ローレンツくんが上着を脱いでいる姿って、久しぶりに見たかもしれない。
背の高い人だから、顔を上げないと私の目線は彼の白い襯衣の胸元辺りにいってしまって、それが何だか無性にどぎまぎする。骨張ったその身体の線がはっきりとしてしまうせいだろうか。あまりそういうことを意識しないようにしながらそろりと目線をあげると、そんなつもりもなかったのに整頓された部屋の中が少しだけ見えてしまって、どうしたらいいか分からなくなってしまった。士官学校時代、彼の部屋には何度かお邪魔していたのだから、今更こんな気持ちになること自体おかしいはずなのに。
扉を開ける直前ローレンツくんは私の名前を呼んでいたくらいだから、部屋の外にいるのが私だと想定していたのだとは思う。だけど、その切れ長の瞳ははっきりと見開かれていた。動揺が手に取るように分かるけれど、私もそれを受けて同じくらいに狼狽している。
数拍の間を置いてから、ローレンツくんはようやくその瞳を瞬かせて「ちょっと待ってくれ」と扉を閉めてしまった。私はすっかり面食らってしまう。お部屋の中から聞こえる物音は明らかに焦っているようで、ばたばたと忙しない。ややあってから開かれた扉の先には、いつものように上着を羽織ったローレンツくんがいた。
「待たせてしまってすまない。退屈なのだろう? 行こう」
「えっ」
退屈だったとどうして分かったんだろう。そういう意味での驚きを顔に出した私に、ローレンツくんは変に勘違いをしたらしい。
「……悪いが、部屋には入れられないぞ」
わざわざ言葉にして釘を刺すから、何だか複雑な気分になってしまった。お部屋に入れてほしいなんて言ってない。以前の私だったらそう言って、言葉にも顔にも勘違いされては不愉快だという感情を露わにしたはずだったのに、喉のあたりにできた溝みたいなものはそういうものをまとめて引っかけてしまって、結局私は何も言えなくなる。
別に、どうしてもお部屋に入れて欲しかったわけじゃない。でも、そもそもお部屋に入れてくれないって何でだろう。夜だからだろうか。それとも相手が私だからだろうか。嫌なのかな。何でもかんでも疑問を飲み込むのは良くないと思い、部屋を出て歩き出したローレンツくんの後を追いながら思い切って口にする。そうしながら、心臓がばくばくと音を立てている自分を自覚していた。
「……夜だから?」
「……朝も昼も、君を僕の部屋には入れない」
「へーっ?」
驚きの答えに上擦った声が出てしまった。そんな風に頑なな態度を取られるとは思ってもみなかったから、私もつい意地になってしまう。
「……じゃあ、それって、私だから?」
「…………」
その無言は肯定なのだろうか。
小走りで彼の隣についてその横顔を見上げる。いつもだったら歩幅を合わせてくれるローレンツくんは、今日に限ってはそういう気遣いをしてくれる気はないらしい。彼はまるで早く自室から遠ざかりたいとでも言わんばかりに歩くけれど、追いつくのだけでもやっとだった。足の長さが違う人に歩く速度を合わせるというのは思った以上に疲れるのだと、こんな時に気づかされる。
「じゃあじゃあ、私がこっそり、ローレンツくんの知らないうちに勝手にお部屋に入ったらどうする?」
勿論そんな気はないと彼も分かっているだろうけれど、私に一瞬だけ目線を落としたローレンツくんは、しっかりと眉根を寄せていた。
「怒るさ。こっぴどくね」
「こ、こっぴどく……! 士官学校のときは入れてくれたのに……?」
「あのときは他に二人で話せるような場所がなかったからな。舞踊の練習をいつ人が来るとも知れないような場所でしたかったか?」
「…………したくないです」
そんなことになれば、私は士官学校中に恥を晒しただろう。同盟貴族の娘でありながら、舞踊も満足に踊ることの出来ない無教養な人間として。
つまりあの日々は私のため、やむにやまれず、ということだったのだろうか。そう思いついたとき、思いのほか傷ついてしまって、参った。唇を噛みしめて、こみ上げてくる感情の波に耐える。
でも、それ以外にも思い返してみれば舞踏会の練習以前に一度だけ、私は扉を開けてくれた彼の腕の下を潜り抜けて勝手に部屋に入ってしまったことがあった。鷲獅子戦が終わって、ローレンツくんが気落ちしていた様子を見せていた時だったか。あの時ローレンツくんは私の強行突破を本気で咎めはしなかったけれど、きっと良い気持ちはしていなかったんだろうな。急にみぞおちの辺りが痛くなってしまって、こっそり撫でる。
こんなことを聞かされてしまえば、反省するしかない。私は幼馴染みという立場に胡座をかいていた。
「……ごめんね。もう勝手にローレンツくんのお部屋に入ったりしません」
階段を下りる途中、きちんと足を止めてそう謝ると、ローレンツくんはなんとなく目を丸くしたようにして私を見下ろした。私よりも一段下に立っているのに、それでも目線はまだローレンツくんの方が高い。いつもよりずっとローレンツくんが近く感じられるのが、無性に気恥ずかしく思えたけれど。
学生時代の話とは言え、強引に部屋に入ってしまった時のことを思い返してみると自分はなんて真似をしたんだろうと叱りつけたくなる。幼馴染みという関係性を利用する私は、ずっとローレンツくんに甘えっぱなしなのだ。今、このときだって。
螺旋階段を降りる頃には、ローレンツくんはもう私に歩幅を合わせてくれていた。それが分かるから、申し訳ないのと同じくらい嬉しくなる。ローレンツくんの靴は、私のものよりもずっと大きくて、なのに足音をほとんど立てない。ぱたぱたと子供のような音をたてて歩いてしまう私は、あの時ローレンツくんやヒルダちゃんに教わった歩き方を、もうほとんど忘れてしまっている。
「……どこに向かっているかわかるか?」
ローレンツくんがそう尋ねてくれたのは、あからさまに落ち込む私に気を遣ってのことだったのかもしれない。ぱっと顔をあげれば、ローレンツくんはなんとなく優しい目で私を見ていた。この内省まで気遣われては心苦しい。私は普段通りに振る舞うべきなのだ。せめて、彼の前だけでも。きゅ、と唇を噛みしめる。
グロスタールのお屋敷は十年以上前と変わらず、記憶を探らずとも覚えていることはたくさんある。三階より上におじさまのお部屋があるから、それ以上は階段を上ってはいけないと言い含められていたこと。いくら貴族とは言え個人のものとしては広すぎる書庫に絵本の類いはないこと。客間の並ぶ二階は似通っていて特に迷子になりやすいこと。
今、私達は既に一階まで降りてきていた。夜の廊下を照らすのは星々の明かりと燭台からのそれくらいで、日中とは随分趣が異なっている。そういう風に、あえてしているのかもしれない。グロスタールのお屋敷は厳かな空気が漂っていて、酷く静かだ。
ローレンツくんの言葉に思い当たることはなかったけれど、折角尋ねてくれたのだから、分からないと簡単に口にしてしまうのも味気ないように思えた。広い玄関ホールは既に素通りしているから、街の方に出る、という可能性もない。
「うーん」
普段通りに、何も考えていない私を強調するように間延びした声で呟く。だけど、どんなに考えても答えは出なかった。
「……わかんない」
思案の後、結局そう答えてしまった。思い当たる節がなかったのだ。私が答えた直後、ローレンツくんは私の姿をまじまじと見てから、徐ろに上着を脱いだ。廊下のど真ん中で一体どうしたのかと目を見開いていると、彼は「失礼」と口にして、そのまま私の肩にそれをかける。
「へっ?」
質の良い上着の、裏地の感触が気持ちいい。ふわりと香ったのはローレンツくんの匂いで、だけどやっぱりそれは私の身体には大きすぎるから、ずり落ちないように慌てて両手で押さえる。
「その恰好では冷えると悪いからな。羽織っていたまえ」
「冷えるの? え、でも私、寒くないよ」
「外に出るからな」
「外?」
でも、玄関ホールは通り過ぎてしまった。立ち止まって後ろを振り向く私に、ローレンツくんが小さく笑った。
「中庭に出るにはこっちが近い」
廊下の西側に面した大きな窓からは庭園が見えた。昼間お屋敷に着いたときに視界の端でみとめた薔薇は、今は花弁を閉じているようだ。それでも星の明かりを受けて濃い陰影を作る花々は、夜の庭園を美しく彩っている。
ローレンツくんの言葉通り、そのまま廊下を突っ切れば、中庭にはすぐ出ることができた。
「あれ、グロスタールのお屋敷って、昔からこんなふうだったっけ?」
そう尋ねる私に、「改修工事をした覚えはないな」とローレンツくんは笑う。長くなった髪に表情は隠れていたけれど、口元だけは薄く微笑まれていた。
アレキサンドルの庭にはない華々しさは、明るいときに見ると少し気が引けるくらいだった。だけど、夜だと随分と雰囲気が違う。一面に広がる多種多様の花、恐らく部屋に生けられていたものだ。白い木材で出来た東屋の柱に、計算された間隔で絡まる蔦の葉の緑がつやつやと輝いている。植物も眠る肌寒い春の夜、息を深く吸えば、それでも甘い香りは胸に広がった。
そこに、その赤い薔薇はあった。私は彼と初めて会った子供の時、この薔薇が見たかったのだ。
「薔薇を見るなら朝が一番望ましいんだが」
その言葉に、目線をローレンツくんに移す。
私に上着を貸したことで白い襯衣姿になってしまった彼はいっそ寒々しくすら見えたのに、彼はそういう素振りを決して見せない。つらいとか、しんどいとか、寒いとか痛いとか、そういうことを、ローレンツくんは決して言わない。
もうずっと前から。
「アレキサンドルに戻る直前になって、君に薔薇が見たかったと泣かれても困るからね」
その言葉に、顔が痛いくらいに熱くなったことを自覚する。悪戯っぽく笑うローレンツくんに、泣かないよと、そう言いたいのに、私は今、鼻の奥がびっくりするくらいに痛いのだ。
ローレンツくんに気づかれないように鼻を啜る。言い返さなくちゃ。ローレンツくんだって、私に上着なんか貸して、帰る時に熱を出したって知らないよとか、そういうことを言ったら、きっと笑ってくれるはずだ。でも、声にならない。だって、お仕事がたくさんあるローレンツくんは会合が終わっても私と一緒にアレキサンドルに戻ってはくれないもの。「帰る時」なんか、すぐにはない。
それじゃあもう、私はもう何にも言えないや。
どうしてこんなことで胸が痛むんだろう。薔薇を見るふりをしてしゃがみ込む。つやつやした花弁は、私の涙を飲み込んではくれない。