翌日は朝から部屋に居るように言い含められていた。
本当は、将来的にグロスタールの人間になるならば会合の参加者をきちんと外で出迎え、ローレンツくんの隣でご挨拶をするのが筋なのだろうと思う。だけどやっぱりここがグロスタールである以上、婚約者としては次期領主であるローレンツくんの「君は部屋から出るな」という言葉には従わなくてはならなくて、私は与えられた部屋の窓からお屋敷の正面に続々と到着する馬車を漫然と眺めていた。
そうしながら、別のことを考えて気を紛らわせる。そうしていないと、「ローレンツくんの婚約者として」或いは「次期グロスタール夫人として」の自分の存在意義について突き詰めて考えてしまいそうだった。最近の私は物事を悪い方に考えがちだから、意識的に家が絡む問題は脳から排除してしまう。
昨日の薔薇はほとんどその花弁が閉じていた。あれが一斉に咲くという朝のお庭を、見てみたかったな。そういうことを、ぼんやりと考えているのが一番楽だった。
昨夜ローレンツくんに連れて行ってもらったグロスタールのお屋敷の、中庭にある庭園。あそこに咲いた薔薇たちは、私が十余年あまり前、雨のせいで見ることが叶わなかったものだ。小さいときは、外に出てからあの白い東屋までが酷く遠いもののように思えた。篠突く雨に打たれて、あと一歩のところで守衛さんに捕まった。あの時のことが懐かしく、ひりひりと皮膚を焼くような感覚でもって思い出される。
「……あ」
その直後、私は息を吸ったまま固まってしまう。到着したばかりの馬車から降りてきた人影の中に、見覚えのある人物の姿を見たのだ。垂れ目がちの瞳に蓄えられた口髭が、その童顔に不釣り合いの、薄い金色の髪をした男性。あれはアケロンさんだ。
その瞬間、私の胸は大きく音を立てた。弾かれたように窓から離れる。それまで触れていた窓には私の指紋がべたりとついていて、それを視界の隅で眺めながら、あっと言う間に乱れてしまった呼吸を整えた。
アケロンさん。ミルディン大橋の北側に支配地を持つ領主で、帝国に隣接した要地を治めている強みから様々な問題事を引き起こすと、先代から当主の座を受け継いで以来ずっと煙たがられている人だ。
実際私も彼のことは元々好きではなかった。普段の会話からもアレキサンドルを見下している節があったし、お兄様も彼を嫌っていたから。お兄様なんか、過去に犬嫌いなのが知られるや否やわざわざ犬をけしかけられたことがあるくらいだ。ローレンツくんだってあの人には苦労させられている。
それに、私は政治には疎いけれど、お兄様を殺した帝国兵がどうやって同盟内に侵入したかくらいは想像がついている。ローレンツくんも、お母様も、そういう話を決してしようとしないけれど。二年前、帝国に臣従を表明したばかりの彼が同盟内に兵を通したのは、その状況から疑いようがない。彼は敢えて帝国兵を侵入させたのだ。アレキサンドルが狙われていることを知りながら。
私は帝国に産まれた人や、今もそこに住む人たち、例えばソフィーやノエル、オーランドを、兄の敵であると恨むことはない。例えドロテアさんがこのフォドラを混沌に陥れたエーデルガルトさんにその力を貸していても、やっぱり私にとって彼女は大切なお友達だ。ドロテアさんが今後、将として同盟領内に兵を率い、私の大切な人たちを奪うようなことがあったら、私は彼女と戦わなくてはいけないと思うけれど。でも、それでも既に亡くなってしまったお兄様の死と彼女は、何の関係もないのだ。恨むとしたら、お兄様を手にかけた兵士達と、彼らを易々と同盟領内に進軍させた、あの。
胸の内側がどす黒く濁っていく。壁に背を預けたまま、ずるずると床に座り込む。口元を押さえていなければ、はっきりと汚い言葉を吐き出してしまいそうだった。それでも、掠れた声でそれは漏れる。飲み込み続け、消化させようとしていた呪いを、ローレンツくんはきっと私に自覚させたくなかったのだろう。
お出迎えのために外に立っていなくて良かった。会合だって出席したらきっと何の話し合いにもならなかった。祈るように胸の首飾りに触れる。私はお兄様が最期まで身につけていたそれを、自分のものと二つ分、ずっとこの首に下げている。
会合が行われている間、従者の方が淹れてくれたお茶を、時間をかけてゆっくりと飲んだ。そうしていると、ささくれだった心がじわじわと落ち着いていくのが分かる。
癖のないお茶は私が普段から好んで飲んでいるものだった。「これ、大好きです」と準備をしてくれた従者の方に伝えると、彼は「存じ上げております」と小さく頷いた。これもローレンツくんの心遣いなのだろうと思うと頭が上がらない。
今このお屋敷の中にお兄様の命が奪われる要因となった人物がいると思うと、本当は手が震える。怒りと混乱で身体中が戦慄いて、どうしようもなく落ち着かない気持ちにはなったけれど、それでも窓から彼を偶然見かけてしまった瞬間よりはよほど落ち着いていた。今だったら、多分、引きつった笑顔でご挨拶くらいはできそうだ。隣にローレンツくんがいてさえくれれば。そして、向こうが私に何も声をかけないことを前提とすれば、の話ではあるけれど。
「こちらのお部屋になります」
その時、扉の向こうで人の話し声が聞こえたように思えて、はっと顔をあげる。口に残っていたお菓子を慌てて咀嚼し飲み込むと、私は髪や服装を手で整えて、それから最後に頬に触れた。
「案内してもらって、ありがとうございます」
扉の奥から聞こえるのは間違いなくリシテアちゃんの声だ。そう思うと、心臓がばくばくと音を立てて落ち着かなかった。まだ扉を叩かれてもいないのに立ち上がる。こんこんと軽く叩かれたその音を聞いたその瞬間、先程までお茶やお菓子で誤魔化していた怒りが虚空へと飛んでいったように思えた。
「。わたしです」
やっぱりそうだ。弾かれたように扉に手をかける。「は、はい! 今開けます!」言いながら勢いよく開けすぎたせいで、その先に立っていたリシテアちゃんにははっきりと驚かれてしまった。
見開かれた丸くて大きな瞳、色素の薄い、さらさらの長い髪。
抱きつきたい衝動をどうにか堪えて、だけどその両腕の行き場が見つからなくて、仕方ないから口元に持って行って喜びの悲鳴が漏れそうになるのを堪えた。そうしなければ、妙な声が出てしまいそうだったのだ。
愛らしい姿はそのままに、手足がすらりと伸びた彼女は二年前よりもずっと大人びている。
間違いなく彼女は、私があの日お別れをしたリシテアちゃんだった。
「……お久しぶりです、」
どこか素っ気ないその声音までそのままで、感極まって泣きそうになるのを、天井を仰いでぐっと飲み込む。「リシテアちゃん」確かめるように口にすれば、リシテアちゃんは困ったように頷いたから、もう止まらなかった。
「リシテアちゃん、リシテアちゃんだ、背が伸びた? め、目線が私と変わらなくなってるね! きれいになったねえ、久しぶり、久しぶりだー!」
「どうも。……あんたの方は、相変わらず元気そうで何よりです」
「元気だよー! 会いたかったー!」
有り余る興奮で抱き潰してしまいかねなかったから、ぐっと堪えてリシテアちゃんの手を握りしめるに留める。身長は伸びたけれど、手の大きさはあまり変わっていないように思えた。
ひんやりとしたその手を包み込んで、見つめ合ったまま笑いかけると、リシテアちゃんも眉を寄せながらも私に微笑んでくれたのだった。
この半年、同盟領内どころかフォドラ全土として戦況が膠着状態に陥っている。そのため、会合自体は形式的なものでそう時間はかからないはずだとローレンツくんが言っていた通り、今回は特に中身のない話し合いで終わったらしい。リシテアちゃんは疲れた様子もなく、ぱくぱくとお菓子を口に運んでいる。
「今回はグロスタール伯がいらっしゃったので、アケロンもそう馬鹿な発言をしなかったことは幸いでした。おかげで早く済みましたよ。前回もそうでしたが、正直この会議は時間の無駄です。なんの解決にもならなければ発展もない」
ローレンツくんが聞かせてくれないことを語るリシテアちゃんに、何だか新鮮な気持ちになりながらもうんうんと頷いた。無駄を嫌うリシテアちゃんが、そうと予想しながらもまた親帝国派の会合に出席したのは、もしかしたら私に会うためだったりするのかな、なんて都合の良いことを思ったけれど、口にはしないでおいた。
こうして向かい合っていると、まるで学生時代に戻ったような懐かしさがある。私達を取り巻く情勢はあの頃とはもう何もかも違うし、私達だってその分年を重ねているのに。
「とは言え定期的に互いの動きを確認せねば、いざという時に連携も取れませんからね。アケロンはそうでなくとも余計なことをしでかしますし……と、すみません。こんな話、面白くないですね」
ぱっと目を見開いたリシテアちゃんは、気遣うように私の顔色を窺う。だけど、どんな話でも、リシテアちゃんの口から語られる言葉はそれだけの価値と意味を持つように思えるから、私は「そんなことないよ」と大きく首を振るのだ。それでもリシテアちゃんはそれを私の遠慮と捉えたらしくて、その小さな唇をきゅっと引き結んでからお茶を口に含んだ。
元々私達は、教室でもそこまで雑談をする方ではなかった。彼女はいつも本を読んでいたし、私達の間にあった会話の八割は理学の勉強に関するもので、そこまで個人的な悩み事などを相談しあったりすることはなかったから。それをリシテアちゃんも思い出したのだろう。「最近は魔法の練習をしているんですか」と尋ねるから、私は申し訳なく思いながらも首を振る。
「最近はお屋敷で預かっている男の子に剣を教えてるかな。魔法はあれからさっぱり上達しなかったよ」
「そうなんですか? 勿体ない。コツを掴めれば、だって見込みはあったのに」
「ええ〜本当に? だったらこの二年でやっておけば良かったかなあ」
「でも、あんたは多分、身体を動かしている方が性に合っているんでしょうね。あんたの剣、好きでしたよ。しなやかで」
「えっほんと? しなやかだった?」
「わたしが脳内で美化している可能性も否めませんけどね」
「ああ〜、じゃあそのまま美化しておいてもらおうかなあ」
私の言葉に、リシテアちゃんは小さく笑う。大人っぽくなったけれど、そういう笑顔は学生時代と何も変わっていなかった。
話したいことはたくさんあって、本当は、私はできるならば、色んなことを相談したかった。でも、できるならば、だ。私は多分、誰にもこの胸の内を打ち明けることなんかできなかった。自分の中で整理がついていない以上、外に吐き出すことは至難の業だ。兄が私の隣からいなくなって、この状況に陥って二年間、私はずっと無形のそれを形にしようと、こねて、水をかけて、またこねて、こね続けて、永遠に背中を丸めている。
「だって相手が傍にいるなら、解決しない悩みじゃないでしょ」
十四歳のオーランドでも分かることなのに、私は一歩が踏み出せない。
いつまでもうじうじしている自分が、嫌になる。
どうやらアケロンさんは会合を終えて早々にフレゲトン領に戻ったらしい。外に出ないようにと言う忠告はやっぱり彼がいたからこそだったらしく、ローレンツくんはコーデリア伯とリシテアちゃんのお見送りに関しては当然のように許可してくれた。
お屋敷の正面から外に出ると、外はもうほとんど薄暗くなっている。泊まっていくものだとばかり思っていたけれど、そんな時間もないのだろう。ローレンツくんの半歩後ろに下がって、馬車に乗り込むコーデリア伯に頭を下げる。
ふと顔をあげたとき、私のことをリシテアちゃんがじっと見つめていたから、思わず目を瞬かせてしまった。リシテアちゃんは今の今までローレンツくんと次の会合について意見を交わしていたけれど、もう済んだのだろうか。太陽はお屋敷側に沈み始めていて、リシテアちゃんの背後に広がる空に、うっすらと星が輝いていた。ガルグ=マクではない場所でこうして三人で立っていることが、私には不思議に思えた。
「」
リシテアちゃんが私の名前を呼ぶ。「あんたとまた話ができて良かったです」と、やわらかな声で、そう続ける。
「またいつか、こうして、あんた達に会えたら嬉しいです」
手紙も書きますけど、わたしはほど筆マメではないので、返事の中身は期待しないでくださいね。
そう続けたリシテアちゃんに、かつて彼女が書いてくれた二行の手紙を思い出して、思わず笑ってしまった。
最後にリシテアちゃんを抱きしめれば、彼女は私の三分の一程度の力で抱きしめ返してくれた。胸がいっぱいになって、泣きたいのを誤魔化すためにその肩に額を擦りつけたけれど、リシテアちゃんはそんな私を見抜いていただろうに、何も言わずに居てくれた。
リシテアちゃんの乗った馬車は、グロスタールのお屋敷を後にする。馬車が見えなくなるまで見届けた私に、ローレンツくんは「……さて」と、ほとんど独り言のように吐き出した。
「陽が暮れ始めたが、まだ街へ出るには遅くはないだろう」
目線をローレンツくんに送る。風が吹いて、服の裾が彼の方へはためく。あの頃に比べれば伸びた髪がローレンツくんに触れてしまいそうで、慌てて手で押さえた。
「ソフィー達のお土産でも、一緒に見に行こうか」
私はそれに、ほっとしてはいけなかったのかもしれない。
私達は、私達の間に第三者を置こうとする。そうしてそこにある隙間から目を逸らしている。埋めるべきなのか、放っておくべきなのかがお互いに分からないから、見ないふりをしている。
これは延命治療に似ているのかもしれない。ならば、私達の関係は既に死んでいるのではないか。私達は幼馴染みなのか、それとも同級生なのか、同盟のために偽りの縁談を結んだ婚約者同士は、これまでの関係まで全て食い尽くしてしまおうとしている。少なくとも私は、そんな風に思っている。
だけど、リシテアちゃんがまた私達に会いたいと言ってくれるなら、この形を維持したまま、もう少し、見ないふりを続けていても良いだろうか。
私はきっと、ガルグ=マクで過ごしたあの日々に縋っている。
だけど、私とローレンツくんとリシテアちゃんが三人で顔を合わせることは、それからもう二度となかった。