グロスタールまでの道中は長く、ローレンツくんが言葉を発するその瞬間まで息が詰まるかと思った。まさか自分があんなにローレンツくんと一緒にいることに緊張するとは思っていなくて、私は半分くらいを寝たふりをして過ごしていた。どうしてだろう。本当は、ローレンツくんといっぱいお話がしたかったのに。私が政治の話をすることを彼は嫌がるかもしれないけれど、これからの同盟のこととか。もしくは、私達のこととか。例えそんなことを話し合う権利が、私には本当にはなかったとしとも。
 狸寝入りのために目を瞑っていた私は、それでも心の中で何度も何度も彼に声をかけようと思うのに、舌の上にまで乗ったそれは結局飲み込まれて消えてしまった。こういうのは何も、今日ばかりの話ではない。勇気がないと言い続けてもう何節、いや、何年経つだろう。私がずっとこんな調子だから、オーランドには呆れられてしまっている。
 オーランドは少し前に十四歳になっていた。ドロテアさんに連れられてアレキサンドルに来たばかりのときは声変わりも済んでいない子供という印象が強かったのに、いつの間にか背は私を追い越しているし、私が開けられない瓶の蓋も簡単に開けてしまう。燻っていたのが嘘みたいに、彼は領民達にも溶け込んで、収穫の時はものすごく頼りにされている。成長期ってすごい。身体も心も大きく成長するのだ。
 先日も日課の訓練を終えた直後、彼は「最近の剣の動きに迷いがあるみたいだけど」と一丁前なことを言うのだから、びっくりしてしまった。



「ま、迷い? 剣に?」

「切っ先の動きが気持ち悪い」

「気持ち悪い!」



 もうちょっと言葉を選んでもらいたい。「いつもと違うから」と続けられた言葉に、私はとうとう言葉に詰まる。自覚はあったのだ。最近どうも身体が上手く動かないと。



「……そんなに悩むくらいなら、言えば良いのに」

「ええ、そんな、いくら何でもオーランドに相談なんて」

「俺じゃない。俺に言われても困る」



 思いがけず拒まれてしまって心臓がひゅっと痛んだ。思わず胸を押さえて彼を見つめれば、オーランドは「だって相手が傍にいるなら、解決しない悩みじゃないでしょ」とほとんど表情も変えないから、唸ってしまう。
 実際ローレンツくんと話をすることそれ自体は難しいことではない。とりとめもない話だったら、普段から交わしているくらいだ。だからオーランドの言いたいことは分かるし、それは間違いなく正論だ。
 私達は多分、傍から見ても歪なのだ。お互いに言いたいことを言えずに飲み込んで、気を遣い合っている。傷つくのが怖くて触れられずにいる。士官学校ではあれだけ言いたいことを言い合って、怒ったり、無視したり、そういったことも平気でしてきたのに、今はもうそんなことをしていた自分が信じられないもののように思う。
 オーランドのため息が、耳に痛い。



「いずれ結婚するんなら、腹を割って話した方が良いんじゃないの」



 でもそもそも私達って、本当に結婚するのかな。こんな形でローレンツくんの隣にいる人間が決まってしまって、それが私で、本当にいいのかな。それが分からないから、私は強く踏み込めないのだ。
 こんなこと誰にも相談できないけれど。








 普段から、オーランドの背が伸びたとか、お裁縫を覚え始めたソフィーがくまのぬいぐるみにお洋服を作るようになったとか、ノエルの読んでいる本が小難しくなってきたとか、そういう話を私がし始めると、ローレンツくんはあからさまにほっとした顔をする。私はローレンツくんのそういう顔を見ると、嬉しいのと複雑なのが同じくらいの量だけ溢れて、ぐるぐるに混ざり合って、それが私の底でどどめ色の固体になり、容赦なくこびりついてしまうような感覚に陥る。
 ローレンツくんは、私に政治とか、戦とか、そういうことに関わって欲しくはないと思っているのだ。確かに私はクロードくんやローレンツくん、リシテアちゃんほど頭は良くないし、戦に関してもヒルダちゃんやラファエルくんみたいに前線で戦えるような力は持っていない。イグナーツくんやレオニーちゃん、マリアンヌちゃんみたいな判断力もない。そういう意味では私はローレンツくんの力にはなれないのかもしれないけれど、だけど、話を聞くくらいはできるのにな、と考えてしまう。
 行き詰まったときって、人に話すことで自分の中でいろんなことが整理されていくものだと思う。案は出せないとは言え状況の把握くらいはできているはずの私は話し相手として適役なのではないかと思っているのに、ローレンツくんは色んな事から私を遠ざけようとする。
 昨今の私の悩みはこれで、だけどこういう、ローレンツくんや同盟のことが絡んでくるようなあまりにも個人的で繊細な内容をドロテアさんやリシテアちゃんへのお手紙に書くわけにもいかなかった。結局私は自分の心の中で、ローレンツくんへのもやもやを処理している。しきれているかは分からないけれど。細かく刻んで見ないふりをしている。どこまで踏み込んで良いのかわからないのだ。幼馴染みとして十年余り、彼にとっては不本意かもしれないけれど、婚約者としてもうすぐ二年が経とうとしているのに。
 揺れる馬車の中、目を瞑っている間もそんなことを考えていた私は「グロスタールでは、できれば僕の傍にずっといるんだぞ」と外を眺めていた彼に突然切り出されて、びっくりしてしまった。
 傍にいてもいいのかな。そんなことは口に出しては聞けなかったけれど。
 ローレンツくんの考えていることが、全部、手に取るように分かれば良いのに。そんな途方もないことを考える。
 そうしたら私はもしかしたら、たくさん傷つくことになるのかもしれないけれど。








 グロスタールにはその日の夕方に到着した。
 おじさまにご挨拶をしに行ったけれど、相変わらず素っ気なくされてしまい打ちのめされる。にこやかに応対されるような立場ではないから覚悟はしていたけれど、さすがに血が繋がっているだけあって、ローレンツくんが年を重ねたらこんな風になるんだろうな、という雰囲気を持つおじさまに冷たくされるのはなかなか堪えるものがあるのだ。それでも「今は状況が状況だから、父も気を張っているんだ」って言葉に、少しは救われる。
 夕食の席なんか会話が続かなくてどうしようかと思った。ローレンツくんは気を遣ってか「我が家は普段からあんなものだ」と慰めてくれたけれど、確かに言われてみればアレキサンドルが騒がしすぎるのかもしれない。特にここ数年は、食べ盛りの子供達が三人もいるのだから。
 おじさまが時折こちらの様子を窺ってくださっていたことに、私はちっとも気がつかなかった。








 夕食後、客間を宛がわれた私は窓の外を眺めている。アレキサンドルのように麦畑が広がるわけでも、デアドラほど観光地として栄えているわけでもないグロスタールの街並みは、治めているおじさまの性格がそのまま表れているかのように理路整然としていた。十数年前に訪れた時の面影は濃く残っていたけれど、戦時中ということもあってか活気は少ない。
 親帝国派の会合は明日の午後に開かれることになっていた。コーデリア伯とリシテアちゃん、それからあのアケロン、さん、は明日到着する予定らしい。もしもリシテアちゃんがいたら、一晩中でも一緒にいたのに。本人が了承するかは別として。
 話し相手もいない夜というのは何だか思った以上に心細かった。本を貸して欲しいと部屋を尋ねてくるノエルも、お菓子を食べにくるソフィーもいないなんて、何だか不思議な気分だ。
 馬車の中で「できれば僕の傍にずっといるんだぞ」と言われたときは驚いてしまったけれど、夕食後部屋に送り届けられてからは、私はずっと一人だ。グロスタールのお屋敷は、諸々のお世話を焼いてくれる侍女の方もそう指導されているのか物静かで、私がものを十尋ねても一返ってくるかどうかだから、虚しくもあり恥ずかしい。こんなんで将来上手くやっていけるのかな。なんてふとした瞬間に考えては、いや、そもそも本当に私がここにお嫁さんとしてやって来る日があるのかどうかもわからないのに何を言っているんだと正気に返る。今年で二十歳になる私は、本当はそろそろローレンツくんとそういうことを真剣にお話しないといけないのに、逃げてばかりだ。
 私が部屋を出てローレンツくんの元に向かったのは、けれど、何もそんな話をしたかったからというわけではない。部屋に一人でいることに、とうとう耐えかねたのだ。部屋には本が置いてあったけれどどれも難解で、数頁読んで挫折してしまえば他にすることもなかった。街へ出かけるには時間も遅く、せめてお屋敷の中を散策したいと思ったけれど、冗談でも「傍にいろ」と言われた手前、勝手に出歩くのは気が引けた。そもそもどうしてローレンツくんがそんなことを言ったのか、その意図は分からなかった。だけど、許可を取れば問題ないだろうと思ったのだ。私の散歩に付き合わせようと思ったわけではなかった。
 でも、本当のことを言うと、話し相手になってほしかった。お部屋に入れてくれたら一番嬉しいなって思ったことにも他意はない。私は婚約者だなんていう肩書きを得ておきながら、今でも自分がローレンツくんの幼馴染みという枠組みにいると思っている。昔のように、無邪気なだけの。
 グロスタールのお屋敷にいるせいで、子供のときのことを思い出してしまったのだ。二人で広げた図鑑を覗き込んでいたあの日々に戻ってしまったような気がした。こんな背丈になっておきながら、いつまでも自分がくまのぬいぐるみを抱いていた子供であるように思う私は、やっぱりきっと、ローレンツくんには相応しくない。
 二年前ご挨拶にやって来たときはすぐにアレキサンドルに戻ってしまったから、こうしてグロスタールのお屋敷を歩くのはほとんど十数年ぶりなのだけど、ローレンツくんの部屋がどこにあるかは意外と記憶にあるもので、私はアレキサンドルよりもずっと広いお屋敷を迷わずに歩いて行くことができた。途中でおじさまにお会いしたらどうしようかとびくびくしていたけれど、それは杞憂に過ぎなかった。螺旋状の階段を上る。勝手に出歩く私の姿を見ても、侍女の人たちは俯き気味にすれ違うだけだから、やっぱり居心地が悪いように思えてしまう。
 三階にある書庫を目印にして、斜向かい。ローレンツくんの部屋を前に何だか緊張してしまうのは、ここが慣れ親しんだ自分の家ではないからだ。
 胸に手を当てて深呼吸をする。緩く拳を作って扉を叩いた直後、中から人の動く気配があって、私はそれだけで、どうしてか逃げ出したくなってしまう。どうしよう、と考えている私を、冷静に俯瞰している自分がいる。お散歩に行っても良い?って聞くだけだ。あわよくば一緒に行けないかな、なんて考えているだけだ。こんな罪悪感にも似た感情は、本来あること自体がおかしい。



「……か?」



 軋んだ音を立てて、扉が開けられる。私だと分かってもらえたことが嬉しくて、私はそこに現れたローレンツくんを前に、いつも通りの顔でいられているのかも分からない。


prev list next