1184年 秋


 フラルダリウス家を中心としたファーガスの東部地方の有力貴族達は、帝国の後ろ盾を得ているコルネリア率いる公国軍に未だ抗戦していた。
 ディミトリくんの処刑があってから、既に三年が経っている。あの直後にすぐさま軍を再編し、抵抗が想定されうる地に兵を送り込んだコルネリアの手腕は見事なものだったけれど、後手に回って防戦を強いられたフラルダリウス家の当主であるロドリグ卿も今日に至るまで戦況を維持できるだけの地力があるのだから、ファーガスの盾の異名も伊達ではない。
 ファーガス国内は政変があって以降、コルネリアによる苛政が続いている。重く課せられた税に、耐えきれず起こる暴動は、武力によって制圧される。
 ファーガスはその気候から元々痩せた土地が多く、作物も充分に育たない。民たちが飢え死ぬのも道理で、フェルディアであってすらそれは変わらないらしい。無辜の民が犠牲になることは、例え国を違えていても耐えがたいものがあった。
 しかし王国最後の砦である東部地方の抵抗は、少なくともあと二年はもつだろうとローレンツくんは予想している。その二年の間に、同盟の内戦は収束するのだろうか。
 王国での混乱が波及したせいもあるのだろう、最近は同盟内でも夜盗の被害や予期せぬ小競り合いが頻発するようになっていた。先日も、アレキサンドルに駐留しているグロスタール兵が近隣の村を襲った盗賊の討伐に向かったばかりだ。
 同盟内が不穏な情勢に陥って久しい中、先日リシテアちゃんから届いた手紙には、しかし懐かしい名前が記されていた。



「先日レオニーに会いました」



 癖のない、流れるような美しい字だ。無地の便箋に、その文字は定規で測ったように真っ直ぐ記されている。



「ケント領からの商人の護衛の任の途中だったらしく、そう長くは話せませんでしたが。のことを心配していたので、元気にやっていますと伝えておきました」



 その文章を見て、瞬きをする。その度に、じわじわと染みこんでいく何かがあって、それがしっかりと脳に浸透してからようやく「わーっ」と声をあげてそのまま手紙を頭上に掲げてしまった。手紙に嬉しいことが書いてあると、こうして天井を仰いでしまう癖があるとは先日ノエルに指摘されたけれど、やっぱりやってしまった。
 数日前から収穫された作物の輸送についての手続きのためにアレキサンドルに訪れているローレンツくんが、不思議そうな顔で書類から顔をあげる。



「……何が書いてあったんだ?」



 今この喜びを共有できる人がすぐ傍にいることが、嬉しくてたまらない。



「レオニーちゃんに会ったんだって! リシテアちゃんが!」

「レオニーさん……? ああ、確か彼女は傭兵をやっているんだったか」

「うん、そうみたい。ケントからコーデリアに来る商人さんの護衛をしているところに偶然会ったんだって」



 いいなあ、私も会いたいなあ。執務室の柔らかな椅子に沈みながらそうぼやくけれど、その可能性自体があまりにも低いことは、私だって理解している。
 学生時代にお父様がご子息との縁談を持ってきたことが記憶に濃く残るケント家は、丁度ゴネリルとコーデリアに隣接する領地を持っている。ケント領は反帝国派に属しては居るけれど、リーガンやゴネリル、ダフネルと違って、商人や、国に属するわけではない傭兵や一般人の通行は許可していた。
 その受け口になるのがコーデリアであるからこそ、リシテアちゃんは護衛の任を受けていたレオニーちゃんと顔を合わせることができたのだろう。羨ましいけれど、内戦中である以上、リーガンやダフネルに続く街道が封鎖されている今、アレキサンドルにまでレオニーちゃんがやって来ることがあるとは思えない。



「……でも元気にやってるなら良かった。きっとレオニーちゃんも、すーっごくきれいになってるんだろうなあ」



 レオニーちゃんだけでなく、ヒルダちゃんも、マリアンヌちゃんも、大人っぽく成長しているはずだ。だって、最後に会ったのはもう三年半も前のことなのだから。ラファエルくんは益々身体が大きくなっていたりするのだろうか。イグナーツくんも、あの頃はまだ幼さの残る顔立ちをしていたけれど、きっと優しげな面立ちはそのままに、好青年になっているんだろうな。
 かつての同級生達に思いを馳せる私に、ローレンツくんは何か物言いたげに視線を寄越す。思わず彼を見返してしまったけれど、ふいと目を逸らされてしまった。
 ローレンツくんもあれから大分雰囲気が変わっている。片側だけ伸ばした髪は既に鎖骨の下についていて、その毛先がまた全く傷んだ様子もなく、指通りもさらさらなのだ。いや、触ったことなんてないから指通りに関しては想像の域を出ないけれど。
 でも、皆が彼を見たらきっとびっくりするんだろうな。今の彼だったら、クロードくんと会ってもその隣で変に張り合ったりはしないだろう、多分。
 自然と緩んだ口元をリシテアちゃんからの手紙で隠したら、ローレンツくんはほんの少しだけその眉を寄せたけれど、何も言葉にはしなかった。








 会いたいか。
 手紙を抱きしめて上機嫌に笑っていたにそう尋ねかけて、口を閉じた。答えがわかりきっている問いかけほど、愚かなものはない。そして僕はその答えを彼女の口から聞けば、恐らく傷つくのだ。ならば初めから、なかったものとして飲み下しておくべきだ。
 僕達がガルグ=マクから落ち延びて三年半、彼女は僕とリシテア君、それからドロテアさん以外の同期生と顔を合わせてはいない。
 僕自身も親帝国派の筆頭として立つ以上、この数年でアドラークラッセに所属していた生徒とは何度か話をする機会はあった。アケロンが役に立たないため、彼の代わりに向かったミルディン大橋の視察中出会ったのはベルグリーズ家のカスパル君と、今はほとんどその力を失ったエーギル家のフェルディナント君だ。カスパル君の方は学生時代と変わらず朗らかなものだったが、フェルディナント君には探るような目を向けられた。
 あれが正常だ。僕達は守るべきものが違いすぎる。では、同じ物を背負ったはずの仲間達はどうなのか。かつて同じ教室で机を並べていたヒルシュクラッセの皆とはすっかり疎遠になっているのに。
 皮肉なものだな、と思う。学生の頃は、卒業をすればこれからの同盟のために彼らと力を合わせることができると思っていた。いや、実際にはこの状況はそうと捉えるべきなのかもしれない。だけど表向きには、僕達は互いに武器を向け合っている。
 これがフォドラ全土を巻き込んだ戦である以上、如何なクロードと言えどすぐさま解決できるものではあるまいが、それでも長引けば長引くほど、僕はどうしたら良いのか分からなくなる。自分が先延ばしにし続けている問題は、どれだけ思いを書き殴ったところで解消されるものでもあるまいと知っていたのに、それでも僕はグロスタールに戻れば、贖罪のように筆を持つ。
 あそこに書きためたものの一万分の一でも口に出来ていれば良かった。その笑顔が殺したものをこの手に乗せるべきだった。今からでも遅くないと、けれど誰に言われても、僕はやっぱり動けないのだ。
 君はクロードが好きだっただろう。そう口にすることが出来ない。ヒルダさんよりもレオニーさんよりも、誰よりも、クロードに会いたいのだろうと、聞けない。僕ではなくクロードに守られるべきだったのではないか。僕は今でもそう思っている。
 何か一つでも間違えていたら、アレキサンドルはリーガンの庇護下に置かれたこともあっただろう。アレキサンドルは当初、リーガンに追従しようとしていたのだから。もしもヴァイル殿がもう少し早く動き出していれば、きっと帝国に介入される隙は与えなかったはずだ。それが叶っていれば、彼は今も彼女の隣に立っていたのではないか、そんなことを思ってしまうのだ。
 リシテア君からの短い手紙を何度も何度も読み返して相好を崩すを視界の端に入れて、ため息を吐きたいのを堪える。








 ここ最近のオーランドの槍捌きは見事なもので、互いの槍先が触れた瞬間、力の入れ方を間違えれば腕ごと持って行かれそうになるから気が抜けなかった。
 アレキサンドルに来たばかりの頃は良く剣を振っていたように記憶しているが、そちらよりも槍の方が彼には向いていたらしい。己の得手不得手を理解したオーランドは、槍に関してはその体格差もあってかとうとうにの腕前を超えてしまったらしく、に半泣きで頼まれた結果、アレキサンドルに滞在する間は僕が彼の指導をすることになっていた。
 オーランドはこの冬で十六歳になる。この三年間で彼の背はぐっと伸び、細身ながらも武器を振るうのに必要な筋肉がついた。毎日のようにグロスタール兵やと鍛錬を重ねていた彼にそれだけの力がつくのは自明の理で、本来ならば成長を喜ぶべきなのだろうが、はそれを当然のこととしつつも、自分自身に落胆してしまっているのだ。
 この少年は時折変に相手を見透かすところがあって、のことは勿論、僕の考えていることまで言い当てるときがある。大人の顔色を窺う癖が昔から抜けないのだと、の知らないところで彼が打ち明けてくれたことは記憶に新しい。
 この日も、オーランドは僕の燻った感情について「またが何かしましたか」とまるでどちらが保護者なのか分からないような言葉で尋ねたから、僕はすっかり気を抜いて笑ってしまった。
 彼の口が固いこと、敬語が抜けないのは不信感からではなく尊敬の意味合いが強いこと、の母君を真に思ってくれていること、三年の月日は僕にそれを知らしめるには充分で、だから、僕の方だってもう随分前から彼のことを信頼に足る人間だと認めている。僕は彼を、ほとんど弟のように思っているのだ。
 兄の威厳を保つため、弟にはあまり弱々しいところは見せられない。だから多少は強がって、虚勢を張ってしまう。



「……のことと言うよりは、今更どうしようもないことを考えてしまうだけさ」

「どうしようもないことですか」

「ああ」



 オーランドの榛色の瞳がじっと僕を見つめる。昔の僕が聞いたところで信じることはないだろうが、多少の見栄や強がりで膜を張ってはいるものの、僕が自分の本心を打ち明けられるのは、今、彼くらいしかいないのだ。
 誤魔化そうかと考えたが、それでもこの双眸から逃れられる気はしない。大したことではないがと前置くのは忘れず、僕は言葉を細かく句切りながら呟く。



「……何か一つでも間違っていたら、アレキサンドルは反帝国派に名を連ねていたんじゃないだろうか、と」



 彼は僕の言葉に、考えるように目線を空に彷徨わせた。そうしてどれほど黙り込んでいただろうか。



「……もしもそんなことになっていたら、俺達はアレキサンドルにはいませんね」



 彼がアドラステア帝国で過ごし続けた日々を、僕は詳しくは知らない。もきっとそうだ。
 だけど、ドロテアさんが彼らをアレキサンドルに連れてきたのは、間違いなくこの地が親帝国派として帝国への従属を表明したからだろう。そのことについて関連付けて考えたことは、これまでなかった。思わず目を丸くしてしまった僕に、オーランドは気遣ってというよりも、てらいもなく続けた。



「だとしたら、俺はあなたがアレキサンドルを救ってくれたことにこれ以上ない感謝をしなくてはいけない。俺達にはここ以外にきっと、行き場なんてなかったから」



 十五歳の少年というのは、ここまで大人びた考えをするものだっただろうか。
 言葉を失う僕に、オーランドは薄く微笑む。彼が笑った顔を、僕はこれまで見たことがなかった。
 僕は、一度彼に聞いてみたいことがあった。いや、それは、この瞬間まで聞かねばならないこととして分類されていたはずだ。だけど、もうそれは、野暮なんだろうな。
 帝国と戦うことになったとき、君は一体どうするのだ、などと。
 オーランド、そう声をかけた僕に、彼はまだあどけなさの残った目を向ける。



「僕にもしものことがあったら、を頼むよ」



 クロードには言えない言葉が、するりと口をついて出るのは、目の前に広がるのがアレキサンドルの長閑な麦畑であるせいなのだろうか。
 空の低い位置に広がる筋雲が、夕焼けに輪郭を溶かしている。彼女はずっとここで生きていた。この景色を変えてはいけないと思う。これ以上、あの子が何かを奪われていいはずがない。
 思いつきではなかった。ずっと伝えたかった言葉だった。なのに、目を見ては言えなかったせいで、オーランドがどんな顔をして僕を見ているのかは分からなかった。
 ただ、彼は、小さく笑ったような息を吐いたのだった。



「頼まれませんよ」








 この時そんな憎まれ口を叩いたオーランドは、その一年後、正式にアレキサンドルに配備されたグロスタールの新兵として採用されることになる。アドラステア帝国出身のグロスタール兵など異色だ。だが、彼を拒む者はアレキサンドルには誰一人としていなかった。
 兵服に身を包んだ彼は僕に敬礼をした。
 あの日、僕の頼みに笑いながら首を振った君の祖国は、きっともうこの地なのだろうな。僕はそれが、酷く嬉しい。


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