトはこちらよりよほど上手だった。
長い間準備をしていたのだろう。膨大な数の兵士の投入、彼女が用意していた援兵の中には大量の魔獣が居た。必然と前線が下げられる。生徒を逃がし、倒れていく騎士たちの死体の中、それでも立ち向かおうとしたその時、大司教が自分に言った言葉が。
言葉が。
「……なあ、あんた大丈夫か?」
今は、1185年、星辰の節。
はっきりと一つ一つの単語を区切って聞かせる男に意識を戻され、思わずその双眸をじっと見た。この男が嘘を吐いているようには思えない。記憶を探る。自分はあの日、魔獣に吹き飛ばされて崖下に転落した。奈落に落ちていく感覚は今でも鮮明で、ただ、自分があの時何を考えていたのかは思い出せない。
高度から落ちる時、人は途中で意識を失うと言う。それが自分にも引き起こされていたとして、ならば、それから五年近くの間、自分はずっと眠り続けていたとでも言うのだろうか。大修道院が陥落したことも知らず。ただ、川の中で。
ソティスか。
「本当なら明日は千年祭の日だったが、それどころじゃねえからなあ」
思考を遮られ、彼の方に目をやる。千年祭、聞き覚えのある単語に、思わず目を瞬かせた。
どこで聞いたのだったか。彼の言葉が正しいのなら、それは五年前だ。あれも星辰の節だった。千年祭。その時には、また皆でここに。
「だけど、この戦争ばかりのご時世、それに大司教様も行方知れずとくりゃ、この世の誰だって祝福なんて気持ちにはなれんだろうさ」
戦争ばかり。行方知れずの大司教。
五年の間に一体何が起きているのかを、ここにいたところで知ることは出来ない。だがもしもあの子たちが、あの時の約束を覚えているのなら、そこに彼らはきっと現れてくれるだろう。
ガルグ=マクへ向かうと言い放った自分を、男は必死で止めるが、背中で聞きながら歩き出す。盗賊だけじゃなくて、最近帝国の部隊が何者かによって全滅させられているのだと、今、ガルグ=マクは危険なのだと、男は叫ぶ。そこに胸騒ぎのようなものを覚えるのは、どうしてか。
濡れた服が重く、星辰の節の風はほとんど凶器のようにも思えたが、立ち止まることは出来なかった。自分が流れてきたと思しき川に沿って歩く。ふとその水面を見れば、恐ろしいほどに記憶と違えぬ姿の自分が映っているから、目を逸らした。この上流に、ガルグ=マクはあるらしい。
馬はないが、徒歩でも休まずに進めば、約束の日である明日までには着くだろうか、ソティス。
無意識のうちに呼びかけてしまって、息を吐いた。ジェラルトの死の後、ようやく彼女がいなくなったことにも慣れたのに。今し方見た夢のせいで何もかもが振り出しに戻ってしまったように思えた。
ガルグ=マクに続く山の麓をひた歩く。酸素は、まだそこまで薄くない。
しかし本当に五年の月日が流れたと言うのなら、どうして自分の身体は全く成長していないのだろう。いくら子供でないとはいえ、多少はその風貌に変化が見られていて然るべきではないだろうか。背丈どころか髪も伸びておらず、声もそのまま。自分だけ時の止まった部屋にいたとでも言うのだろうか。
ソティスの力が作用した。そう思えば、しかし何も不思議ではなかった。
戦争は続いているらしい。ガルグ=マクは陥落し、大司教は行方不明、帝国兵が調査のためにガルグ=マクにやって来たということは、今フォドラを牛耳っているのはアドラステア帝国で間違いない。しかし、争いが続いている以上、未だ統一には至っていないと見てもいいはずだ。ならば王国はどうなったのか、同盟領は。士官学校に居たあの子たちは。
ディミトリは。
答えてくれる存在は、ここにない。
ガルグ=マクは廃墟と化していた。
人の姿はなく、先ほどの男が心配していた盗賊の気配も今はない。ただ、血の臭いが残っていた。
賑わっていた市場は荒れ果て、朗らかで人当たりの良かった門番はいない。瓦礫の隙間から伸びる雑草は、過ぎた年月を物語っている。玄関ホールに入ることは出来たが、柱には大きな亀裂が入っていた。大広間を通り抜ける。燭台の台座部分が根こそぎなくなっていたのは、盗賊に奪われたためだろうか。
舞踏会で散々踊りに付き合わされた五年前を思い起こす。真っ先にクロードに手を取られて、こういうのもありなのかと呟いた自分に彼は声をあげて笑った。アネットの軽やかな足運びが、カスパルとラファエルの傍で、舞踏会の空気そのものにどこか居心地悪そうにしていたアッシュが、途中でシルヴァンが姿を消してしまったと怒りを抑えきれぬ様子で周囲を見回していたイングリットが、自分の脳の中にぱちぱちと音を立てて思い起こされる。あれが、皆が笑っていた最後の記憶だろうか。
大聖堂へと続く橋を渡る。その橋を越えた辺りから、帝国兵の死体は転がっていた。比較的新しいものだ。点々と続くその身体を辿る。あらぬ方向に手足が折れ曲がった、人間だったもののその上で、空が焼けていた。すぐに陽が昇るはずなのに、吸った酸素は肺を凍らせるほど冷たいように思えた。
死体の数を、無意識に数える。二十を超えたあたりで、やめた。女神の塔の上階へと続く階段は、特に酷い有様だった。槍で貫かれた裂傷痕、その腹から流れる血は赤黒い。
石の壁に反響するのは自分の足音だけだ。五年が経つと世界が言う。あの男が、この大修道院が、自分の身体以外の全てのものが、容赦なく。
その間、彼らは絶望していたのだろうか。
女神の塔の最上階だった。
突き当たりの奥の壁際、差し込む光から逃げるように、彼はそこに居た。
槍を抱え、蹲ったその金の髪には血がこびり付いて、自分の足音に反応して動いた眼窩は落ち窪んで、酷く昏い。
五年の日々が地獄だったと、その目が語る。恵まれた体躯はさらに筋肉がつき、座っていても、自分の知る彼より一回りは大きくなったように思えた。目が合った瞬間、眼帯のなされていない左目が微かに細められる。昨日自分を助けてくれた男の瞳が脳裏を過ぎった。まるで幽霊でも見ているかのような顔をするなと、あの時ぼんやりと思ったのだ。だが、違う。
今自分に向けられているこれこそが、この世にあらざるものを見る者の目だ。
お前まで。そう彼は言った。それは、低く掠れた声だった。
「……お前まで、俺の前に現れるのか」
ディミトリ。
自分はお前があそこで、死んでいるのかと思ったよ。
口を開き、こうして揺れたお前の声を聞いた、今でも。