オーランド達が屋敷に住むようになってから数節が経って、年が明ける頃、ローレンツくんはアレキサンドルにはやって来ることがほとんどなくなっていた。
彼が次にやってきたのはお兄様が亡くなった花冠の節で、それもすぐにグロスタールに引き返してしまったから、ソフィーがへそを曲げてしまって大変だった。お仕事で忙しいんだよ、同盟領に住む私達のことを、ローレンツくんは守ってくれているんだよ。そういう風に言えば、ソフィーは唇を尖らせたまま「でも、お兄ちゃんはお姉ちゃんとけっこんするのにへんだよ。けっこんしたら、いっしょにいなきゃいけないんだよ」とふて腐れる。
「でもソフィー。二人はまだ婚約者同士だろう? それにとローレンツさんが本当に結婚したら、がグロスタールに行かなくちゃならないんだぞ」
どう返事をしたものかと困っていたところ、悪気なくそう口にしたのはオーランドだ。「えーっ!」と叫ぶソフィーに「だって、嫁に行くってそういうことだろ。婿入りじゃないんだから」とほとんど表情も変えずに淡々と続けるオーランドは、言い終わると同時に私の顔をじっと見た。「むこ……?」とその隣で難しい顔をしているソフィーやノエルと比べると相変わらず表情筋が固い子だけれど、この半年で随分打ち解けてくれたように思うのは、きっと気のせいではない。
「だから俺は、まだにはこのままでいてもらいたいけどね」
あと五年くらい。そう正直に続けられて、思わず「五年!」と繰り返してしまった。
オーランドの場合は私がいなくなると寂しいとかそういう話じゃなくて、ただ単に剣を教えてくれる人間にいなくなられると困るという点が大きいのだろう。実際オーランドの剣は、この数節で目を見張るほどに成長している。調子が良ければ、グロスタールの兵からも一本取れるときもあるくらいだ。未発達な身体で自由自在に剣を振るうオーランドは、お母様やノエルに「舞台に立っているみたい」と言わしめるほど、美しく剣を扱う。ここまで基礎が出来たなら、もう私を師とする必要はないように思うけれど、彼の思いは嬉しかった。
しかし、五年かあ。口の中だけでぼそりと呟いた。五年も経てば私も結構いい年だ。お母様はもうその頃には私を産んでおられたし、ならば私も本来子の一人や二人を産んでいてもおかしくないはずなんだけど、想像してみるとそれが酷くありえない未来であるように思えてしまう。戦時中であるが故なのだろうか。現在自分が置かれている場所が実に不安定であるせいで、現実味が薄いのかもしれない。
アレキサンドルがグロスタールに併合されて一年、まるで内戦中であるとは思えないほどに、私達は平和な日々を過ごしている。今年に入ってからはリーガンから斥候が送られてくることもなく、兵士達もすっかり本職を忘れてしまったかのように農作業を手伝ってくれるから、今年はこれまでよりも収穫量が上がりそうだ。
村の人たちも、帝国からやって来たオーランド達にとても良くしてくれている。本来帝国を恨んで然るべきである私やお母様が三人を慈しんでいるからだとこっそり領民に教えてもらったことがあったけれど、お兄様を手にかけたのは彼らではないのだから、当然のことだった。
ドロテアさんからは定期的に手紙が来た。三人と私でそれぞれ返事を書いて、それを封に入れて帝国へ送る。ドロテアさんは自分の近況を語ってくれることはなかったけれど、私達の返事をうけて、いつも丁寧に手紙を書いてくれた。私への手紙にはいつも末尾に決まってお礼の言葉が書かれている。手紙からはいつもドロテアさんのつけていた香水が香っていて、それがなんだかとてつもなく懐かしくて、泣きたくなるときがあった。
ローレンツくんはまた当分グロスタールから離れられないのかな、と考えると、どうしようもなく心細くなる。ソフィーやノエル、オーランドがいるから寂しいと感じるときはよっぽど少ないはずなのに、夜、一人になって寝台に潜り込んだとき、私はどうしてか、士官学校の寮の天井を思い出してしまうのだ。
士官学校はいつだって人の気配に満ちていた。教室にも、温室にも食堂にも訓練場にも、釣り池にも。行けば必ず誰かがいて、話し相手になってくれた。笑いながら食事を摂って、並んで買い物に行って、半泣きで資格試験に臨んでいた。皆、今頃どこで何をしているんだろう。少なくとも私は、帝国がガルグ=マクに攻めてきたあの戦以降、ローレンツくんとドロテアさん以外の人とは会っていない。
ベレト先生もレア様も未だに行方不明のままで、王国は同盟よりもさらに混乱してしまっている。ディミトリくんが処刑され、コルネリアが政権を握った今、ファーガスは酷い圧政を強いられていると聞く。
もしもベレト先生がいたら、少なくとも王国はこのような憂き目にはあっていなかったのではないだろうか。
元々傭兵としてフォドラ各地を転々としていたベレト先生が、帝国、王国、同盟領のいずれかに手を貸すとしたら、それは間違いなく王国であるはずだった。そうしていたら、ディミトリくんは処刑されずに済んだのではないだろうか。政変なんて起こさせなかったのではないだろうか。帝国は王国を攻め入る隙を見つけることができないまま、もしかしたら王国と同盟が手を組んで帝国に立ち向かう可能性だってあったのかもしれない。そうすれば、そうすれば。そこまで考えて、私はいつも諦める。
そんなもしも話をしたところで、救われる命なんて一つもない。
あの頃に戻りたいとは言わないけれど、会いたいな、と思う。クロードくん、ヒルダちゃん、リシテアちゃん、ヒルシュクラッセの皆、アッシュくんやイングリットちゃんにも会いたい。ハンネマン先生はどうしているだろうか。そういうことを考えていると、泣きたくなる。
鼻を啜ったその時だった。扉が叩かれたような気がして、ぱっと目を開ける。
こういうことは、これまでも何度かあった。そのうちほとんどがソフィーかノエルのどちらかで、怖い夢を見たと言って泣くから、私はそういう夜、背中をとんとんと叩いて寝かしつけてあげるのだ。
「ノエル? ……それともソフィー?」
なるべく柔らかな声で尋ねる。相変わらず暗すぎると眠れない性質の私は、今でも枕元に小さな灯りをつけている。その灯りを頼りに起き上がり、なかなか開けられない扉を前に首を傾げた。ソフィーもノエルも、私が扉の鍵をかけずに眠っていることは知っている。だから、いつもこうして声をかければほとんど半泣きで飛び込んでくるのに、今日に限ってはその様子がない。
「……誰?」
そう尋ねれば、少しの間が開いたあと、扉の向こうに居た人が答えた。
「……僕だ」
びっくりしすぎて、息が止まった。それは、ローレンツくんの声だったのだ。
慌てて扉を開けようとして、だけど我に返った。寝入る直前だった私は、勿論寝間着姿だし、髪の毛だって整ってない。こんな恰好で平然とローレンツくんの前に出て行けるわけがない。どうしよう、と思う。なんでこんな夜中に、とも。扉の向こうで私の動揺を察したのか、ローレンツくんは「こんな夜更けにすまない。その……非常識だとは思ったのだが、どうしても、渡したいものがあって」とどこか緊張を孕んだ声音で呟いた。
「わ、わたしたいもの? え、あの、ローレンツくん、そのために来たの?」
「ああ。……明日でも良かったんだが、急を要するというか」
急を要する。急ぎの用事なんだろうか。こんな夜更けに着くことを承知の上で彼はグロスタールからやって来てくれたことを考えるなら、それはよっぽどのことだ。上擦った声をあげてしまった私に、しかし動揺するのはなぜかローレンツくんの方だった。
「いや、すまない。嘘だ。それほど急いでいるわけではないんだ。――明日でも構わなかった」
彼の言葉は要領を得ないから、益々困惑してしまう。
「……扉の隙間から渡しても構わないだろうか」
「す、隙間?」
「……手紙なんだ。リシテア君からの」
「リシテアちゃん?」
つい扉を開けてしまいかけたその瞬間、宣言通りその隙間から手紙が差し込まれた。ドロテアさんからの手紙に比べれば薄い封筒だったけれど、へと記されたその文字は、間違いなくリシテアちゃんが書いたものだった。それを目にした途端、胸がふわふわとぬるい綿に包まれたように感じられる。
「あ、ありがとう、リシテアちゃんに会ったんだね。元気だった?」
扉一枚隔てたその先で、ローレンツくんは「ああ、元気だったよ」と答えた。最後に会ってから一年と少し。私達の中で一番年齢が下だったリシテアちゃんだったけれど、きっと美しく成長しているんだろう。
すぐに封を開けてしまいたい気持ちに駆られるけれど、何だかどうしようもなく勿体なく思えて、部屋の中でそれを掲げた。薄闇の中に、グロスタールの印が見える。グロスタールに何かの用事があって訪れていたのかな、それで、そこで書いてくれたのだろう。「わあ〜」と思わず声をあげてしまったその時に、ほんの少しだけ隙間が開いたままの扉の向こうでローレンツくんが何かを呟いたから、私はそれを聞き逃してしまいかけた。
こんな夜更けに、非常識なことを言って悪いんだがと。
彼はそう言ったのだ。
その続きを聞くために息を止める。扉の向こうでローレンツくんが言い淀んでいるのが分かる。こんな時になぜか心臓が音をたてて煩い。このままではローレンツくんの声が、聞こえない。
ローレンツくんが続きの言葉を吐き出す。「……その、」音が籠って上手く聞き取れないのが煩わしかった。
「聞き流してくれても構わない」
彼は何か大切なことを言おうとしているのではないだろうか。直感でそう思ったからこそ、その時私は、ほとんど突発的に部屋の扉に手をかけていた。
だって、そういうのって顔を見て話さなくちゃいけないことだと思うから。
「君の顔を見せてもらっても、良いだろうか」
私が扉を開け放った丁度そのとき、彼はそう言った。
ローレンツくんと目が合う。まさか自分の言葉の途中で開けられるとは思ってもみなかったのだろう。目を丸くして、彼は私を見下ろしている。
背の高いローレンツくんを見るには、私はどうしても顎を持ち上げなくてはならなかった。けれどもう彼の隣に居るようになってから随分と時間が経っていて、だから私は、ローレンツくんと目を合わせるために必要な角度というのを、もうほとんど身体で覚えてしまっている。
寝間着姿で恥ずかしかった。寝台に潜って何度も寝返りを打っていた私の髪は見るまでもなくぼさぼさだ。だけど、ローレンツくんはそんな私を見て、その眦を細めたのだった。
私の顔が熱くなったのは、反射的に飛び出して、こんな姿を見られたことによる羞恥心が大きかったのかもしれない。すぐに扉を閉めて逃げたかったのに、なぜだか動けない。目も逸らせない。どうしよう。左手に握ったリシテアちゃんからの手紙を、ぎゅうと握りしめてしまう。
「……髪が伸びたな」
前会ったときから考えたら、そんなに伸びてはいないでしょ。
言いたいのに言葉にならなくて、口をぱくぱくと動かした後、私はなぜか「お、おかげさまで」と答えてしまった。ローレンツくんが一瞬目を見開いた後、短い息を吐いて笑ってくれたことだけが救いだった。
ローレンツくんがその言葉を、ずっと、吐き出せないまま自分の中で持て余していたのだと、このときの私は知らなかった。
ローレンツくんは、それから三日間ほどアレキサンドルに滞在してくれた。
ソフィーは大喜びでローレンツくんに抱っこをせがみ、オーランドは槍の型を見てもらっていた。あれだけローレンツくんに怯えていたノエルは、どうも彼の高身長が恐ろしかっただけらしい。膝をついた彼に恐る恐る近づいた後は、いつの間にか打ち解けて本を読んでもらっていた。兄弟みたいだと微笑ましく眺めていると、不意にローレンツくんと目が合ってびっくりする。
私の髪が伸びたと言ったけれど、ローレンツくんも伸びたね。言おうとした言葉は上手く出てこないから、笑って誤魔化した。
「わたし、あんた達のことは嫌いじゃないです。式を挙げるときは呼んでください」
あの時ローレンツくんから渡されたリシテアちゃんの手紙にはたったそれだけ記されていたから、思わず握りしめすぎて皺を作ってしまった。なんと返事をすべきだろう。ローレンツくんが帰るまでにはどうにか書き上げておきたいところだと思うけれど、何と返したら良いのか、今は見当もつかない。