1185年 冬
お父様が病で亡くなられてから五年、フォドラはかつてとはすっかり色を変えてしまっていた。
帝国の侵攻を受けたファーガスはディミトリくんという次期国王を失い混迷の渦中にあり、同盟領は帝国の目を逸らすために内乱を演じ続けている。帝国のみがその勢力を伸長させている状況なのは言うまでもなく、王国の西部は既に帝国への臣従を表明して久しかった。
かつてフォドラの中心にあったガルグ=マクは今も崩落したまま放置されていて、時折帝国軍が調査のために向かうことはあれど、今では盗賊の住処となっているらしい。あの辺りは最早信者が祈りのためにと向かうような場所ではなくなってしまっていた。最近ではガルグ=マク付近で帝国の小隊が何者かによって全滅させられたとも聞く。あの賑々しくも荘厳な聖地は、今やその影も形もない。
ガルグ=マクの落成から、今年でちょうど千年が経とうとしている。
こんな情勢でなければ、本来ならば今頃ガルグ=マクではかつてないほどの規模での千年祭が開かれることになったのだろう。フォドラ中の信徒やかつての士官学校の卒業生たちがガルグ=マクに集い、大々的にこの日を祝福したはずだ。しかし大司教はあれから五年が経っても行方不明のまま、セイロス教の信者やセイロス騎士団たちは、今も散り散りになってフォドラの北部を中心にレア様の捜索を続けている。陥落から数節の間は信者や騎士の方を領内で見かけることや、声をかけられることだってあったけれど、アレキサンドルが親帝国派を表明してからはその姿を見ることはほとんどなくなっていた。帝国ではセイロス教が弾圧されているから、彼らが親帝国派である諸侯を警戒するのも当然のことだった。
レア様は一体どこにおられるのだろう。無事であればと願うくらいしかできないが、しかし、ガルグ=マクでの戦いから五年近くが経った今も、私はレア様や、同時にその行方を眩ませたというベレト先生の噂を一度も聞いたことがない。
彼らはもう、この世にはいないのかもしれない。
だって二人が生きていたら、きっとこんな世界にはなっていない。
帝国の兵は依然王国内に割かれているとは言え、昨今の同盟領南部の治安は悪化の一途を辿っていた。村を襲う盗賊の根絶に至らないのだ。ローレンツくんはここ数年、ミルディン地方の盗賊の討伐に追われている。
一方でリーガン率いる反帝国派とのこの停滞した状況を良しとしないのはおじさまで、積極的な攻勢に移ることを止め続けていたローレンツくんをミルディン地方の平定に注力させる一方で、この夏にはとうとう兵をまとめてリーガンへ攻め込んでしまった。これまで続いていた小競り合いなど比ではない、大きな軍事衝突だった。
アレキサンドルに駐留していたグロスタール兵もまとめて出兵させられることになってしまって、気が気ではなかった。春にグロスタールの兵に志願したオーランドが、その隊列に並んでいたからだ。
そもそも実際のところ、私はオーランドが兵になることにだって反対していた。まだ十六歳、他の新兵よりも二、三は若い彼は、例え槍の扱いに長けていると言ってもまだ体格が完成されていない。でも当の本人は私の心配を余所に、何食わぬ顔で武器を持って小隊の一員としてリーガンに向かってしまった。
結局クロードくんの采配により、グロスタール兵は街道にて奇襲を食らいその進路を塞がれ、少なくない被害を受けながらも撤退を余儀なくされる。アレキサンドルの駐留軍は幸運なことに前線から離れていたらしく、犠牲者も怪我人もないままに帰還した。
グロスタールの軍勢をなんの被害もないままに撃退せしめたことから、クロードくんは盤上の鬼神との異名がつくことになる。この戦い以降、親帝国派と反帝国派の小競り合いは活発化していった。名実ともに、内乱状態へと陥りかけてしまったのだ。ローレンツくんはこの件に関して、特に頭を痛めていた。
「今回の戦いで、クロードの策を阻んでしまった可能性がある」
父の動きが読めなかった僕の失態だと、苦々しく呟いたローレンツくんに、私はお茶を淹れて隣に座っていることしかできない。
実際これを受けて、同盟内は益々混乱の一途を辿っていった。あちこちで小さな争いが頻発するようになり、どこが安全なのかも分からない。さらにその混乱に乗じて盗賊の動きは活発化され、悪循環に陥っている。ローレンツくんは何度もミルディン地方に向かわねばならなくなった。本来そこを治めているアケロンさんに任せておくわけにいかないのは分かるけれど、その対処のせいでここ数節の間、ローレンツくんは西へ東へと駆けずり回らざるを得ない状況に陥っているのだから、やきもきもしてしまう。
私にも彼の仕事を少しくらいお手伝いさせてほしいのに、彼は私をアレキサンドルから出す気はない。
「ローレンツさん、もうずーっと来ないね」
そんな彼の不在についてはっきりと文句を口にするのは、意外なことにノエルだった。
十一歳になった今、ミッテルフランク歌劇団の劇団員だった女性を母に持つノエルは益々その美しい外見に磨きがかかり、侍女からは特別に可愛がられている。ただ、反抗期を迎え始めたのか、不必要に話しかけられることを嫌って、最近は良く書庫の死角になるところで座りこんで本を読んでばかりいた。
放っておくと前髪も伸ばしたままの彼は、自分の見た目に関してはとんと無頓着だけど、本を眺めているときの彼の横顔は、目がぱっと見開かれていて、きらきらと輝いていた。そんな横顔を見ていると彼のためにも新たな本を用意してあげたいとは思うのだけど、アレキサンドルに直接商人が来ることも少なくなっている以上、なかなか手配もしてあげられなかった。
そんな中でもローレンツくんはアレキサンドルを訪れる度に、いつもグロスタールのお屋敷から数冊の本を持ってきてくれていたから、ノエルはソフィーやオーランドの二人以上に、ローレンツくんの来訪を首を長くして待っているのだ。
一方でソフィーは随分と落ち着いたように思う。
「お姉ちゃんが寂しがっちゃうでしょ、もっといっぱい来てくれないと駄目だよ」
以前ローレンツくんが用事を済ませるためだけに数刻ほどアレキサンドルの屋敷に寄った際、そんな風に一丁前なことを言うものだから、私は彼女を引きずってローレンツくんから遠ざけた。ちょっと前までは抱えて走ることだって簡単だったのに、四年の月日は口調ばかりでなくその背丈を大きく成長させる。私自身は四年前から、ちっとも変わっていないように思うのに。
「ソフィーだめだよ。ローレンツくんが困るでしょ?」
「あのね、お姉ちゃん。きちんと伝えないとなーんにもわかんないんだよ? お姉ちゃんは今わたしが考えていることを当てられる?」
「え……ローレンツくんとちゃんとお話しして欲しい? とか?」
「違うー。今日のご飯はシチューがいいなあ、だよ」
「ほんとだ……言われないと全然分からない……」
ソフィーの明るい笑い声に救われたような気持ちになるけれど、それでもやっぱり私達はずっと、「婚約者」という看板を背負い続けているだけだ。
私達の間にはいつも子供が一人入るくらいの空間がぽっかり空いていて、二人分の影は何者かによって縫い止められている。二人きりになるときは、アレキサンドルの執務室。馬車の中。墓石の前。その皮膚に触れたのは、いつが最後だっただろうか。
互いの部屋へは決して入らず、非常識と言われる時間帯に顔を合わせたことは、彼がリシテアちゃんからの手紙を届けてくれた二年前に一度だけ。見えない線を引き合って、それに触らないように細心の注意を払う私達は、雁字搦めにすらなり得ない。
「でも、戦争が終わったら結婚するんだもんね。それまではローレンツお兄ちゃんも頑張らないといけないんだよね」
「……そうだねえ」
大した会話も出来ないままにすぐにグロスタールにとんぼ返りしてしまったローレンツくんを見送りながら、ソフィーは大人びた口調で首を傾げる。誰の真似をしているのか、仕草だけは私よりもずっと女性らしく、年相応であるようには思えなかった。
私は全く現実味のない未来を思い描く。戦争が終わることも、結婚することも、全てが遠いことのように思えた。このまま一歩も事態が動かないまま、十年、二十年と過ぎ去りますと誰かに予言されようものならば、私はそれを鵜呑みにすることだろう。
或いは、ローレンツくんが本当にお嫁さんにしたい人に出会ったとき、この、同じところをぐるぐると回り続けるだけのような生活は終わりを告げるのかもしれない。その時、優しいローレンツくんはきっと私に何も言い出せずにいるだろうから、私から切り出さなくてはいけないな。「どうか、本当にグロスタールに相応しい人と結婚してください」と。
五年前から私は彼にそう言っていたはずなのに、思った瞬間、胸が方々から引っ張られたかのように痛んだ。
馬鹿みたい。
綺麗に結われたソフィーの頭を撫でる。その背はもう私の胸あたりまで伸びていた。ノエルはセイロスの書を五章まで諳んじられるようになったし、オーランドは今年の春からグロスタールの兵だ。私達が全てを失ってから重ねた日々は確実にこの子達を成長させているのに、どうして私だけが一歩も動けずにいるのだろう。
ローレンツくんは今も同盟のために動いている。今となってはその思惑がほとんど読めないクロードくんもきっと。
だけどこの星辰の節をもって、この戦況が大きく変わることになるだなんて、きっと誰も想像してはいなかった。